住職に聞く!第十八回 たましいが顕れる行為

和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。

喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?

遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/


第十八回

――住職は、22歳のときに仏の実在を実感され、その後、「自分の感じている安らぎや喜びを、相手の人の心身に浸透させる」ことを無意識にされるようになった、とうかがいました。
どのように、相手の心身に浸透させるのか、そこのところを具体的に聞かせていただけますか?

住職:そう小難しいメッソドというわけでもないんですよ。
まずは、自分が仏さまの温かい大愛に包まれるようにします。

――どうやったら、そうなるんですか?

住職:この頃は、仏さまの姿を思い浮かべるだけで、たちどころにそんな状態になりましたから。

――へぇー。

住職:まず自分自身が、仏さまを想って、えも言われぬような、心身がとろけていくような快い状態になるわけです。
その上で、誰か相手に向かって、その霊的な温かい気を、ふぁーっと放射します。
いわば仏さまの大愛で、相手を包んでしまうんです。

――目の前にいる人に対してですか?

住職:通常はそうです。でも、向こうから僕に会いにやって来る、十メートル先の人なんかの場合もありましたね。

――相手は何か感じるのでしょうか?

住職:僕が感じている仏さまの温かさや快さに、無意識に包まれたと思いますよ。
そのように言語化された形での意識には登らなかったかも知れませんが。

――どうして、それがわかるんですか?

住職:当時はわからなかったですよ。
というよりも、相手か感じるかどうかなんて考えもしなかったんです。
何よりも自分自身でも言語化してやっていたことではないんです。
言語化して認識できたのは、その後、20年ぐらいたってからのことです。

――どういうことですか?

住職:その頃の僕は、そうした気の作用を本能的にやっていただけなんです。
それは、自分が感じている如来様の大愛の温かさ、快さや、また幸福感を、何としてでも人と分かち合いたかったのだと思います。

――今、「本能的」とおしゃいましたが、、、。

住職:はい。“僕が感じている大愛の喜びを感じれば、必ず人も仏の実在に目覚めるはずだ”と無意識に思っていたんです。
もっともその頃の自分が、こんな風に言語化して、意識していたわけではありません。
でも、今になってその時の自分の心を分析すると、そういえばそんな感じだったかな、と思うのですが。

――なるほど。

住職:ようするに、人を仏さまの大愛で包むことで、念仏修行の世界に目覚めてもらおうと無意識に思っていた。
それで、そうした気の作用を無意識にやっていた。だから、“本能的にやっていた”と言ったのです。

――はい、わかります。

住職:ただ僕は、こういうことをするのを、ある時期から止めてしまったんです。

――それはまた、どうしてですか?

住職:うーん、何て言ったらいいのかなぁ、、、? 
言いにくいんですが、まあそんなことしていると、妙に人に好かれてしまうんですよ、、、。
変な言い方で恐縮ですが。

――そんな快さを与えてくれる人がいたら、たしかにそうなるでしょうね。
でも、それが不都合だったんですか?

住職:まあ自分が人に好かれたり、高く評価される人間だなんて思ったことなかったしね。
何だか、居心地が悪くなって来るんですよ。根がアマノジャクだしなぁー。

――ふふふ。

住職:それに、僕がその頃憧れていたのは、山頭火や放哉なんかのような、孤独な放浪詩人たちの生き方です。
だから、いつも人に囲まれているなんていうのは、自分的には全然かっこよくないですよ。
だから一方では、“オレ、いったい何やっているんだろうなぁ?”みたいな感じもあるんですよね。

――なるほど、ねぇ、、、。

住職:そもそも目的が、僕自身が好かれたり尊敬されたりすることなんかでは、全然ないわけです。
動機は、人が道場に来て修行してくれること。ただ、それだけが唯一の望みなんだから。

――もともとの目的が、道場に若い人を集めた後に、二度と帰らない放浪の旅に出ることだったんですものね。

住職:それに、当時の僕の性格は、“自分は、人の期待に応えなきゃいけない”という気持が、とても強かったんです。
今よりももっと極端に。だから、だんだん大変になって来るんですよ。

――と、おっしゃると?

住職:僕としては、いろんな人に道場に修行に来て欲しくて、人を仏さまの大愛で包むなどの霊的な気の作用を行っていたのです。
それは、エネルギーを出して与え続けているわけだから、必ずしも楽なことばかりではありません。

――なるほど、気でサービスをしているようなものですね。

住職:その上、人に道場に居ついてもらおうとして、サービス精神旺盛にいろんなことをしてしまう。

――なるほど。

住職:でも、人がやって来るのは、僕の意図していたような道場での修行よりも、僕個人のそうした霊的サービスみたいなものを求めて、という場合が出てきます。
というよりも、どうしても、そちらの方が多くなってしまう。

――なるほど、それもつらいですね。

住職:あるいは、修行には興味ないんだけど、何だか面白いし、僕とはつき合いたい、という風な人も来たりとか、、、。
かといって、断るわけにもいかないし。

――まあ、そういうこともあるでしょうねぇ。

住職:ただでさえサービス精神旺盛だった僕は、人がいればいつもサービスしていなければならない状態に、ますますなって来るわけです。

――まあ大変。

住職:一番問題だったのは、どんどん人に「依存」されるようになって来たことです。
僕は、人々が利他的な生き方や、大愛に目覚める修行を勧めるためにやっていたのに、いつの間にか、皆さん僕から利他やサービスされるのが“当たり前”みたいな感じになってしまった。

――“あなたは私にサービスして当然”みたいになってしまったんでしょうか。
何だか、あり得そうな話ですね。

住職:さらに自分の意識としては、旅に出るための手段として、霊的かつ物理的に、一生懸命に人のお世話したりサービスしていたのです。
だから、何だか自分を偽っているみたいで、うしろめたさもあるし、、、。

――葛藤されたでしょうね。

住職:主観に過ぎる見方と言われるかも知れませんが、今になって思うと、僕のサービスによって集まって来た人たちの我の奴隷になって行くという構図が、どこかに生まれてしまったのではないかと思っています。

――そうかぁ。

住職:人が僕に依存し、彼らが僕から一方的にエネルギーをもらうという、アンバランス関係が成立する中で、僕が何よりもつらかったことがあります。

――それは、何ですか?

住職:彼らが、新しく道場に来た人に対して、まるで優しくなかったことです。
僕が期待していたのは、彼らが僕に扱われたのと同じように、他の新しい人に対して、共感や受容をもって大切に扱ってくれることでした。

――はい、わかります。

住職:僕は皆さんに、仏さまの大愛を他に与える人になって欲しいから、その見本として仏さまの大愛を実践していたのです。
だけど、その人たちは、僕への依存関係に安住してしまいました。
そして僕に与えてもらったものを、他の人に注ぐということはしなかった。
それどころか、道場に初めて来て心細くしているような人に対して、気を遣ってあげるということもしない。
これは本当に見ていてつらかった。結局僕だけがサービスするようなことになる。

――それは、残念だったでしょうね。

住職:僕は、道場に来たどんな人にも、“自分は道場では大切に扱われた”という気持を持ってもらいたかったのです。
これは人間である限り、いや動物にだって、絶対必要な感情なんですから。

――本当にそうですね。

住職:これは大切なことなんですが、道場に慣れていない人に対して、どのような気遣いを見せるかには、その人のたましいのすべてが顕われているように思います。

―続く―