住職に聴く!怒りの正体(2)

住職に聴く!

和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。
喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?

プロフィール

遠藤 喨及 東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください

怒りの正体(2)

 

アースキャラバン2017京都イベント 住職考案のゲーム「チャトランガ」コーナーで

 

-- 前回、怒りの正体について話をうかがいました。興味深いと思ったのは

「人は一般的に、相手を選んで怒りをぶつけている」という住職の言葉です。

その基準が「相手が状況上、立場上、あるいは性格上反発できず、自分の

ネガティブな感情の責任を負わせることが可能な場合に限ります」と、、。

 

 

住職: そうそう、、、。怒って相手を責めている方は「相手に責任がある」と

思っていますが、実際はその逆というのが面白いですね。

 

 

-- んー、そこを自分で気づくことはできるのでしょうか、、。

 

 

住職: 怒る人は、自分の弱い部分や傷ついた部分を守るために怒って

いるのです。だからお互いに怒っている状態なら、それは自分の弱さを守ろうと

して相手を攻撃し合っている、ということです。

 

 

-- 分かり合えっこない感じがしますね。

 

 

住職: でも、一方的に「相手を攻めたてる」という場合は異なります。

自分が内蔵している負の感情を相手に負わせているのです。

 

 

-- 親にしてみたら、これは自分の子どもですね、まさに。

 

 

住職: 子どもが自分の思い通りにならないのは当たり前のことです。

でも、それを「けしからん」と怒るか? あるいは、水のように受け入れるか?

「自分の思い通りにならないこと」をどのように対処するかは人によって

異なりますね。

 

 

-- 「けしからん」という程度ならまだ可愛げがありますが、全く理不尽な

怒り方をする人がいますよね。特に子供など無防備な相手に対して。

 

 

住職: はい。

 

 

-- 「怒りをぶつけることは、霊的には「自己の魔界の生贄になることを相手に

強要すること」とおっしゃっていましたが、それって、とても罪深いことですよね?

 

 

住職: 反論できない立場にある相手を責め立てるなら、それは、いじめと

さして変わらないですね。

 

 

-- 責めたてられる相手はまさに「生き贄」ですね。

 

 

住職: 実は人間には、自己のカルマを投影する生贄が必要なんですよ。

だからどの文化圏でも、古来より人柱のような生き贄がいたのです。

 

 

-- 宿命的に必要なんですね。そういう狂気みたいなものを、人間は

はじめからもっていると、、。

 

住職: 元々、生贄は人間相手だったのですが、やがて動物になり、最後は

人形などの象徴的なものに取って変わっていきました。もっとも、カルカッタの

カーリー寺院では、今でも動物の生贄を神様に捧げる儀式をしていたと思い

ますが。

 

 

-- 具体的な生贄の儀式は、今はほとんどないけれど、本来人間には

必要な儀式だということですね。

 

 

住職: はい。それで、連続幼女殺人事件(幼女を殺して儀式を行う)、サカキ

バラ事件(子供の頭部切断)、会津若松事件(母親の腹部に人形を埋め込む)

など、まるで生贄の儀式をやっているかのような、猟奇的事件が起こるのです。

いずれも、人類の生贄欲求の吐け口役を負わされた人が起こしたものです。

 

 

-- だからみんな、10代の人たちが起こしている事件なんでしょうか? 

 

 

住職:かも知れません。今現在、生贄的な行為は至るところで起きています。

クレーマーのように、モンスター化して怒っている人も、その一部かも知れません。

 

 

-- 相手の非をとても巧妙に(陰湿に)責めたてているのを見ると、その怒りが、

なにか得体の知れない闇からでてきてるなー、と感じていたんです。

 

 

住職: 生贄というはけ口を失った人類全体のカルマが、魔界からの使者の

如く、いろいろな人の心に立ち現れていますからね。

 

 

-- そうなんですね。

 

 

住職: その結果、今現在起こっているのが戦争であり、人為的飢餓であり、

死刑制度です。身近なところでは、いじめであり、クレイマーであり、また人々

のモンスター化でもあります。

 

 

-- 根源的カルマ解消の働きを為す生贄を持たない現代の人類は、一体

どうしたら良いのでしょうか? 

 

 

住職: 生贄は、象徴的に行われれば、それで十分なんです。例えば、ボクシング

やプロレスなども、一種の生贄の観賞行為と言えます。

 

 

-- ああ、そうですね。

 

 

住職:スポーツ、将棋、囲碁、チャトランガなど、勝ち負けのあるものは、

負けた人が一瞬、生贄役を為しているのです。手前味噌で恐縮ですが、

特にチャトランガは、戦場で相手を爆破する演技をしながらのゲームです

から、すべてが生贄解消に繋がります。

 

※チャトランガ・・・住職考案の「戦争ゲーム」

 

 

-- チャトランガは、怒りエネルギーの解消には良いのでしょうね。人々が

もっとチャトランガをやれば、モンスター化しなくてすみそうですね。

 

 

住職: はい!(笑)人を傷つけない生贄的な遊びが、もっともっと必要なんです。

 

 

-- “ぷんぷん”なんて聴こえて来そうな程度のかわいい、罪のない怒りなら

怖くなくていいんですけどねー。

 

 

住職: ははは、猫パンチみたいなのね。

 

 

-- でも、底知れない闇からでてきてるような怒りだと、やはり怖いです。

それをぶつけられ、責めたてられる方は、一体どのように逃れればよいの

かと思います。 住職なら、怒る相手に対して、どのようにされるのでしょうか?

 

 

住職: 相手が自分自身の闇に向き合えそうもなければ、たとえ自分に非が

なくても謝りますね。

 

 

-- 「自分に非がなくても」なんですか?

 

 

住職: 内在している怒りは、心の傷と同居していますからね。

 

 

-- ああ、そうでしたね、、。

 

 

住職: 怒っている人というのは、自分の傷を相手に理解してもらいたくて、

同じ傷を相手に負わせるのです。でも、それが叶うことは決してない。だから、

一種の自爆テロ行為とも言えます。

 

 

-- 分かる気がします。

 

 

住職: 怒っている相手に謝るというのは、「今までその傷を理解して

あげる人がいなくてごめんなさい」と暗にメッセージを送るためなんです。

 

 

-- どうして「傷を理解してあげる人がいなかったこと」を謝るのですか?

 

 

住職: 本来なら、両親なり身近な大人が理解共感して上げていればよかっ

たのです。でも、そういう人の元では育てられなかったから傷つき、怒りが内臓

している。で、なぜ僕がそれに対して謝るのかというと、その人を傷つけた周囲の

大人たちになり代わって、如来様に懺悔しているんです。また、“傷ついた時に、

守って上げられなくてゴメンね”というのもありますね。

 

--そうなんですか、、、。ところで住職は、怒ることってあるんですか?

、、、というのも、なさそうに見えるんですよ。住職には、個人的な怒りって

あるのでしょうか?「人間だもの」という言葉を聞いたことがありますが、住職

には個人的な、自分のための怒りはあるのでしょうか・・?

 

 

住職:これは個人的な怒りなのかどうかはわかりませんが、最近「タオ指圧&

サンガ念仏」のメソッドを教えている時に、相手に向かってではなく、自分の中

で、一瞬「怒り」が起きるときがあるんです。

 

 

-- そうなんですか、、?

 

 

住職: 僕は、宇宙の内奥から顕れて来たもの(如来さまから頂いたもの)を

お伝えしようとしています。ですが、相手がその深遠な内容をそのまま受け

取らないことがありますね。過去の知識を持ち出したり、浅薄な自我で

解釈したり、、、。

 

 

-- はい、、。

 

 

住職: 宇宙の内奥から顕れて来た教え(如来さまから頂いた法)は、その

まま受け取る必要があります。過去の知識や浅はかな知恵で解釈することは、

教えや法を貶めることになってしまうんです。

 

 

-- はい、、。

 

 

住職: 時に、期待値の高い相手が、そのような浅薄な受け取り方をすると、

その法を貶める言動に対して、自分の中で一瞬「怒り」が起きます。“なんで、

法を貶めていることがわからないんだろう!”って。

 

 

-- はい。

 

 

住職:でも念仏修行者は、「人に対してどう振る舞うか」に責任があるんです。

なぜならそれは、「人が如来様をどう思うか」に直結するからです。もし僕が

怒っているのを人が見たら、人は如来様をどう思うでしょうか?「如来さまは

怒りっぽいイヤな奴に違いない」と思ってしまいます。それでは自分の行為が、

法を貶めていることになります。

 

 

-- 確かに、そうかもしれません、、。怒りっぽい人に「お念仏素晴らしい

ですよ」と勧められても説得力ないですものね、、。

 

 

住職: だから僕は、人にはなるべく怒らないようにしているんです。一瞬でも

怒ってしまったら、その時はやはり恥ずかしい想いをします。

 

<アースキャラバン京都での出店者との交流>

インタビュー後記

住職の話をきいていると、住職の怒りは、個人的なものではないような

気がします。

 

ですが、自分も含めて他の人の根の深そうな怒りを見聞きすると、

たいていは「闇」の存在を感じます。闇に個人的というものがあるのかは

わかりませんが、個人的な動機を感じるというか、、。

どんなに相手に正当性があるように見えても、その怒りには「納得できな

い!」とこれまた怒りで応戦したくなるわけです。

これも虚しいことですが、、、。

 

この場合、私は自分が納得できるかどうかを問題にしているのですが、、住職の

この言葉には考え込んでしまいました。

 

「相手が自分自身の闇に向き合えそうもなければ、たとえ自分に非がなくても

謝りますね。」

 

・・・そんなことしたら、なんか損した気がする、、。と思う自分を否定できません。

ですが、住職の次の言葉 「・・・なぜ僕がそれに対して謝るのかというと、その

人を傷つけた周囲の大人たちになり代わって、如来様に懺悔しているんです」、また

「傷ついた時に守って上げられなくてゴメンね、というの、あります」

、、、人という存在に対する根源的な優しい視線を感じ、自分の即物的なものの

考え方を省みる機会になりました。

 

どうしたら、本当の意味で闇に向き合えるのか、怒りの本性に向き合えるのか、、

次回聞いてみたいです。

 

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