住職に聞く! 第六回 宇宙大霊たる如来は、どこに在(ましま)すのか?

和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ喨及(りょうきゅう)さんです。

喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。

一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?

遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/


第六回

――神や仏を信じる信じない、信仰を持つ持たないも、個人に選択の自由があると思って、
私たちは生きています。

「自分を信じて」という言葉も、この頃では、ほんとうによく耳にするようになりました。
これは、生活実感の中に、宇宙大霊(如来)との関係がないか、希薄だからなのではないか
と思うのですが、どう思われますか?

住職:一体、宇宙大霊たる如来は、どこに在(ましま)すのか?
それは、私たちの主観にでも、客観世界にでもありません。
言わば、主観と客観という、相対を超えた絶対の世界。
そこが如来の在(ましま)す処です。
それが実感されなくてはなりません。


――ということは、相対を超えなければ、如来の実在は実感できないということですね。 

住職:現代人は、2つの点で、如来実在の実感から疎外されています。
ーつは、“主客を分離した、自然科学的なものの認識が正しい”という思い込み。
もうーつは、損得勘定を人生の指針とした生き方です。
というのは、相対の基本は、自他、すなわち自分と他者などの外的世界との関係です。

そして、自他が分離すればするほど、主観と客観は、対立的なものになります。
それで、大霊の存在が、感じにくくなるのです。


――でも、最初は、大霊の存在は実感できなくても、ご縁があれば、仏教への信仰は与えられるものなのですね? 

住職:佛への信仰を持つに至ることができる人は、過去世からの仏縁の深い人であると、経典で説かれています。

考えてみて下さい。
たとえご縁があっても、心という因がなければ、信仰を持つには至りませんよね。
因縁和合しないと、ものごとは成立しないのです。


――なるほど、縁あって誰かと出会っても、お互いに好きになる
という心の因がなければ、結婚までは至らないようなものですね。


ところで、佛への信仰を持つことができる人というのは、すでに、決められているのでしょうか?                                

住職:すでに、決められていることが宇宙にあるとしたら、
これほどつまらないこともないと、個人的には思いますが・・・

さあ、どうでしょうか?


――縁があって念仏することと、信仰を持つことというのは、違うことなのですね。

住職:弁栄上人は次のようにおっしゃっています。
「男と女が結婚して子供が生まれるように、人が仏と結ばれて仏子が生まれる。
しかし、無事生まれることもあれば、信仰が流産することもある。」、と。

また、「念仏とは、卵の殻の中にいるひな鳥(人)と、親鳥(仏)が、
殻の同じ部分を突っつき合うということだ」。
さらに、「無事に殻(我)が割れたら、誕生する(目覚める)。
すなわち、ひよこ(仏子)が生まれたのが、信仰が生まれたということだ」、と。

――なるほど。

住職:さらに私なりに付け足すと、次のようになります。

「信仰という子供が生まれ、その子が、無事に育つこともあれば、志半ばにして夭折することもある。

また子供が、次の世代を育てるほど立派な大人に成長することもあれば、道を踏み外してしまうこともある。

しかしいずれの場合も、何世代にも亘る生まれ変わりを繰り返しながら、仏の世界に向かっていく存在であることに変わりはない。」


――自分が、念仏に出会ったことで、「私は信仰を持っている」といえるのか?
と考えることがありました。これが、過去生からの因縁と聞いたり、
またそのような例え話を聞くと、何となく納得するところがあります。


ただ、そこで「法を広める(弘通する)とは、どういうことなんだろう・・」と、あらたな質問が自分の中に芽生えていますが・・。

住職:伝道しないキリストがいないように、法を広めないお釈迦様もいないのではないでしょうか?

そもそも教えを広めたからキリストはキリストなんだし、またお釈迦さまも同様です。


――伝えて下さったから教えがあるし、信仰を持つことも修行することもできるということですね。

住職:人が人に伝えることなしに、仏教などの精神文化が成立すると思うこと自体が、そもそも間違いです。

これは、個が、“他を切り離した個として独立的に存在できる”と思い込む、現代人の幻想とは無縁でないように思います。


――なるほど、どのような文化も、伝え手を抜きにしては、存続し得ないですからね。

伝統工芸だって、弟子を取って創り手を養成しなければ、消滅してしまいますものね。

住職:神道のような民族宗教であれば、七五三などのように、日本の風習や文化と密接に関わっているので、日本民族が存続する限り絶えることはないでしょう。
また、ヒンズー教やユダヤ教もしかりです。

しかし、キリスト教や仏教は、ユダヤ教やヒンズー教の伝統を超えて生まれたものです。
だから、元々が、弘通抜きには、存在し得ないものと言えます。

もっとも、現在のように、キリスト教や仏教が、単なる風習と化し、精神が死んでしまえば、
もはや私たちの霊的欲求を満たすものではなくなります。
そういう意味では、現代は仏教の危機というよりも、精神文化そのものの危機ともいえます。

先に述べたように、私たち現代人は、自然科学の思い込みを信じ、また、損得勘定や勝ち負けを人生の指針にしています。

このため、自他の分離が強く、幸福感が希薄なのです。
また、大霊の実感も希薄なのです。

このように、自他一如の生命感覚は、幸福感と結びついているだけではありません。
大霊実在の実感もまた、そこから生まれます。

また、人を修行や信仰に導くのは、相対を超えた大霊が実在するという”予感”に他ならないのです。


――人によって、その予感がはっきりしている人と、そうでない人とがいるのですね。
芸術にしても、作品を素晴らしいと感じるだけの感性を必要としますものね。

それにしても、もし人類が、精神文化が完全に絶えた世界に住むことになったとしたら、まさに魂の砂漠に生きるようなものでしょうね。

住職:現代は、物質文明は栄えているけれど、案外、それに近い状態と言えるかも知れません。

――
「私は何も信じない」と言う人がいますが、もしかしたら、心は砂漠のような状態かも知れませんね。

住職:今まさに、私たちは、霊的飢餓の時代に生きています。
霊的飢餓状態だからこそ、栄養にならないものや、時には腐ったものにまで手を出してしまっているのです。

あるいは、化学調味料になれて、本物の味がわからなくなっているということもあるのです。

―続く―