住職に聴く!2024年3月号

“親鸞は弟子人も持たず” and ”あなたの隣人を愛せよ”

 

ーー 前回のインタビューで

私は、「数十年もの長きにわたって

住職が、道場に来た人の幸福への責任感と

行って来られたことに対して、

私は何度も言葉を失ってしまいました。」

と述べました。

 

そして、「果たして私自身は、どこまで

その想いに応えるように生きて来たのか」、

 

「もし、住職の弟子を名乗るならば、

住職が身をもって示して来られた教えを、

自分自身は、果たしてどこまで自らの

生き方として来たのだろうか」と、

さらに後記で述べました。

 

住職: 本来の意味から言えば、

弟子というのは、例えば大工さんであれば、

師匠と同じように家を造ることですからね。

 

ーー 最初は見よう見まねでも、

同じようになっていくことですね。

 

住職: 僕の中にあったのは、

「僕があなたの幸せに責任を持って

接しているように、あなたも道場に

来た人の幸せに責任を持って接して

くださいね」ということです。

 

その1点だけが、願いの全てでした。

 

ーー そうですよね。

 

住職: 二十歳の頃、数年間、

修行コミュティを創っていた時期が

ありました。

この時のスタンスも全く同じでした。

 

ーー 以前、住職から聞いたことがあります。

何というか、、すごい、と思いました。

 

住職: こんな当たり前のことが

「すごい」と思われるというのは、

正直、残念ですが(笑)。

 

二十代の時も、完全に挫折しました。

それ以降は10年ほど、

一人で孤独な修行を続けていたんです。

 

ーー 残念に思わせててごめんなさい(笑)

当たり前のことが当たり前じゃなかったです。



住職: 人間の心に対する夢が

どうしても捨て切れずに、

僧侶になって活動を再開したのです。



ーー はい、、。

 

住職:  それでこの30年、

ずっとそうして来たのですが、

自分は間違っていたと思います。

 


〈パレスチナで アラーを讃える村の長老と〉

 


<アースキャラバン京都で>

 

 

ーー え〜、そうなんですか!!? 

間違っていたと?

 


〈ヨーロッパの教会で〉

 

 

住職: これ、言語化するのは難しいんですけどね。

 

ただ僕のキライな、いわゆる

「宗教」においては、

人を一定のカテゴリーに入れ、

「xx教」の信者、また修行者と呼びます。

 

それは知識、行動、そして霊界や死後の

イメージを共有している人たちのことです。

 

ーー あ、そうですね。

 

住職: 知識というのは、例えば、

聖書に書いてある教義等です。

 

そして行動というのは、”洗礼を受け、

日曜日には教会に行く”などです。

 

さらに、”霊界には天使がいて、

死後は良いことをしていたら天国にいく”

と何となく思っているなら、

キリスト教徒というアイデンティティを

共有するのですが。

 

ーー なるほど。

 

住職: でも、例えば、

聖書に書いてある

”あなたの隣人を愛せよ”という

教義を知っていて、

日曜日には教会に行っていたとしても、

周囲の人を幸せな気持ちにしていなければ、

どうでしょう?

 

ーー う〜ん。

そうですね〜、、、。

 

住職: イエスが死を賭して遺した教えは、

神の愛を共有することだったのですけどね。

 

ーー 、、そうですね。

愛の教えは共有されていない、と。

 

住職: 人生は

「どうしたら自分が得するか?」

を学ぶためではなく、

「人への愛」を学ぶためにあります。

人への愛とは「人を幸せにしたい」

という願いです。

 

ーー はい。

 


〈アースキャラバンのイベントで、4大宗教の方々と〉


〈エルサレムで ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の方々と〉

 

住職: だから、宇宙の法則として、

人は、「他者を幸せな気持ちにする分だけ、

自分も幸せな気持ちになる」ようにできて

いるんです。

 

ーー なるほど。

そうなんですね。

 

住職: でも、実践がなければ……

 

ーー 知識として知っているだけになりますね。

 

住職: ただ、ここで言っている『幸せ』

というのは、よくSNSに投稿されている

ような、「人に褒められて嬉しい、幸せ!」

とか、「人からプレゼントもらって

褒められて嬉しい、幸せ!」とかの

一過性のものではありません。

 

根源的な幸福や喜びです。

 

 

ーー あ、そうなんですね。

 

住職: 目に見える物質の奥には、

根源的な幸福や喜び(如来=神)が

存在するんです。

 

しかし、根源の存在(幸せ=如来)を

予感できなければ、幸せ欲求も起こらない。

 

「得たい」とも、「人に与えたい」とも

思わないことでしょう。

 

 

ーー そうですね。

一過性のものを

「幸せ」と思ってしまうのでは

ないかと思います。

 

住職: ブッダガヤでのスピーチで

僕が冒頭に言ったことは、

「僕にとって人生最大の喜びは

人の利他心に触れることです」でした。

 

 

ーー はい。

 

 

住職: それは僕が、

人に如来(神さま)の

存在を感じてもらおうと、

ずっと生きて来たからです。

 

また人は、利他に生きた時、

根源的な幸福や喜びである如来(神さま)

存在を感じることができるんです。

 

だから僕は、人の利他心に触れると、

本当にホッとするのです。

心が安らぐのです。

 

人が如来(神さま)の存在を感じ、

その愛に生きるようになることで、

僕の魂は生きていけるのです。

 

ーー 私はいったい、

これまで住職の話の何を聞いてきたのか、、

 

なにも、聞いてなかったです。

 

利他に生きたいと願うことと、

利他に生きることは、別ものでした。

 

 

住職: 自分の救いを求める信者と、

一切に悟りをもたらしたいと願う修行者の

心は異なるので、ある意味、

仕方ないですね。

 

その別が分からなかった僕の問題です。

 

ところで、弁栄聖者の最後の言葉は、

『如来が在しますことを衆生は知らない。

それを知らせに来たのが弁栄である』でした。

 

ーー はい。

 

住職: ただし、座って修行している

だけでは、大乗的な真の悟りは得られない。

 

いかに人の幸せに責任を持って

接するかという、日常の行が不可欠です。

 

弁栄聖者も人に対して、

ありとあらゆるケアをされていました。

 

ーー 住職がされてきたことも、

弁栄聖者がされてきたことも、

ただただひとえに如来の存在に

気づいてもらおう、

ということだったんですね。

 

 


〈弁栄聖者〉

 

住職: 如来は、物質の奥にある根源的

実在であり、幸福や喜び、創造の源泉

です。

 

そして「人を幸せにしたい量が、

イコール自分が幸せになりたい量」です。

 

また、如来の大愛に生きたい量です。

 

ということは、「人を幸せにしたい」

という欲求が起こらない限り、

自分が「真に幸せになりたい」という

欲求は起こらず、「如来の大愛に生きたい」

という欲求も起こらないのです。

 

 

ーー そういうことになりますね。

これも、思い当たるふしがあります。

 

住職 : 大愛の見本を示すために

ケアしたとしても、その人に「大愛に

生きたい」という願いがなければ、

ただ「ケアしてもらって良かった」とか

「話を聴いてもらって良かった。」

だけになります。

 

修行が長いから、もう他の人をケアして

欲しい、他の人の話を聞いて欲しい、

如来の大愛を他の人に表して欲しいと

思って促しても、逆に「何でもっと

ケアしてくれないんだ!」となります。

 

ーー なるほど。

 

住職: そもそも、

「自分が人からケアされたい」

という欲求よりも、

「自分が人にケアすることで、

如来の大愛をわかって欲しい」という

『弘通への欲求』の方が強くならない限り、

人をケアする側になることは無理だったん

ですね。

 

ーー そうなんですね。

 

いま、うかがって、はっとしました。

 

 

住職: 「道場に来た人の幸せに責任を

持って接していれば、如来の大愛を感得し、

根源的な幸福や喜びである大愛が湧く

ようになる」というのは、

修行メソッドと共に、

いわゆる『教え』の1つでした。

 

ーー はい。

 

住職: だから僕は、その宇宙の法則、

そして大愛に気づいてもらおうと、

修行が長い人に対しては、

時には直面的に促して来たんです。

 

それは、”ほら、こうしたら幸福感、

大愛が湧くよ”という

幸福、そして大愛への誘い」です。

 

あるいは”一緒に楽しいことしようよ”

という「大愛の喜びの共有」です。

 

他の意図は、一切なかったんです。

 

しかし、幸福や喜びを創造する根源や、

如来(神)の大愛の存在を予感していない

と、それらは「幸福への誘い」や

「喜びの共有」

とは認識されません。

 

逆に、「〜しなければならないこと」

として、まるで「課せられた義務」

のように認識してしまうのです。

 

 

ーー それはそうですね。

 

 

住職:  弘通のためのワークも

「大愛を分かち合う自己の使命」として

認識されていないと、

「頼まれたこと」になってしまいます。

 

それはやがて「課せられた義務」と

感じるようになります。

 

そして、何か気に食わないことがあれば、

怒りを造成していくのです。

 

その心理プロセスが、僕にはまるで

分かっていませんでした。

 

大愛を体験してもらうために言ったことが、

義務や、頼まれごととして認識されていた

気づいた時には、本当に驚きました。

 

大愛(=幸福)と義務は真逆ですから、

まったく僕の想像の範囲外でした。

 

 

ーー そうなんですね。

 

住職:  まあ僕に智慧が足りなかったと

言えば、それまでの話ですけどね。(笑)

 

僕が、その人に「大愛に気づいて幸福に

なって欲しい」と思えば思うほど、

そしてその人の幸福に責任感を抱けば抱く

ほど、(つまり「幸福、大愛への誘い」を

すればするほど)受け取る側にしてみたら、

「課せられた義務」が強くなったように

感じり、不快に感じてしまっていたの

ですね。

 

僕は全く愚かで、そんな風に取られていた

なんて思ってもみませんでした。

 

これまで僕が受けてきた反発は、

そこにあったんですね。

 

 

ーー ああ、、なるほど、、。

 

 

住職:  それに気づいた時点で、

正直どうしたら良いのか

分からなくなりました。

 

お釈迦さまなら、良い智慧があるのかも

分かりません。

 

しかし今の僕には、如来にお任せする以外

道が見つかりません。

 

ただし、 タオ指圧の臨床を行うというの

は、患者さんの癒しと幸福に責任を持つと

言うことです。

 

タオ指圧の臨床を学ぶなら、

人の幸せに責任を持って接する人になる

必要があります。

 

クラスに来ている以上、その人が本物の

タオ指圧ができるようになる責任を

僕は負っています。

 

またそれが、ご本人に根源的な幸福と

喜びである大愛を湧かせることにもなり

ます。

 

だからこそ、「僕があなたの幸せに責任を

持って接しているように、あなたも道場に

来た人の幸せに責任を持って接してくださ

いね」(大愛の存在に気づいて、

大愛に生きてくださいね)

と言う一点、ただその一点だけが、

僕の願いだったのです。

 

 

ーー はい、、。

ですが、理解されない人もいるのですね。

 

 

住職: 僕にとって大愛の共有とは、

イエス様の教えである、

「あなたの隣人を愛せよ」です。

 

僕の「人(場)の幸福に責任を持って

くださいね」というメッセージは、

「あなたの隣人を愛せよ」の焼き直しで、

あらゆる教えの基本ですけどね。

 

願わくば、人間としての……。

 

 

ーー あ、そうですね。

 

 

 

 

 

住職: ところで最初の話に戻せば、

学びには、自分の救いを求める信者

(在家)から、何回生まれ変わっても

菩薩を行じる仏弟子(出家)まで、

様々な異なるレベルがあります。

 

これまで僕は、人の魂にレベルの違いが

あることを認めたくありませんでした。

 

誰にも如来(神)様は内在しているし、

エゴさえ落とせばそれが光り輝いて

顕れて来るはずですから。

 

ーー それで、

なるべくフラットな関係を

目指されて来たんですね。

 

 

住職: いつしかその人から、

内在の如来(神)が顕れる。

 

僕にはそれが観える。

 

だから、讃嘆の想いで接して来たし、

それが故に、時にはエゴには直面的に

接したんです。

 

しかし、ご本人がそれを理解する心境からは、

ほど遠い場合があります。

 

 

ーー はい。

 

 

住職: 理解するようになるのが、

何回も後の人生かも知れません。

 

内在の如来(神)を観ている方としては、

とても残念です。

 

その人の無意識の中に入り、内在の如来

(神)の側から直面しても理解されない

のは悲しいです。

 

 

ーー 住職に見えていても、

本人にその予感や心が満ちていなければ

どうしようもない、ということですね。

 

住職の想いは、理解されない、、、。

 

 

住職: それでも、出来得る限り最高の

光明や大愛を分か合いたいと思ってやって

来たんです。

 

また、それが責任だと思ってきました。

でも、繰り返しになりますが、

「自分が人からケアされたい」

という欲求よりも、「自分が人々をケア

することで、如来の大愛を人々にわかって

欲しい」という”弘通”への欲求の方が

強くならないと、自我という家を護り

ながら修行する在家から、

自我という家から出た、

本来の意味での「出家」

には向かえないんですね。

 

そして本来、在家修行者というのは、

それで十分なんです。

 

道場でケアされる人、話を聴いてもらう人、

それ以上のものを、「さほど幸福を求めて

いない、与えたいと思っていない、

如来の大愛に生きたいと思っていない人」

求めた僕の方が間違っていたと思います。

 

 

ーー 、、、。

 

 

住職: そもそも人には、それぞれ

「自分が幸福になりたい=

人を幸せにしたい」

量、如来と融合したい量、

「大愛に生きたい」量が

あります。

 

これからは、各自の分に応じて修行なり、

幸せなり、如来と融合して頂ければ良い、

と思っています。

 

ただし、最高のもの

(メソッドや方法論など)

を用意だけはしておきます。

 

その扉を開けるかどうかは、

その人次第です。

 

 

ーー そうなんですね、、、、。

 

 

住職:  僕がどんな気持ちで言っているか、

やっているかも含めて、理解したい人

だけが理解すれば良いのです。

たとえそれが何百年先であろうと

構いません。

 

いつか人類に届けば良いと思っています。

それがどこかの星で、たとえ何億年先で

あったとしても。

 

 

ーー なんと言っていいのか言葉が

見つかりません。

 

ですが、自分次第という本来の人間のあり方を

示していただいたことで、これまで住職に

甘えすぎていたということが、わかりました。

 

 

住職:  もし、真に道を共有している

弟子であれば、甘える側でも、

話を聞いてもらう側でもないですよね。

人を甘えさせる立場、

人の話を喜んで聞く側です。

 

臨床家でなければ、僕はどちらでも良い

と思いますよ。

 

ところで親鸞上人は

「親鸞は弟子一人も持たず」

と言われました。

 

これには、とても深い意味があります。

 

というのは、親鸞上人御自身も、

個々の信者が信心を続けるか

捨てるかについて、

”すべては阿弥陀様の計らいである”と

されたんです。

 

信者各自が信仰を持つか捨てるかは、

ご自身の責任として引き受ける

ものではない、と。

 

 

ーー そうなんですね。

 

 

住職: 遠くの村から何日も歩いて、

親鸞上人に質問しに来た信者たちが

いたんです。

 

彼らに対して親鸞上人は、

「私は法然上人の教えを信じているだけ

です。

 

それ以外の話はありません。

 

この答えで、あなたたちは信心

を捨てるかも知れません。

 

でも、人が信心を持つか捨てるかは、

阿弥陀さまの計らいなのです。」

と言われたんです。

 

ーー そんなエピソードが

残っているんですね。

 

住職: 今となっては、

そのお気持ちが本当によくわかります。

 


〈親鸞聖人〉

 

 

 

ーー これから住職がされようとしている

ことは何でしょうか? 

ベルギーのブリュッセルに行かれていた

そうですが?

 

 

住職:  それはまた、次の機会に……

 

 

インタビュー後記


今回のインタビューでも、言葉を失いっぱなし

でした。

本末転倒をしていたことが、恥ずかしい、、。


「学ぶ」(生きる)ということの意味を

はき違えていました。

インタビュー中は、思わず逃げ出したくなる

こともありました。


わき上がる言い訳に自分で辟易して

しまったり。

 

ですが、きびしいのは当たり前です。


我に負けている場合ではありません。

 

住職は、長きにわたって、道場に来る人や、

タオ指圧を学ぶ生徒さんに幸せになって

もらいたいと、また、生徒さんにも他の幸せ

ために生きてもらいたいと、願い続けてい

らした。


僧侶になる前からずっと、

そうされていらした。

他と隙間なく向き合われ、

存在そのもので、

「願う」とはどういうことかを、

示し続けてくださいました。

いまも、です。



住職は、「特別」に、他のための思いが

人一倍強いのだ、ということを、

書きたい誘惑に駆られます。

ですが、そうではないのです。

「あなたも、そうなれる。」


「真のあなたも、そうなんだ」

「他と分かち合うものは、

あなたに、すべて与えられている」

これが、住職のメッセージです。

 

教えを、享受し消費するだけでは

弟子ではなく、教えに真に生きてこそ弟子

と言えるのだった……

十分、最高の教えをいただいてきたの

ですから、これからは、

自分次第なのです。

最高の教えをいただいている

ということは、

世界を最高に素晴らしいものにできる

可能性がある、ということです。