住職に聴く! タオサンガ篇(3)

和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。

喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?

遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/

 
タオサンガ篇(3)

 

--真理の中には我が楽しむものはないけれど、かえってそこに永遠の喜び、安らぎ、そして平和がある・・・前回住職はそう話されていましたが、それをイメージするのはとても努力がいる、、ように感じます。

住職: えーっ! そうなんですか?

--きっと、我の喜びに慣れすぎているのでしょうね、、、。

住職: そうなんですかね? だって自分が何かやったことで、子どもたちとか人が喜んでいるのを見て、それで喜びや安らぎを感じることなんて、誰だってあるじゃないですか。別にそんな深い話でもないですよー。

--ついそんな風に考えてしまうなんて、私らは力が入り過ぎているかも知れませんね。

住職:(笑)

--和田寺のタオサンガ道場では、様々なことを通して心の実相、人生の実相、宇宙の実相を学びますよね。ただ一番大変なのは、我と向き合うことなのではないかと、私は思うんですが、、、。

住職: たしかに、エゴとの向合いを乗り越えられず、人生の宝を得ることなく撤退していく人は多いですね。

--そうなんですか、、、。

住職: 最初の内はそんなに大変ではないんですよ。

--世話する側というよりは、お世話してもらう側ですしね。たしかに、そういう立場でいれば、エゴとの向き合いはありませんね。とても楽しいし、道場では、嬉しいことも多いと思います。

住職: ただタオサンガの活動は、マザーテレサのハウスと同じで、利他の修行をする場ですからね。いずれ活動するようになれば、エゴとの向き合いは避けられなくなります。

--そうなんですね。

住職: マザーテレサのところだって、当然そうだったと思いますが、利他をする人になれば、エゴとの向合いは避けられないのです。

--それは、なぜなのでしょう?

住職: 人間の無意識には、佛さまのようなあらゆるポジティブなものから、鬼や地獄のようなネガティブなものまで、すべて内在していますからね。

--すべてなんですか?

住職: はい。ひとりの人間の中には、宇宙のすべてが内在しています。ひとりの人間は、あらゆる世界一切の顕われなんですよ。

--はい。

住職: お釈迦様の教えの基本である「諸法無我」(“独立した個というものは存在しない”)は、このことも意味しているんです。

--はい。

住職: 宇宙の構造上、人が利他に向かう時は、その真逆のエゴが自然に浮き彫りになるんですよ。

--どうしてなんでしょう?

住職: 宇宙の根源は一元なる霊体で、それは世界に相対性として顕われるんです。その相対性は、鏡に向き合うようにして顕われるんですよ。

--利他をする人は、鏡に向合うように、利他の真逆であるエゴに向き合わされるんですね。なぜなんですか?

住職: 真逆の魔性と向き合うからこそ、同時に、神なり佛と対面することになるからです。心理学者のユングが、神と悪魔が無意識の根源において一なるものであるというようなことを言ったのは、このことなんです。

--ああそうなんですか。神さまや佛さまと対面することは、自分のカルマと向き合うことになるのですね。   

住職: 一なる宇宙の霊体は、二枚の鏡が合わさったように、無限に真逆を反映し合うような構造を造っているのです。

--マザーのハウスで修行していたような人も、そのようなことを体験するのでしょうね。きびしいものがあるのですね、、、。

住職: 神に対面し、同時に自らのエゴに向き合う時、人はどう反応するか?
それは、人によって違います。エゴを乗り越えて、より深く利他の道に進んでいく人もいれば、エゴを守るためにハウスや道場から撤退する人も、当然出てきます。

-- そうでしょうね、、。

住職: でも撤退した場合は、自分のエゴを守るために、撤退を正当化する必要がありますよね。

--やめてしまったことを後ろめたく感じる自分への言い訳ですね。

住職: そこで、ハウスのことを悪く言ったりする人も中には出てくるのです。かつてそういう人が多かったので、ハウスでの長期の受け入れを簡単にはOKしなくなったと聞いています。

--そうなんですか、、、。

住職: ダライラマについて詳しくはわかりません。でも、日本でダライラマを賞賛する人が、ダライラマのサンガで修行や活動をしているというわけではないでしょう?

--まあ、そうでしょうね。

住職: 真の師匠ならば、弟子の成長を促すため、わざとエゴに挑戦するようなことをして、心に負荷をかけるでしょうしね。そういう心の挑戦もなく、ただ芸能人的にテレビで観ていたり本で読んでいるだけであれば、エゴは安全です。自我が守られている限りは、前回おっしゃったような宗教アレルギーは起きないのではないですか?

--アレルギーというのは、自我が脅かされることによる反応なのですね。

住職: 僕の表現がちょっと稚拙だったですね。宗教アレルギーが、必ずしも自我が脅かされることによる反応とは言えないんです。だって、「あなたの先祖のたたりのお祓いに3000万円って言われたらどうしよう〜」とかって想うのは、アレルギーではなく健全な反応ですからね。

--はい。

住職 : ただその一方で、「あなたに何かあったらどうします!?」って生命保険会社のCMで脅されるのって、「将来、恐ろしいことにならないように500万円の壷を買いなさい!」って言われて買っているのと、どこがどう違うんだろうか? なんて、僕なんかは思っちゃいますけどね、ははは。

--確かにそういう見方も可能ですね、、、。

住職: 問題は宗教アレルギーにあるのではないと思いますよ。マスコミを信じる、政府を信じる、大企業を信じる、社会的権威のある人を無条件に信じる。これもカルトみたいなもんではないですか? その際、教祖はテレビに出る学者やタレントや政治家だったりするわけで、、、。

--んー、、、、。

住職: 一番の問題は何か? 自分が目にしている社会、自分の生き方に対して、疑問を持たないことではないでしょうか? たとえ疑問を持っても、日常に流されて、何ら行動しないことではないでしょうか?  目に映るものだけを信じる生き方ではないでしょうか?  真の問題は、永遠なるものを求めようとしないことではないでしょうか?

--それは、やっぱり、存在の根源は物質だという世界観からきているのではないでしょうか? そんな気がします。

住職: まあ、くどいかも知れないけど、僕は言いたいんですよね。
人生を真剣に生き切ることなく、目に見える世界だけを信じ、世間に殉じて生きることに何の意味があるんだろうか?、と。 それこそ、国家カルトや世間カルト、マスコミカルトに入っているようなものじゃないかって。

--そうですね、、。

住職: 繰り返しになって申し訳ないですが、「500万円の壷を買わされるのではないか?」と恐れるカルト・アレルギーは健全なんですよ。
でもその当人が、世間というカルトにどっぷり浸かっていたりするということです。

--はい。どっちも同じじゃないか、と。

住職: そのような人が、永遠に通じる道の話を聞いたとしても、「宗教」という言い方で、国家カルト、世間カルト、マスコミカルトに殉じようとするんですよ。

--ああ、なるほど。健全な道を霊感商法と同じ扱いにすることで、カルトに殉じている自我を守るということなんですね。

住職: 人間って面白いな、と思いますね。高額なセミナーを批判する、健全な市民を自称する人が、自分の子どもを友だちと遊ばせもせず、高額な塾に通わせたり、とかね。ああ、でもこんなこと言ったら、また怒られちゃうな。

--子どもが受験に落ちたらどうするんだ!?、とか、生命保険に入らないで何かあったらどうするんだ!?って。

住職: はい、やっぱり宗教は危険ですよ。(笑)

 

インタビュー後記

「一番の問題は何か? 自分が目にしている社会、自分の生き方に対して、疑問を持たないことではないでしょうか? たとえ疑問を持っても、日常に流されて、何ら行動しないことではないでしょうか?  目に映るものだけを信じる生き方ではないでしょうか?  真の問題は、永遠なるものを求めようとしないことではないでしょうか?」

住職のたたみかけるような(?)問いかけに、思わず考え込んでしまいます。
とりあえずの相づち的な返答しか返す言葉がありませんでしたが、、、。

この問いかけに対して真摯な気持ちでひとつひとつ向き合いたいと思いました。
自分自身が宇宙一切の顕れだとしたら、住職の問いかけの答えも自分の中にあるはずなのですから、、。

おそらく、「いつか時間ができたら考えよう」というのは、考えるつもりがないということ。「人生、大変なことは、何ごとも起きませんように」と願う人にとっては、住職の言葉は悪魔のささやきですらあるのではないかと思います。