和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。
喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?
遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/
第八回
――住職は、18歳のころに、音楽演奏中の神秘体験をきっかけに、
念仏三昧の行に入ったとうかがいました?
住職:いえ、そんなに、すんなりと念仏に目覚めたというわけじゃないですよー。
――と、おっしゃると?
住職:ティーンエイジャーの頃は、ロックやってギターを弾いていたんですが、とにかく滅茶苦茶だった。
どこにも身の置き所がなくてね。
酒やタバコどころか、催眠効果のある鎮痛剤をボリボリ齧って、何日も酩酊状態になったりしていました。
その頃、自分で付けたからだの傷なんて、いまだに残ってますよ。
――そうですか、、、。
住職:ひどい時には、記憶では、どう考えても3日しか経っていないのに、カレンダーを見ると、四日経ってたというのが、ありましたね。
苦しまぎれに、ずっと酩酊状態だったんです。
いつの間にか一日増えているんだけど、一体何やってたのか? 全く記憶がない。
さすがに、ちょっと焦りましたね。
で、しまいには全身に蕁麻疹が出て、目も半分開けられない状態が一週間ぐらい続いて、、、。
でも、家出中で保険証もお金もないから医者に行けない。
それで、高校の保健室で治療受けたりしていましたよ。
――そんなに、だったんですか?
住職:一番ひどかったのは、16―18歳の頃です。
存在していること自体が、つらくて耐えがたい。
そんな状態になると、生きていること自体が、ただ苦し過ぎ悲し過ぎて、まず、普通の日常生活は送れなくなるのです。
――そうなる原因というか、理由の自覚はあったのですか?
住職:自分では、「何々だから苦しいんだ」とか、意識では思っていても、実際には、“突如、無意識から沸き上がってくるわけのわからない苦しみに圧倒されて、、、”というのが、本当の所ではないでしょうか?
――お家ではどうされていたんですか?
住職:先ほどもちょっと言いましたが、ようするに家出の常習犯です。
何度も何度も家出して、最後は、ある日、二階から飛び降りて裸足で逃げ、それきり半年とか帰りませんでした。
――どこで生活されていたんですか?
住職:それは本当に、いろいろですね。
点々と、知らない人の家に居候していたりもあります。
――そんなこと可能だったんですか?
住職:今思うと、あの頃は、まだ60年代のヒッピー文化の残り香がただよっていたんですね。
ヒッピーぽい人が集まる喫茶店とか飲み屋とかでウロウロして、隣の席に座った人に、「オレ泊まるところないんだれど、今晩泊めてくれない?」って聞くと、大抵「ああ、いいよ」って気安く泊めてくれてまして。
――へぇー、、、。
住職:まあ、“ラブ&ピース!”とか、フラワーチルドレンの名残りですね。
その頃のドロップアウト若者文化には、“お互い助け合うのが当たり前”みたいな雰囲気もありました。
けっこう居心地が良かったですね。
――東京で、そうだったんですか?
住職:はい。そんなんだから、何ヶ月も家出したままでいられるわけです。
抜け殻になった家に隠れて住んだり、コーヒー一杯で、朝までソファーで寝れる深夜喫茶なんかで過ごしたり。
もっとも、その店はロックのレコードが、がんがん大音量でかかっているんで、とても眠れるような環境でもなかったんですが、カップヌードル持っていくと、お湯までくれたりしていましたね。
言わば、そんな時代の空気に助けられて、僕は生き延びることができたのかも知れません。
――地方では、どうだったんでしょう?
住職:あの頃は、どこもそうでしたね。
15才の頃からヒッチハイクで野宿しながら、日本一周したりしていたんですが、5千円だけ持って、地方を一ヶ月旅したこともありますよ。
もっとも最後には比叡山で、所持金が50円ぐらいになってしまったけど。
――良い時代だったんですねー。
住職:もしかしたら、僕がその時代の空気を体感した、最後の世代かも知れないですね。
点々と居候していた頃は、何せ16歳だったから、「せいしょうねん」なんて、ニックネームで呼ばれてましたし。
人が僕を紹介する時は、“「青少年」は、阿佐ヶ谷最後のフーテンなんだぜ”なんて言われていましたよ。
そういえば、有名な元新宿の三大フーテンの一人で、ガリバーなんていうあだ名の人も、阿佐ヶ谷にいたな。
――16才だったんですか? ずい分と早熟だったんですね。
住職:13才の頃は、ニューヨークで新聞配達なんかしていました。
ちょうど、ビートルズの「カムトゥギャザー」なんかのヒット曲が流れていて。
ラジオをカートに乗せて、ジョン・レノンの“カムトゥギャザー!”なんていう歌声を流しながら、新聞配っていたんです。
街中に、ウッドストックのポスターが貼ったから、69年かな。
ちょうど、ヒッピーが全盛の頃です。
―― すごい時代ですね。
住職:野球場の近くにいたら、コンサートをやっていて、ジャニス・ジョプリンの、すごい雄叫びが聞こえて来た、なんてこともありましたよ。
*ジャニス・ジョプリン:60年代後半の、伝説的な女性ロック歌手。麻薬のため夭折した。
――ジャニスの生の声ですか? それはすごい!。
住職:アメリカの新聞少年は、夜に一軒一軒集金して回らなければならないんです。
集金時にもらうチップが、一番の収入源だから。
で、夜に家を訪ねると、おばあさんが出て来て、子供の僕に向かって、「あなたがベトナムで死なないことを祈っている」なんて、目に涙をためて突然言ったりするんです。
―― ・・・ ・・・?
住職:その時は、何のことか意味がわからないんです。でも、後に
なって「もしかしたら、あの人の息子か孫がベトナムで戦死したんだろうか」と、ふと気づくんです。
――大げさな言い方ですが、子供の内に、世の中の舞台裏を垣間見てしまったのかも知れませんね。
それに、多感な時期に受けた、世の中の変革期の刺激は、さぞ強烈だったことでしょう。
住職:北ベトナムへの爆撃も続いているし、ケネディ兄弟も暗殺されていく中、愛と平和を訴える長髪のヒッピーが、裸足で街を歩いていましたね。
また、有名なマーチン・ルーサー・キング牧師(黒人の活動家)がワシントンで殺された日には、ちょうど同じワシントンにいたんです。
それで暴動が起こって軍隊が出動し、街に出られない、なんていうこともありました。
――そんなアメリカでの様々な体験を経た上で、中学二年で帰国されたんですね。
その後は、高校に入学されるわけですが、学校はどうでした?
住職:もう学校なんかイヤでたまらない。
特に最初の高校は、お金持ちの子女が通うような“ご立派”な学校で。僕みたいなのには、とても耐えられませんでしたね。
というわけで、家出して中退。
――それで、どうされたんですか?
住職:17才なんだけど、年齢偽って、家出したまま土方したり。
その後、引き続き家出したままですが、自分で適当に手続きして、今度は公立の都立高校に転入してみたんです。
私立と違って長髪でいることが可能だし、制服を着なくても良いから、なんていう単純な理由で。
――そこは、どうなりました?
住職:いやー、結局二つ目の高校も中退しました。
ギターの練習しながら、家出しながら通うのも無理があるし、、、。
やがて、精神的にもそんな状態になっていったから、とても世の中に順応なんかできないですよ。
なんせ最後の方は、高校の水飲み場で、睡眠薬かじって飲んだりしているんだから。
――結局、行き着いたところが、自己破滅の生活だったわけですね。
住職:・・・唯一の救いは、演奏中に体験する一瞬の心の輝きだけでした。
――で、その時に神秘体験があった。
住職:ホントに不思議な体験でした。
極度に精神集中して演奏していた、そのピーク時に、ある瞬間から時間空間がなくなり、突然、すべてが光り輝いている世界が現れたんです。
――へぇー。
住職:もちろん、そんな体験は滅多にありません。
でも、二回ほどあった後で、ぼーっとしながら、漠然と思ったんですね。
“もしかしたら、悟りというのは、こんな感じなのかな”って。
――以前から、仏教とか悟りなんかに興味はあったんですか?
住職:いえ、もう全然。
あんなものは、マジメで堅苦しい人がやるもんで、自分には全く関係ないと思っていました。
――宗教と言ったら、どんなイメージだったんですか?
住職:薄暗い教会の中にある、ステンドグラスのイメージですね。
そして、そこには、ネクタイをしめた善人たちが通っている、と。
――自己破滅に生きるご自分の世界とは、真逆というわけですね。
住職:はい、その通りです。
ただ、今考えると、必ずしも真逆ではないのかも、なんですね。
というのは、同じく自己破滅型の文学者である、太宰治や芥川龍之介は、最後にはキリスト教に傾倒していくんです。
――へぇー、そうなんですか。
住職:それと、坂口安吾もそうです。彼は、安吾というペンネーム
でもわかるように、元々は悟りを求めて自分で修行していたんです。
「安吾」というのは、お釈迦さまの時代の言葉で、当時の僧侶は、一定の住居を持たないんです。
それが、雨期と夏期の年二回、一カ所に留まって滞在した。それを「雨安吾/夏安吾」と言ったんです。
――なるほど、坂口安吾というペンネームは、そこから来ていたんですね。
となると、両者は、全く相容れない世界というわけでもないのかも知れませんね。
それにしても、なぜその体験の時、ご自分の中から、「悟り」なんていう言葉が、ふっと湧いて出て来られたんでしょうね?
住職:はい、ずーっと不思議に思っていました。
でも、ジョニー・ボイドという女性心理学者が書いた、『素顔のミュージシャン』という本を読んで、自分なりに納得するところがあったんです。
――と、おっしゃると?
住職:その心理学者は、ボブ・ディランやジョージ・ハリソンなど、多くのミュージシャンと交遊関係を持っているんです。
それで、その本によると、一流と言われる多くのミュージシャンが、彼らが「ピーク体験」とか、「神に触れる体験」とか呼んでいる、ある種の宗教体験を音楽演奏中にしているんです。
―続く―