和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。
喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?
遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/
第二十七回
――インドでは、バックパッカーの西洋人カップルとタクシーをシェアしてコルカタの安宿街サダルストリートに到着した、とおっしゃっていましたね。
住職:はい。今は、かなり変わっているのでしょうが、あの頃のコルカタは、すごかったですね。
街をうろついていると、至る所でインド人に呼び止められて、話し込んだり、一緒に楽器を弾いたり していました。
――楽しそうですね。
住職:海外からのバックパッカーは、みんなそんな感じでインドを 楽しんでいましたね。旅人同士もお互い仲良かったし。
――自分の国の環境とはずいぶん違って感じられたでしょうね。
住職:同時に、乞食や物売りたちが、まるで雪崩のよう押し寄せても来ました。時には、どこまでもついてこられたりして、大変でしたね。
物乞いする人を見るのは、僕としては胸は痛むし、乞食にはお金を上げたらいいのか?ー体どうしたらいいのか?と、本当に悩みました。
――そうでしょうね。
住職:もっとも今だって、毎年バングラデッシュには行っているわけ です。
ただ場所がコックスバザールという田舎町なんで、あまりそういうことには出くわさないのです。
でもこれが、帰りにダッカに寄ったりしたら、似たような葛藤は今でもあるんです。
乞食の人数は、当時のコルカタに比べたら、いないに等しいほど圧倒的に少ないんですが。
――なるほど、、、。
住職:当時のバックパッカー貧乏旅行者は、乞食にお金をあげないのが普通でした。
あげている人もいたのかも知れないけど、僕は見たことがなかった。
なにせ、いかに安く旅するかや、インドの商売人たちに、いかにボラれないようにするか、というのも旅のサバイバル術でしたから。
――そうですか、、。
住職:僕は、圧倒的な数の物売りや乞食に迫って来られるたびに、どう対応して良いのかわからず、立ち往生することもしばしばでした。
――日本にいたら、まずそんな状況にはならないですからね。戸惑うのも当然ですね。
住職:いつも行く食堂で待ち伏せされて、これ見よがしに赤ちゃんを 抱いた“にわか乞食”っぽいおばさんに、カモにされていたことも ありますよ。
――ははは。住職:最近知ったんですが、物乞いのための赤ちゃんのレンタルまで あるそうですね。それはともかく、“お金を上げるよりは、、、”と 思って、乞食の少年を食堂に連れて行って食べさせたこともありました。 当時、コルカタだけで、路上生活者は100万人と言われていたんです。
――コルカタだけで100万、、、。
住職:もちろん、家族で住んでいる路上生活者たちも多かったのです。
それで旅行者と見ると、中には、今にも飢え死にしそうだというような 卓越した演技力を見せる人もいます。
――何回もしているであろう演技を、見極めるのはむずかしいですね。
住職:一方では、実際に飢えかかっているような本物の乞食もたくさんいますが、こちらには区別がつかない。
ただ、いずれにしても路上生活者なので、貧しいことに変わりはなく、その対応にはいつも悩んでいました。
――なかなか割りきれるものではないでしょうね、、。
住職:たとえ“にわか”でも、「演技鑑賞料」と思ってお金出したりも していました。
――なるほど! ところで、インドに着いたとき、「まるで異次元空間に迷い込んだみたいな感じがした」ともおっしゃっていましたね。
住職:穏やかで、まるで水墨画のような日本の寺院の風景に比べると、 ヒンズー寺院なんかはカラフルで、すべてを激烈に表現しているんですね。
それに加えて、僕ら旅行者に関わってくる人力車やバス、圧倒的な量の物売りたち、また乞食群が、これまた激烈に生存をかけた闘いを、こちらに挑んでくるんです。
そして街のスピーカーは、インド音楽を割れんばかりの音でがなり立てているという状態です。
――なんだかすべてが濃い感じが します、、。
―続く―