住職に聞く! 第四回 念仏は大乗仏教の始原の姿

和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。

喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?

遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/


第四回

―― 大乗仏教と念仏とはどう関係があるのですか?

住職 大乗仏教は、歴史的に仏舎利塔の崇拝から始まったといわれています。

仏舎利塔というのは、お釈迦様の遺骨を祀った塔のことで、別名ストゥーパ、あるいはパゴタといいます。
日本のお墓に卒塔婆(そとば)というのがありますけど、あれはストゥーパが、”そとば”へと読み方が変わっただけです。
だから、木の卒塔婆(そとば)は、仏舎利塔の形をしていますね。

で、その時代に、どのようなことをしていたかというと、人々は仏舎利塔の周りを、仏様のことを念じながら、時に、歌ったりしながら回り、また仏さまに呼びかけたりしていたのです。
仏様を一心に念じることによって悟りが開かれる、と。
そのあたりの雰囲気は、法華経等によく出ていますね。

だから、仏を念じることが大乗仏教の修行の土台だったのです。
そしてここから、仏を念じる「念仏」の行として成立していくんです。
つまり念仏は、大乗仏教の始原の姿だったと言えるのです。

それから、もともと仏教は、仏像を造ることは禁止されていたんです。
しかし、やがてギリシャ人仏教徒たちが多くなるにつれて、ギリシア彫刻に見られる彼らのイメージ文化を仏教に持ち込んだ。
そして彼らは、仏像を造るようになったんです。

その結果、たんに思慕するだけでなく、仏様のお姿を具体的に心に思い浮かべることによって、悟りの智慧が開かれていくという、基本的な大乗仏教の
修行形式が生れたのです。

もっとも、お釈迦さまご自身の、”如来を念じなさい”という言葉も残っています。
そして、それらの流れによって、”仏様のみ名を唱えながら、仏の姿をイメージする”という一行三昧、すなわち、念仏三昧という行法が成立していくのです。

さらに、和田寺念仏サンガ道場では、大乗仏教の根本精神である利他主義を標榜しています。
だから、 “一切の、生きとし生けるものの悟りと幸福を願って念仏を唱え、仏様を念じていく”を基本として、念仏三昧の修行を行なっています。

――ギリシャ人の仏教徒がいたなんて、初めて聞きました。

住職 そうですね。
あまり一般には知られていないかもしれません。
しかし実際、古代の東西の交流は、我々が思っている以上に盛んでした。
たとえば、哲学者や芸術家を含む多くのギリシャ人が、アレクサンダー大王の遠征と共にガンダーラ(現在のパキスタン)にやって来たのです。
そして、仏教に帰依した者も多く、当然、そこで様々文化交流が行われたのです。

もっともそれ以前から、インドのアショカ王は、各地に伝道師を派遣していました。
その働きによるものかは明確ではありませんし、学問的な立証までは至っていませんが、かつてエジプトのアレキサンドリアには、仏教センターらしきものまであったと聞いています。

また、紀元二世紀頃だったと思いますけど、スリランカの仏舎利塔に、二万人のギリシャ人のお坊さんたちが来たという記録すらあるそうです。

余談ですが、仏教の「空」や、すべての存在はつながっているという、縁起の思想は、ギリシャのプロティウス哲学に影響を与え、「一者」(宇宙霊)の概念を生むもととなりました。

──仏像の中で、西洋人の顔つきに似ているものがあるのは、そこに由来があるのですね。

住職 そうですね。
アポロン仏と言われていまして、初期のころの仏像は、やっぱりギリシャ人の顔をしていますね。
造った人の顔に似るのは自然な流れですからね。
まあ、日本の仏像には、既にあまり見受けられませんが、中には、影響の残っているものもあると思います。

――ところで、「すべてはつながっている」というのは、最近ではスピリチュアル関係の本や、歌謡曲の歌詞にも出てきて、一般にも受け入れられつつあるようですが、仏教ではすでに説かれている思想だったのですね?

住職 そのコンセプトに一番近い仏教の言葉は、「縁起」になるでしょうか、、、。

――「縁起が良い」とか、言ったりしますよね。

住職 でも、その言い方からすれば、「縁起」は、何やら、ニューエイジの幸運グッズみたいな意味になっています。

しかし実は、「縁」とは、つながりのことで、起は「結果」です。
だから、縁起とは、すべてはつながりを原因として起きる、ということを意味しているんです。

――ヤクザに「因縁」をつけられたなんてのも言いますが、因縁も仏教用語ですか?

住職 はい、そうです。
しかし、因縁の本来の意味は、つながり(縁)は、内在しているカルマ(因)に呼応して生まれるということです。

――?

住職 わかり易い例を上げると、人と人の出会いなんかそうですね。
縁あって、人は人と出会うわけですが、その原因は、内なるカルマです。

例えば、”類は友を呼ぶ”と言いますよね。
宇宙は、同じような心(因)を持った人間同士が、出会ってつながるようになっているからです。

――なるほど。

住職 先ほど、「縁起とは、すべてはつながりを原因として起きる」ことだと言いました。
実はこれと、さっきおっしゃった、「すべては、つながりを持っている」とは、微妙に意味が異なるのです。

――それは、どういうことですか?

住職 縁起は、「すべては、つながりを持っている」よりも、はるかに深い哲学を説いているんです。
縁起は、実に三つの精神内容を含んでいます。

1)ーつーつの存在に何かが起きたーつの結果は、宇宙全部が原因となっている
2)ーつーつの存在は、宇宙全部の存在に影響を与える原因でもある
3)宇宙のーつーつの存在の生起は、どちらも互いに原因であり、同時に結果である

今述べた三つが、一瞬一瞬変化している宇宙の本質です。
これを霊的に実感すること。それが、大乗仏教の「縁起」を理解することなのです。

―― はぁー、「すべてはつながっている」どころの話ではないですねー。

―続く―