第三十八回 道半ばにしてインドで死ぬのはイヤだ

和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。

喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?

遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/


第三十八回

――第三十七回では、バナラシからデリーまで、ようやくたどり着いたところまで話を伺ってきました。それにしても、、体調が万全ではない中でインドを旅するのはきつかったでしょうね、、。

住職:なるべく最低ラインの食事で過ごすことを自分に課していたことに加えて、直射で50度という、イ ンドで最も暑い時期の旅。
しかもあまり休まずに動いて来て3ヶ月ですから、「気づいたらかなり消耗していた」というのは確かですね。

――そんな中でデリーに着いたんですね。

住職:はい。それで数日、うだるように暑い安宿でデリーにいたんですが、それでも、思いついて、現地の観光バスなんかに乗ったりしていましたね。

――へぇー。

住職:田舎からやって来たインド人のお登りさんたちと一緒に、ガンジーの記念碑とかの前で記念写真を撮り合ったりして、けっこう楽しかったですね。

――それなりに気持の余裕はあったんですね。

住職:そりゃ 、体力は落ちていたものの、「旅はまだこれから。インドを出てからが始まりだ」ぐらいに思っていましたからね。

――なるほど。

住職:それで、ボチボチ北に向かおうか、と考えていたころ、昼間、部屋で、わけのわからない発作状態になりまして、、、。

――えっ? どんな状態なんですか?

住職:突然、急激に体温が40度以上にまで上昇したと思ったら、歯の根も合わないぐらいに寒くて震えだしました。そして気を失った
ようになり、「わあわあ」と、何やら大声でうわごとを叫んでいる自分がいるんです。

――はあ、、。それは、そうとう重症な気がしますね。

住職:そして2時間ぐらい続いた後は、ウソのようにピタッと止まり、静寂に戻るんです。

――へえー、、。

住職:そうなると、「え! 今の何だったんだろう?」と思うんですが、まるでわからない。しかし数時間経つと、また同じような状態になるんです。それが、何度か繰り返されました。

――繰り返される、、、。

住職:あの暑いインドの安宿で、寝袋に入って布団を全部かけても、寒くて震えているんです。そしてうわごとを大声で叫んでいる。その後は、ピタッと止まるのに、また、、、。

――それは、恐怖だったでしょうね、、。ピタッと止まるところも不気味です。

住職:もう そうなると、いつ発作が起きるかわからないので、外に食べに行くのも恐くなります。そんな状態だったんで、とうとう困って、宿に医者を呼んでもらったんです。その頃は、僕にもまだ、西洋医学を信じているところがあったんでしょうね。

――よほど苦しかったんですね。

住職:医者にもよくわからない、という感じだった上、なんか高いなーと思ったんで、バックパッカーのノリで医者に交渉したら、値引きに応じてくれました(笑)。まあお互い、どっちもどっちですね。

――具合が悪くても値引き交渉とは、(笑)!

住職:それで、わけのわからない薬を新聞紙に大量に包んで置いていきましたが、それも恐ろしくて、とても飲む気にはなれませんでした。

――それはそうですね、、。

住職:そして翌日もまた発作です。だから、医者を替えたんです。しかし、同じようなものでした。

――そうですか、、。

住職:もしかしたらマラリアかなって思いました。僕は、他の外国人バックパッカーから、キニーネというマラリア予防薬(かつ治療薬)をもらっていたんです。それで、思い切って飲んでみました。

――ええ、。それで、どうでしたか?

住職:しかし、今度は全身的な痙攣が何度か起こりました。たしかにキニーネの副作用として全身痙攣があるというのは知っていました。でも、「うあー、やばいな」と思って、飲むのを止めました。

――うわあ、、それは不安になりますね。

住職:僕は、どんどん絶望的な気持になっていきました。もう自分は
ダメかも知れないな、とも思い始めました。

――日本に帰ろうとは思わなかったんですか?

住職:片道切符で来ていたし、念のために調べてみたら日本に帰るだけのお金はなかったんです。

――それはまた、、、。

住職:いよいよ困って、良い医者はいないか? と思い切って、街に探しに行ったんです。そうしたら、地元の人が「庶民の味方の名医だ」という人の地図を書いてくれました。僕は、また発作が起きて歩けなくならない内に、と思ってそこに行ったんです。

―― ええ、、。

住職:そこは粗末な診療所で、庶民の味方という雰囲気が、外見からも感じ取ることができました。地元のインド人たちに混じって待合い室で待ちました。

――庶民たちですね。

住職:僕はもう、かなり絶望的な気分になっていました。そして診察を受けて自分の症状を伝えたら 、その人が「これはマラリアかも知れないな」と言うんです。

――やはり、、、。マラリアで人が死んだりしますよね。

住職:そういえば、バングラデシュのラジョーさんの友人だった、日本人カメラマンが亡くなったのもマラリアでした。

――そうなんですか?お気の毒に、、。現代でもマラリアは 怖い感染症なんですね。

住職:それを聞いて、「ああこりゃだめかな?」と思いました。そして、医者に何やらピンク色の液体を注射で打たれました。今までの僕だったら、注射なんて拒否していただろうけど、もうかなり絶望していたんで、半ばヤケみたいに諦めて、打たれてしまったんです。注射を打たれながら、ああもうこれで自分は死ぬんだな、とか思っていました。

――無理もないと思います。

住職:でもホントに庶民の味方で、診察費はびっくりするほど安かった。それに人間的にも高潔な感じで、とても優しかったです。

――そのような状態の中ですから、少しは安心されたでしょうね。

住職:はい、原因がわかったのでホッとしました。
しかし、発作は収まらないし、絶望的な気分は収まりませんでした。
僕は、宿に帰ってひとり考えてしまいました。
自分はもうダメかも知れない。いやダメだろう。
もうこれ以上、進むこともできない上、日本に帰ることもできない、そう思い知りました。

――そう、考えざるをえなかったんですね。

住職:でも、調べたとき、日本に帰るだけのお金はないけれど、フランスまでの飛行機のチケットの分だけはあったんです。

――ええ、、。

住職:もっとも切符を買ったら、残るのは150ドルぐらいでした。

――その体調の中、フランスに行こうと、、?

住職:パリにはフランス人の友人がいて、そこに当面は居候することになっていたんです。しかし本人から、自分は生きる意味を失った、みたいな手紙が来て以来、音信不通になっていました。だから、行っても会えない可能性は十分にありました。

――ええ、、。

住職:それでも、道半ばにしてインドで死ぬのはイヤだ。せめてヨーロッパまで辿りついて、パリの路上で死ぬ方がマシだと思いました。

――パリの路上で、、。

住職:それで僕は、意を決してパリ行きの切符を買いました。支払う時には、もうお金をちゃんと数えられないぐらい、頭が働かないぐらいの状態でした。

――その状態での行動ですから、本当に大変だったでしょうね、、。

住職:心配だったのは、「搭乗前にマラリア発作が起きないか」でした。乗せてくれなくなったら困るなあ、と思いました。「まあ乗ってしまえば、降ろしはしないだろう」というのが唯一の頼みの綱でした。

――ええ、、、。

住職:飛行機に乗るまでは生きていたいと思って、安宿で眠れぬままに、今までの人生を振り返って過ごしていました。

――ひとりで恐くなかったですか?

住職:マラリア発作も、それから死ぬことも恐かったです。念仏者として立派に死んで行こうとは思いましたが、恐くて心がくじけそうになっていました。もっと人々のために尽くしてから死にたい、と心底思いました。それは本当に思いました。人々が癒されたり修行できるようなビレッジを創りたかった、と思いました。

―続く―