和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。
喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?
遠藤喨及 東京生まれ。少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職の他、タオ指圧/気心道創始者、作曲&演奏家、海外支援や平和活動を行うNPOアースキャラバン代表、ゲームCHATRANGA考案者等、多才な活動で知られている。
90年の初頭から現在に至るまで、北米各地、ヨーロッパ各地、中東(イスラエル、パレスチナ)、オセアニアなど世界各地でタオ指圧、気心道、また仏教ワークショップを行っている。
またその足跡によって、世界10カ所にタオサンガが生まれ、各センターで、タオ指圧の施術と指導や念佛修行、海外支援活動などが行われている。
遠藤喨及個人ページ http://endo-ryokyu.com/
8月に行われた松本での念仏ハイ!
-- 今年の新年号と3月号では、
住職にお念佛、修行について、
お話をうかがいました。
https://taosangha.com/2019/01/02/juusyokunikiku-201901/
https://taosangha.com/2019/02/28/juusyokunikiku-201903/
音楽法要の修行をされている
ということで、どんな音楽なのか
聴いてみたいと思っていました。
住職: そうですか。
-- その後、4月には
アースディ2019での場開きの祈りで
異宗教融合チャントを勤められた
その映像を拝見しました。
そこで住職が語られたことに、
感動しました。
住職: ありがとうございます。
-- また、その祈りのチャントの
メロディとハーモニーもとても美しくて、、。
3月号で住職が話されていた、
「音楽は、神仏と融合し、霊的な飢えを
満たす宗教的な行為です。」
という意味がわかったような気がしました。
アースディ2019場開きの祈り:https://taosangha.com/2019/06/13/earthday2019/
住職: それは嬉しいです。
-- あの時の歌詞は、
仏教的なものだったと思いますが、
異教融合チャントということは他の宗教の
人も一緒に唱えられるものなのですか?
住職: もちろん、そうです。
例えばキリスト教の人は、ジーザスと
いう名で唱えれば良いですし、
イスラム教の人はアッラー、
ユダヤ教の人はアドナイと
唱えれば良いのです。
-- 住職の和田寺タオサンガ道場で
修行される方は、通常は浄土宗の
お経を唱えているのですか?
住職: 浄土宗のお経について法話で
解説することはありますが、
特に希望がない限り、行じているのは、
あの異教融合チャントです。
-- えー、異教融合チャントで
修行されているんですか!?
住職: そうですね。
まあ、言ってみれば音楽法要ですからね。
毎週、2、3回、1時間半から2時間ぐらい
行っています。
時には道場に籠って、1日12時間、
ぶっ通しで何日間かやることもあります。
-- へぇー。
ということは、他の宗教の人も一緒に
修行することが可能なんですね。
住職: もちろん、そうです。
-- 住職は一体何のために、
異宗教の人が共に修行できるシステムを
考えられたのですか?
住職: この世のほとんどの人が
間違えていることは、“宗教=神、
あるいは仏である”という図式で
観ていることなんです。
-- と、おっしゃると?
両者は異なるものなんですか?
宗教は、神、あるいは仏について教えている
のだと思っていましたが、、、。
住職: 神や仏は言葉では表現できず、
直接体験でしか理解できません。
しかし、宗教はそれを言葉や絵に変換して
説明するものです。
-- なるほど。
住職: 言ってみれば、
宗教は山の頂上に行くための地図
みたいなもんです。
地図と実物、、、、別の言い方をすると、
メニューと料理みたいなものです。
-- 地図を見ているだけでなく、
実際に行ってみなければ
風景は分からない、、、。
メニューを眺めているだけでなく、
実際に食べてみなければ
分からない、、、。
なるほど。
住職: さらに、行ったとしても、
麓で見ている風景と5合目ではまったく違う
し、ましてや頂上は別世界です。
風景はいくら言葉で説明されても、
想像に過ぎません。
-- 地図の解説はいくら聞いても
意味がない、、、。
その風景を見たければ、実際に山を
登ってみる以外の方法はない、
ということなんですね。
住職: 地図をいくら見たって、
山に登って見る風景が
見れるわけではないですし、
ましてや頂上に出たときに体験する
解放感はわかりません。
-- そうですねー。
人によっては、自分が体験していないから、
そんなものはない、と思うかも知れません
ね。
住職: でも中には、自分が体験していない
にも関わらず、直感が鋭くて、
それを予感できる人がいるんです。
修行を始める人は、基本的にそういうタイプ
ではないかと想いますよ。
-- でも、地図が間違っている
場合がありますが、、、。
住職: インチキ地図が売っていることも
多々ありますし(笑)。
また、地図が間違っている場合もある。
一方、頂上でないのに、標識には
「頂上」と書いてあることもあります。
古い地図で役に立たない場合もあるし
なあ、、。
-- どうやって見分けたら良いのですか?
住職: 結局は直感に頼るしかありません。
とりあえず地図を見ながら登ってみて、
間違ってたら、やめればいいだけの話です。
ただ問題は、中には悪意をもって描かれた
悪い地図もあるということです。
-- そのような地図は、
どんな風に描かれているのでしょうか?
住職: 人を罪悪感で縛ったり、
優越感を煽ったり、人の心を支配したり
縛りつけたりします。
そういうのは、まずダメですね。
それに地図があたかも実物であるかのように
教えているものも、そうです。
-- はい。
住職: 地図は地図でしかない。
にも関わらず、これをあたかも真理であるか
のように思って、そう教えている人たちが
います。
そして、地図に何が書いてあるかで
言い争ったりします。
その結果、オレの地図の方がすごい、
と思ったりしています。
-- 伝統だろうと新興だろうと、
宗教に関わっているほとんどの人が、
そうではないですか?
住職: 宗教は真理そのものではなく、
ましてや神でも仏でもありません。
単なる地図なんだ、と
はっきり認識しなくてはなりません。
そうでないと教義に縛られた、
いびつな人間ができてしまう。
そもそも地図って、より良い道ができたり
ルートが発見されれば、改変されるべきもの
でしょう?
-- なるほど、そうですね。
でも、ほとんどの人が宗教イコール神、
あるいは仏だと思っていますよね。
住職: 神や仏を体験していなければ、
まあそうなりますね。
でも、宗教(地図)がイコール神、
あるいは仏だと思って教義に縛られると、
逆に、神、仏から遠ざかってしまうんです。
-- そうなんですね。
逆に、宗教が嫌いだから
(教義に縛られた人が嫌いだから)、
神も仏も嫌いだ、という人がいます。
それも、宗教イコール神、あるいは仏と言う
誤解によって生じているんですね。
住職: それは、“地図が嫌いだから、
山の頂上の風景も嫌いだ”、と言っている
ようなものです。
それでは、人生が狭くなります。
宗教イコール神、あるいは仏だと思っている
限り、宗教の教義か、この世の教義の
どちらかに縛られることになります。
-- 宗教は、本当に諸刃の剣ですね。
では、マインドフルネスとか、
いわゆる宗教ではない、瞑想とか
そのようなものではどうですか?
住職: 禅に「守破離」という言葉が
あるんですが、これが参考になるかも
知れません。
-- ?
住職: 守破離の最初は「守」で、
これは教えの示すままに行じることです。
「破」とは、本物を体験することで、文字で
表現された表層が剥がれ落ちることです。
そして「離」。
すなわち、教義から完全に自由になる。
-- はい。
住職: マインドフルネスのような、
宗教的要素など、面倒な部分を取り除いて、
中身の体験だけを求めようとするのは、
出しを取る手間をはぶいて、化学調味料で
味付けするようなものですね。
-- なるほど。
とてもわかりやすいです!
住職: そもそも求めているのが、
リラックス効果とかα波とか
そんなものでしょうから、
それで良いのかも知れませんけど、、、。
-- ビジネスに有効とかもあります。(笑)
住職: まあ、悟りとは別次元のもの
ですね。
守破離という過程をたどることも
ないですし、体験も浅薄なものに
ならざるを得ませんから。
-- なるほど。
ところで、宗教と、神ないし仏が、
相反するものでありながら、
同居せざるを得ないという、
この矛盾は一体どうしたら
解決するのでしょうか?
住職: 完成した「タオサンガ行法」が、
それに対する1つの明確な答えなんですが、
それはまた別の機会に譲るとして、、、、。
先ほど、「人を罪悪感で縛ったり、
優越感を煽ったりすることで
縛りつける教えは、まずダメです。」
と申し上げました。
-- はい。
住職: 自分自身が人を支配したり、
人に対して上から目線になったりしてると、
「人を罪悪感で縛ったり、
優越感を煽ったりする宗教の間違い」
には気づけないんです。
でも、自分自身のエゴを見抜き、
邪気を発することを自分に許さない生き方を
しているなら、たとえ間違った教えに
出会ったとしても、
“それは間違っている”とわかるんです。
-- なるほど。
自分に厳しい生き方をしていれば、
ちゃんと本物かどうかは、
見抜けるということなんですね。
住職: 自分自身のエゴを許していながら、
相手(道)にはエゴのない本物さを求める、
というのは、ちょっと虫が良すぎますよね。
-- はい、、。
住職: たとえ本物に出会ったとしても、
自分のエゴに厳しい生き方をしていな
ければ、“教えが厳しい”と思うだけで、
その価値は分からないでしょうし、、、。
-- はい。
住職: また、たとえ価値が分かったとして
も、自分の人生をかけてまで行じようとは
思わないでしょうね。
-- 結局、本物の道には本物の人が
求められる、ということなんでしょうね。
住職: “片方だけが本気”というのでは、
恋愛は成立しないですからね。(笑)
<続く>
インタビュー後記:
インタビュー中の住職の言葉、
「自分自身が人を支配したり、
人に対して上から目線になったりしている
ようだと、、、云々」
あれれ、これは私のことを
言われているのかな、、と感じながら
聴いていました。
その在り方(エゴ)の、その集大成が、
いまの世界なのだと。
何もかもが、絶望的な状況です。
そうだとしたら、私はそれ(エゴ)を
正当化して死んでいくのか?
そう思うと怖くなります。
人の上に立ちたいとか、
すごいって言われたいとか、、
そんな貧しい目的のために人生があるわけ
ではないのに、エゴはその甘い汁こそが
至福なんじゃないかってささやくのです。
つくづく、、としか言いようがないのです
が、今回のインタビューで私は自分の
ことを正真正銘の凡夫だと感じました。
住職は、本気で人間の可能性を
追求している!?
人間でいることを、
過小評価しちゃだめだよって。
もっともっと、存在の根源にむかって
追求しがいのある、
あなたの人生なんだよと、
そう言われている気がしました。
凡夫のままに、追求しなさいと。
住職の本気さ、どこまで往くんですか?