住職に聴く!2019年9月号

和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。
喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?

遠藤喨及 東京生まれ。少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職の他、タオ指圧/気心道創始者、作曲&演奏家、海外支援や平和活動を行うNPOアースキャラバン代表、ゲームCHATRANGA考案者等、多才な活動で知られている。
90年の初頭から現在に至るまで、北米各地、ヨーロッパ各地、中東(イスラエル、パレスチナ)、オセアニアなど世界各地でタオ指圧、気心道、また仏教ワークショップを行っている。
またその足跡によって、世界10カ所にタオサンガが生まれ、各センターで、タオ指圧の施術と指導や念佛修行、海外支援活動などが行われている。

遠藤喨及個人ページ http://endo-ryokyu.com/

8月に行われた松本での念仏ハイ!

 

-- 今年の新年号と3月号では、

住職にお念佛、修行について、

お話をうかがいました。

https://taosangha.com/2019/01/02/juusyokunikiku-201901/

https://taosangha.com/2019/02/28/juusyokunikiku-201903/

 音楽法要の修行をされている

ということで、どんな音楽なのか

聴いてみたいと思っていました。

 

住職: そうですか。

 

-- その後、4月には

アースディ2019での場開きの祈りで

異宗教融合チャントを勤められた

その映像を拝見しました。

そこで住職が語られたことに、

感動しました。

 

住職: ありがとうございます。

 

-- また、その祈りのチャントの

メロディとハーモニーもとても美しくて、、。

3月号で住職が話されていた、

「音楽は、神仏と融合し、霊的な飢えを

満たす宗教的な行為です。」

という意味がわかったような気がしました。

アースディ2019場開きの祈り:https://taosangha.com/2019/06/13/earthday2019/

 

住職: それは嬉しいです。

 

 -- あの時の歌詞は、

仏教的なものだったと思いますが、

異教融合チャントということは他の宗教の

人も一緒に唱えられるものなのですか?

 

住職: もちろん、そうです。

例えばキリスト教の人は、ジーザスと

いう名で唱えれば良いですし、

イスラム教の人はアッラー、

ユダヤ教の人はアドナイと

唱えれば良いのです。

 

-- 住職の和田寺タオサンガ道場で

修行される方は、通常は浄土宗の

お経を唱えているのですか?

 

住職:  浄土宗のお経について法話で

解説することはありますが、

特に希望がない限り、行じているのは、

あの異教融合チャントです。

 

-- えー、異教融合チャントで

修行されているんですか!?

 

住職: そうですね。

まあ、言ってみれば音楽法要ですからね。

毎週、2、3回、1時間半から2時間ぐらい

行っています。

時には道場に籠って、1日12時間、

ぶっ通しで何日間かやることもあります。

 

-- へぇー。

ということは、他の宗教の人も一緒に

修行することが可能なんですね。

 

住職: もちろん、そうです。

 

 

-- 住職は一体何のために、

異宗教の人が共に修行できるシステムを

考えられたのですか?

 

住職: この世のほとんどの人が

間違えていることは、“宗教=神、

あるいは仏である”という図式で

観ていることなんです。

 

-- と、おっしゃると?  

両者は異なるものなんですか?

宗教は、神、あるいは仏について教えている

のだと思っていましたが、、、。

 

住職:  神や仏は言葉では表現できず、

直接体験でしか理解できません。

しかし、宗教はそれを言葉や絵に変換して

説明するものです。

 

-- なるほど。

 

住職: 言ってみれば、

宗教は山の頂上に行くための地図

みたいなもんです。

地図と実物、、、、別の言い方をすると、

メニューと料理みたいなものです。

 

-- 地図を見ているだけでなく、

実際に行ってみなければ

風景は分からない、、、。

メニューを眺めているだけでなく、

実際に食べてみなければ

分からない、、、。

なるほど。

 

住職: さらに、行ったとしても、

麓で見ている風景と5合目ではまったく違う

し、ましてや頂上は別世界です。

風景はいくら言葉で説明されても、

想像に過ぎません。

 

-- 地図の解説はいくら聞いても

意味がない、、、。

その風景を見たければ、実際に山を

登ってみる以外の方法はない、

ということなんですね。

 

住職: 地図をいくら見たって、

山に登って見る風景が

見れるわけではないですし、

ましてや頂上に出たときに体験する

解放感はわかりません。

 

-- そうですねー。 

人によっては、自分が体験していないから、

そんなものはない、と思うかも知れません

ね。

 

住職: でも中には、自分が体験していない

にも関わらず、直感が鋭くて、

それを予感できる人がいるんです。

修行を始める人は、基本的にそういうタイプ

ではないかと想いますよ。

 

-- でも、地図が間違っている

場合がありますが、、、。

 

住職: インチキ地図が売っていることも

多々ありますし(笑)。

また、地図が間違っている場合もある。

一方、頂上でないのに、標識には

「頂上」と書いてあることもあります。

古い地図で役に立たない場合もあるし

なあ、、。

 

-- どうやって見分けたら良いのですか?

 

住職: 結局は直感に頼るしかありません。

とりあえず地図を見ながら登ってみて、

間違ってたら、やめればいいだけの話です。

ただ問題は、中には悪意をもって描かれた

悪い地図もあるということです。

 

-- そのような地図は、

どんな風に描かれているのでしょうか?

 

住職: 人を罪悪感で縛ったり、

優越感を煽ったり、人の心を支配したり

縛りつけたりします。

そういうのは、まずダメですね。

それに地図があたかも実物であるかのように

教えているものも、そうです。

 

-- はい。

 

住職: 地図は地図でしかない。

にも関わらず、これをあたかも真理であるか

のように思って、そう教えている人たちが

います。

そして、地図に何が書いてあるかで

言い争ったりします。

その結果、オレの地図の方がすごい、

と思ったりしています。

 

-- 伝統だろうと新興だろうと、

宗教に関わっているほとんどの人が、

そうではないですか?

 

住職: 宗教は真理そのものではなく、

ましてや神でも仏でもありません。

単なる地図なんだ、と

はっきり認識しなくてはなりません。

そうでないと教義に縛られた、

いびつな人間ができてしまう。

そもそも地図って、より良い道ができたり

ルートが発見されれば、改変されるべきもの

でしょう?

 

-- なるほど、そうですね。

でも、ほとんどの人が宗教イコール神、

あるいは仏だと思っていますよね。

 

住職: 神や仏を体験していなければ、

まあそうなりますね。

でも、宗教(地図)がイコール神、

あるいは仏だと思って教義に縛られると、

逆に、神、仏から遠ざかってしまうんです。

 

-- そうなんですね。

逆に、宗教が嫌いだから

(教義に縛られた人が嫌いだから)、

神も仏も嫌いだ、という人がいます。

それも、宗教イコール神、あるいは仏と言う

誤解によって生じているんですね。

 

住職: それは、“地図が嫌いだから、

山の頂上の風景も嫌いだ”、と言っている

ようなものです。

それでは、人生が狭くなります。

宗教イコール神、あるいは仏だと思っている

限り、宗教の教義か、この世の教義の

どちらかに縛られることになります。

 

-- 宗教は、本当に諸刃の剣ですね。

では、マインドフルネスとか、

いわゆる宗教ではない、瞑想とか

そのようなものではどうですか?

 

住職: 禅に「守破離」という言葉が

あるんですが、これが参考になるかも

知れません。

 

-- ?

 

住職: 守破離の最初は「守」で、

これは教えの示すままに行じることです。

「破」とは、本物を体験することで、文字で

表現された表層が剥がれ落ちることです。

そして「離」。

すなわち、教義から完全に自由になる。

 

-- はい。

 

 住職: マインドフルネスのような、

宗教的要素など、面倒な部分を取り除いて、

中身の体験だけを求めようとするのは、

出しを取る手間をはぶいて、化学調味料で

味付けするようなものですね。

 

-- なるほど。

とてもわかりやすいです!

 

住職: そもそも求めているのが、

リラックス効果とかα波とか

そんなものでしょうから、

それで良いのかも知れませんけど、、、。

 

-- ビジネスに有効とかもあります。(笑)

 

住職: まあ、悟りとは別次元のもの

ですね。

守破離という過程をたどることも

ないですし、体験も浅薄なものに

ならざるを得ませんから。

 

-- なるほど。

ところで、宗教と、神ないし仏が、

相反するものでありながら、

同居せざるを得ないという、

この矛盾は一体どうしたら

解決するのでしょうか?

 

住職: 完成した「タオサンガ行法」が、

それに対する1つの明確な答えなんですが、

それはまた別の機会に譲るとして、、、、。

先ほど、「人を罪悪感で縛ったり、

優越感を煽ったりすることで

縛りつける教えは、まずダメです。」

と申し上げました。

 

-- はい。

 

住職: 自分自身が人を支配したり、

人に対して上から目線になったりしてると、

「人を罪悪感で縛ったり、

優越感を煽ったりする宗教の間違い」

には気づけないんです。

でも、自分自身のエゴを見抜き、

邪気を発することを自分に許さない生き方を

しているなら、たとえ間違った教えに

出会ったとしても、

“それは間違っている”とわかるんです。

 

-- なるほど。

自分に厳しい生き方をしていれば、

ちゃんと本物かどうかは、

見抜けるということなんですね。

 

住職: 自分自身のエゴを許していながら、

相手(道)にはエゴのない本物さを求める、

というのは、ちょっと虫が良すぎますよね。

 

-- はい、、。

 

住職: たとえ本物に出会ったとしても、

自分のエゴに厳しい生き方をしていな

ければ、“教えが厳しい”と思うだけで、

その価値は分からないでしょうし、、、。

 

-- はい。

 

住職: また、たとえ価値が分かったとして

も、自分の人生をかけてまで行じようとは

思わないでしょうね。

 

 

-- 結局、本物の道には本物の人が

求められる、ということなんでしょうね。

 

住職: “片方だけが本気”というのでは、

恋愛は成立しないですからね。(笑)

<続く>

 

インタビュー後記:

インタビュー中の住職の言葉、

「自分自身が人を支配したり、

人に対して上から目線になったりしている

ようだと、、、云々」

あれれ、これは私のことを

言われているのかな、、と感じながら

聴いていました。

その在り方(エゴ)の、その集大成が、

いまの世界なのだと。

何もかもが、絶望的な状況です。

そうだとしたら、私はそれ(エゴ)を

正当化して死んでいくのか?

そう思うと怖くなります。

人の上に立ちたいとか、

すごいって言われたいとか、、

そんな貧しい目的のために人生があるわけ

ではないのに、エゴはその甘い汁こそが

至福なんじゃないかってささやくのです。

つくづく、、としか言いようがないのです

が、今回のインタビューで私は自分の

ことを正真正銘の凡夫だと感じました。

住職は、本気で人間の可能性を

追求している!?

人間でいることを、

過小評価しちゃだめだよって。

もっともっと、存在の根源にむかって

追求しがいのある、

あなたの人生なんだよと、

そう言われている気がしました。

凡夫のままに、追求しなさいと。

住職の本気さ、どこまで往くんですか?