天下無敵の人生にする
法話ライブ at 京都道場 2016年3月12日
法話:遠藤喨及
動画URL
https://www.youtube.com/watch?v=e9kOmlWRCsk
1)気の感覚が開いてくれば、すぐにでも体験できる
人間、自分の心さえ自由自在になれば、人生が自由になります。
しかし、これがなかなか自由にならないので、修業が必要なのです。
さて、人が修行するにおいて、あるいは霊的に生きる上で必要な4種類の心があります。念仏はこれを土台に行います。
その内の一つである金剛心は、自分の心をコントロールする心のことです。
他の三心は大きさまで特定でき、かつ氣のワークで認識できるのですが、金剛心は大きさを特定できません。
円形ですが、大きさは変化し、数十cmから、地球より大きいものとして体感することができます。
これはワークショップで氣の体験を実際にしていないと「果たしてそんなことが出来るのか?」と思うのかもしれませんね。
だから、ぜひ念佛ワークショップで体験していただきたいと思います。
少しでも氣の感覚が開いてくれば、すぐにでも体験できることですから。
2)一切のカルマや魔が光と化して開放される
仏様の顔や姿の一部または全部をイメージすることによって、心に悟りが啓かれていく。これが大乗仏教の修行の根本です。
念仏メソッドの詳細についてはまたワークショップで行ないますが、金剛心を土台に行うメソッドにより、他力的に氣のからだと仏様の円光相(仏像やキリスト像などの円形の後光)が一体化します。
その結果、どのような功徳が得られるのか?
カルマや魔が光と化し、それらから解放されていく、ということです。
これは非常に大きな意味を持っています。
※注:「魔」というのは、カルマが独立して勝手に動き出したものです。
向上の邪魔になるので、「邪魔」とも言います。
この結果、日常でどうなっていくのか?
まず三昧を得るということがあります。
三昧というのは、宇宙大霊の実在の融合を受けていくことです。
原語はサマーディですから、元の意味は対象に心を集中させて余念がない状態のことです。
念佛メソッドにおいては、剛玉の中に、「無見頂相」(むけんちょうそう)という、仏さまの頭の出っ張りの部分の像を、心(剛玉)の中に入れます。同時に、一切のカルマ、魔の光化を、わが責任として引き受けていくのです。
剛心の中にある剛玉に、仏さまの像、一切のカルマ、魔も入れ、ひたすら集中し続けていきます。その根底にあるのは、一切のカルマや魔が光と化して解放されるように、という祈願です。
因縁のある人がカルマや魔から解放されるように、と祈願する。世界中の人、宇宙一切が開放されるように、と祈願する。
これが中念佛における回向祈願です。
ひたすらやっていくと、氣のからだと如来の円光相(光背の像)が一体化し、
一切が光化されていきます。この功徳は、日常生活の心境に顕れてきます。
ある一定に心の状態になることを、仏教では「住する」といいますね。
これは日常生活で、常にそういう状態になるということです。
光化三昧によって、どのような心境に住するようになるかというと、カルマ的な認識というか、簡単に言うと、「自分で自分のことを悪いと思っているところや人に対して悪いと思っているところ」は実は光の顕れである、ということに覚めるのです。
3)光のほうが主体で、それが本当の自分
如来様、すなわち宇宙の根源は光ですが、カルマというフィルターを通して、影を作ります。
この影というのは何か?
我々が今、相対的に認識している存在の「全て」です。
肉体は心の影と言うでしょう。
存在は、全て光の影なんです。
影の部分は実体が無いので、空といいます。
自分が認識しているありとあらゆる世界、
相対的なものは、
不満なり苦しみなりネガティブなものが入っています。
そもそも相対とは、そういうものです。
「いやだな」と思うかもしれませんが、
影は光があることで、初めて存在できるのです。
やがて、「光と影が実は表裏一体だった」、と感じられてきます。
自分側のあらゆるものが影で、これはネガティブなものかもしれないけど、全く同じかそれ以上に、大きな光がその背後には差しているのです。
これがわかると、影に対する緊張や不安、嫌悪がなくなります。
妙な判断や評価がなくなり、呼吸もすごく楽になります。
光がなく影だけだと、暗黒に見えるかもしれません。
しかし実際には、光のほうが主体で、それが本当の自分なのです。
でもそれが意識ではわかりません。
意識は、フィルターを通して生まれた影を、自分として認識しているのです。
全ての良きものは如来から賜るものであって、
自分では”良くない”と思っているものも、光あってのもの。
だから、光こそ根源の実体で、影を何らネガティブに思うことはありません。
逆に、影が濃いほど光が大きく感じられるのです。
これが親鸞上人がお悟りになったことで、自分が大悪で凡夫であればあるほど、歓喜が強くなるのです。
4)大愛に浸って、身も心も溶けている状態
中国の善導大師が「二種の深信」ということを言われています。
1.絶対に自分が往生したり悟ったりすることはない、ということを信じる
2.そういう自分を根底からひっくり返して救ってくださるのが阿弥陀様である、と いうことを信じる
この絶対的な矛盾の二つを二種深信と言います。
これは頭で考えてわかる話ではありません。
自分を振り返ってみると、たしかにカルマは影として見えるけど、もう一方からみると、日向ぼっこのようにそこに光が差して、ほんわかしている。
これが、中念佛の結果生まれる日常の心境で、光化に住する、と言います。
また、陰念仏の結果、如来様の大愛に浸って、身も心も溶けているような状態を「大愛に住する」と言います。
5)讃嘆が常に心に湧いている状態
宇宙の本質は無限向上です。
面白いことに、宇宙の向上は、神さまや仏さまを讃嘆することによって起こるんです。
日常的に如来様を褒め称えていると、人を褒めることも苦ではなく、人のいいところを見たら喜んで褒めるようになります。
自分のこともそうです。
これは、ナルシスティックになるということではありません。
何だか如来様に褒められるような感じになるんです。
昔、礼拝行か何かをやっていたとき、如来様に頭を撫でられたような感じがしたことがありました。
「妙だな」と想い、何だか自分が幼稚な感覚に陥ったように思っていたのですが、何とお経に、「頭を摩でられる」と、自分の体験が書いてあって、びっくりしたことがあります。
讃嘆が常に心に湧いている状態、一切が一切を讃嘆し、宇宙が一瞬ごとに向上していく状態、これが随喜三昧です。
向上というのは、即ち讃嘆の心の状態なんですね。
感情の伴わない三昧は何一つありませんね。
6)宇宙には全ての願いを叶える本流のエネルギーがあります
融念佛で生まれるのが本願三昧ですが、人間は常に願いを持っています。
願いを必ず実現する。そのことに100%自分を投入できたら、
宇宙には全ての願いを叶え、幸福をもたらしていくという本流のエネルギーがありますから実現するのです。本願というのはこの本流のエネルギーのことを言うのですね。
决定心(けつじょうしん)があって念仏していると、常に、宇宙大霊・本願のエネルギーと繋がれます。いつもこの状態に住することができたらいいですね。
四種類、それぞれの念佛がもたらす心境が日常になる、日常においても常にその三昧の中にいる。
もし自分の存在が、如来様の光明、大愛、向上讃嘆、あるいは本願の流れに沿っている、というのであれば、人生まさに天下無敵だと思います。
(合掌)