般若心経☆解説−6 〜知恵を開く、人生を開く〜

知恵を開く、人生を開く  般若心経 第6回

法話ライブ at 京都道場  2014年4月12日
般若心経 第6回
法話:遠藤喨及


動画URL
https://www.youtube.com/watch?v=x9B7p66i4lk

(紹介文)
空の中においてはいくらでも現象は生まれてくるし
そこから全ての認識は転換できますし、世界は変えていけます。

まさに今、人類は根源的な悪に光を当てて突破していく時代に入っています。
般若心経のメッセージは
全ての現象は宇宙大霊が元であり、どんなことも可能だから
恐怖や刷り込みといったから早く自由になりなさい。
そのためには自分にも人にもだまされない智慧が必要だから頑張りなさい
ということです。

(書き起こし)

宇宙は人間のために作られた

前回色即是空の3つの意味の話をしました。
相対を超えた宇宙大霊が空であり、そこから一切の相対の現象、人間界が顕れてくる、そうやって人間界が生まれた
我々が宇宙というと人間界の宇宙なわけです。

面白いのは物理学でどういうふうに考えているか、ということ。
宇宙というと人間と関係無いもののように感じるじゃないですか。
だけど、物理学の中で人間原理という考え方が出てきたんです。
どうも宇宙の成り立ちを調べていくと人間を生み出すために
いろんなことが用意されているとしか思えない、
そういう風に説く人が現れています。

この相対界というのは人間界のために作られた、と考えると色んな意味で話の辻褄があってくる

絶対から相対が生まれるほぼ直前にカスみたいなものがあって、
それを通して現象が生じるので
外から見ると魔として、内的に見ればカルマとして認識される

それを通って相対が生まれてくるので
旧約聖書では蛇に騙されたと表現するわけです
蛇に騙されてアダムとイブが人間界に放り出された、というように表現されます。
人間界の中にカルマというものがありますし、
魔というものもそこで存在する

キリスト教は何百年も「神が作った世界になぜ悪が存在するのか」について論争してきて、
決着がつかなかったけどこういうことなんです。

仏教では「無明の風が吹くと存在が生じる」という言葉があります。
無明というのは般若心経でも出てきますが、カルマのことです。
カルマが通って相対世界が生まれる、そういうことを意味している

修業によって相対世界を超えて、直接その大霊の世界が開けてくると相対がないので存在を感じない。
何を感じるかというと、実在を感じる。
大霊そのものを一切として感じます。

世界はどのようにでも変えられる

(経文)受想行識亦不如是
受想行識という認識の世界もまた同じ、と解釈しますけど
外からあると思ってみてますけど、
実は大霊の根源から立ち現れてくる。
今カスを通って相対の人間界が生まれたと言いましたけど、同じことが存在の中にあるわけです。

136億年前のビッグバンの話に限らず、自分が今存在していて、世界を認識していますよね
自分がここに外の世界がある、と思っているじゃないですか。

実際には背後の宇宙大霊が我々の無明、カルマというフィルターを通して外の世界を認識しているわけです。
フィルターが変わったら認識が変わるんです。
外の世界はフィルターを通した宇宙大霊の世界ですので、どのようにでも作り変えることができるし、
どのような見方でも フィルター次第によって変わります。

外の世界が絶対だと思っていると、それは苦しいですよ。
向き合うのが辛いと、どうしても外の世界のせいにしますけど。
カスの問題、フィルターの問題ということがあるんですね。

宇宙の成り立ちと、我々の存在している認識している世界は実はシンクロしている話なんです

136億年前に限らず、今この瞬間に起こっていることですよね。
これを通して世界がある。
受想行識亦不如是の意味です。

瞬間瞬間に生まれては消えていくのが実体

(経文)舎利子。是諸法空相
諸法というのはすべてのもの、存在、現象のことです。
どうやって空、大霊から顕れてくるのか、どういう顕れ方をするのか
をここで言います、ということです。
もちろん一般的な解釈とは違います。

(経文)不生不滅
生じることも滅することもない と訳してしまいますけど。
全部逆転して取らないと本質的な意味は分からないんです。

不じゃなくて無限として読み替えなきゃいけないんですよ。
無限に命は現れてくるし、同時に無限に消えていくしということ。それも瞬間的にです。

実際には存在そのものがそうなんですね
我々は素粒子で成り立っているではないですか。
素粒子というのは瞬間毎に消滅しているのが実体なのです
物理学の実験で存在がどうなっているかというと
瞬間毎に生成して瞬間毎に消滅しているというのが実際の所なのですが
日常ではカルマは過去を土台にして物事を認識しますからそうは思えない
我をよりどころにしているとどうしても思えない。

瞬間瞬間に生まれては消えていくのが実体ですから、
本当はそういうつもりで物事をやっていけばいいじゃない。

カルマや魔は光のためにある

(経文)不垢不浄
解説本にあるような「汚れることも綺麗になることもない」、そんなつまらない話ではありません。

「仏教は何もないという教えです、般若心経は存在がないという事を言ってます」なんて人がいますけど、
そりゃ存在がなければ苦しまないですね。

カルマというのはこうやって発生していくものですから無限に浄化していくものです。
浄化していくことによって全部仏性に転じられるものなんです。
輝かせるためにあるのが実は魔であり、カルマであるですから。
あらゆるネガティブなものは転じたら光になるということなんですよ

我々は根源的な魔というか悪に立ち向かう時代に立ち会っています。
内から見るとカルマなんですけど
それを見ないと外の魔も見られないということなんです。

というのは、智慧がないと物事が見られないから
無明と言うわけです。

智慧は何によって曇るのか、
具体的に知っておいたほうがいいですね。
一つは「他の人が言ってることだから正しい」と思う
みんながやってるから正しいんだろうな、と思う
そうやって我々騙されますから

みんなが正しいと思っていることの中には
すごくたくさんの間違いがあるので
それに従わなかった人だけが真実を見つけることができる

みんながこうしなきゃならない、心配だというと
一緒に心配しなければならない、とか
みんなが大丈夫だといったら大丈夫なんだろう、とか。

もう一つは偉い人が言ってる、というのがあるでしょう。
偉いと言ってもみんなが言ってる偉い人に過ぎないから英語でハロー(halo)効果というんですね。
Helloではないですよ。
簡単に言うと後光というか、水戸黄門の印籠みたいに肩書で信用してしまう。
学者、科学者が言ってるから正しいとか本当によくそれでダマされるでしょ
科学者が言ってるから、政治家が言ってるからというのでよく騙されますね
これらは外を見た時の無明です。

自分の中を見た時の無明ですけど
エゴが不安、恐怖から来ていることを認識できない
エゴで守りに入る、エゴで自分の不安、恐怖から逃れる。
一見表面的にはこれが幸せだと思い込みますが、実際には幸せには導かれない。
それが見えない。
不安、恐怖は大体が外から来ている。

みんながそんなことしなくていいとかいうとやらないし、
逆にみんながやるようになってくると自分もそうしたほうがいいと思って来たりする

そいうところに流されてはいけないですね
自らの智慧によって何をやっていくのかということをはっきりとカスを通してではなくて、
大霊を通して物事を見られるようになっていくことで
騙されることから自由にならなければならないですね。

カルマは転換していけるから不垢不浄というし、
どんなものも本当は無限に増えていくものです。
石油など何々がもう無くなりますよ、何々が足りないですよ、と言われますが

いくらでも人間の叡智で別のものがあるし、おそらくもっと素晴らしい物を創っていけるし
今の時点ですら、本当はあるかもしれない

そういうものを顕していく時代の中で一番じゃまをするのは。
「偉い人が言ってるから正しい」という思い込みやエゴ、不安という智慧の曇らすもの、無明なんです

無限に増えていく、無限に減っていく。
本当の大霊は無くならないものです。
大霊はいくらでも増えていきます。

般若心経はあなたを励ましている

(経文)無色無受想行識
空の中においてはいくらでも現象は生まれてくるし
そこから全ての認識は転換できる、世界は変えていける

無色無受想行識はそういう意味です
宇宙大霊が元だから、どんなことも可能だから
恐怖や刷り込みから早く自由になりなさい。
頑張れ、と般若心経は励ましている

まさに人類は今根源的な悪に光を当てて突破していく、
そのためには自分にも人にもだまされない智慧が必要だから頑張りなさい、と。

お浄土を認識する眼

(経文)無眼耳鼻舌身意
これも無いという意味ではありません。
眼を一つとっても五眼ある。
肉眼(にくげん)人間の持っている非常に限定的な眼
天眼 いわゆる氣を感じたり、インスピレーション的なもの。
ブッシュマンみたいな現代社会に汚されていなければ本来あるべき、未来を予知したり、直感力が働く。遠くのものを見たりする

ベドウィンの人は足跡を見ただけで何時間前にどういう人が通ったか分かる。
かわいそうにイスラエルに雇われるのですが。

慧眼(えげん) まさに智慧のこと。智慧によって物事をクリアに認識する
これは修業によって開発する以外にないですね。カスを取っていくしか
カスに気が付かないといけないですね。
内にも外にも見なければならないです。

法眼(ほうげん) 絶対の世界の中でお浄土を現象として認識できる
絶対であって空なんだけど同時にそういう世界があるという。

間違いやすいのは天眼が開けたくらいで
天使が見えたりとか天上界を垣間見たりして
いろんな直感が開けて過去生が分かったりして教祖になっちゃう人。
本当に多いんですよね

天上界の境地は仏教で魔境というくらい危険なところに陥りやすい。
まだ我が残っていますから、祭り上げられるとアッという間に変なふうになる。
魔もまたそういう能力を持っていますから。
未来を当てたりとか
ますます偉くなっちゃうんですよ。

最初のうちはよかった教祖先生が妙になっていくのはそこら中にある話ですね。
2000年前から経典に書いてあるくらいです。
過去生を当てたり、いろんなことをいう者がいるけど、気をつけるようにってね。
今もそういうところはあまり変わらないですね。

お釈迦様が最初に弟子入りしたアララ仙人という人がいますが、その境地が、天眼が開けている境地だったんですね。
非想処、非非想処という境地は一見悟りに似てるんです。
思うところがない。思わないということも思わない。
お釈迦様は我が残っていることを察知されて、
その人のもとを去って尼連禅河(にれんぜんが)というガンジス川のほとりに行くわけです。

法眼が開けてくると、法然聖人の晩年もそうですけどお浄土を垣間見られました。
弁栄上人も何度もそういう体験をされています。

佛眼は慧眼と法眼が両方合わさった状態です。
絶対の空の境地でありながら、同時にお浄土全部、宇宙一切を全部認識しているお釈迦様の開かれた境地です。

舎利佛がなんでお釈迦みたいに偉大な師が現れたのにこの世界は苦しみや穢れが絶えないのでしょうか?と質問すると
お釈迦様はそれはお前の心の眼がそうだから
パッとお浄土を見せたら舎利佛がああっと感嘆するという話があります。

佛眼だけじゃなくて佛耳もあります。
この境地でもって聞く。人間と全然レベルが違いますよ。

この境地でもって味わう。
この境地でもって感じる。
それはもう肉体で味わうものの比ではない
何にもないなんて解釈するなんてもったいない

念仏中に喩えようもないような味がする体験をする人がいるらしいです。
お浄土の感覚を快楽(けらく)といいますからね。
そういうものがあるんだよ、というのがこのくだりです。

(合掌)