コミュ力・色即是空/コミュ力と般若心経

般若心経は逆さに読め!
法話ライブ at 京都道場  2017年4月15日
法話:遠藤喨及 


動画URL
https://www.youtube.com/watch?v=IH2Ztku30-w

今日のタオ指圧クラスは「人生において、生きる上で一番大事なものは何か?」という問いかけから始まりました。意外にみんなパッと出てきませんでしたねぇー。

僕はコミュ力、つまりコミュニケーションする力だ、と答えました。
もっとも、僕が言ったのは単に、人とのコミュニケーションだけではないんです。
あらゆるものとのコミュニケーションです。

例えば、自分と自分の人生とのコミュニケーション。

一体、人生が自分に求めているものは何か?
これを問答するのが、人生とのコミュニケーションです。

もちろん、自分と他者とのコミュニケーションも大事ですね。

人間関係におけるコミュ力とは何か?
どこまで自己を無にして、相手を主体にできるのか? なんです。

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例えば飲み会とかで、何人かが集まっている「場」があるとしますね。

この時、「場」を一つの生き物と見る。
その時は、場におけるコミュニケーションが必要ですね。

まず、これを楽しい場にするという責任を引き受ける。
すると、場にいる一人ひとりの心の動きを感じるようになるんです。

人の心の状態は、大きくは3つくらいに分けられます。
1つは心の痛み、寂しさとか、そういったもの。

そういう心の状態にある人に対しては、その痛みや寂しさに寄り添うような気持で関わらなければいけません。

「ワクワクする」などの状態にいる人には、遊心で関わらなければならない。

また、「私に注目して!」など、我をバリバリに出したい人に対しては、
我をコントロールする父性的な関わり方をしなければなりません。

実は、本当に人生がスタートするのは、場の一人ひとりに対して、柔軟に関わっていくことができるようになってからなのです。

というのは、場は人生の縮図なんです。だから、場を楽しいものにする責任を引き受けならない限りは、場をクリエイトできず、人生もクリエイトできないのです。
クリエイトできるようになってこそ、人生をスタートしたと言えるんですよ。

そもそも、場をクリエイトできないということは、場に対して受け身ということでしょう。場をクリエイトせずに受け身でいる、ということは、人生に対して、カルマに対して、世界に対して受け身でいるということなんですよ。
それでは人生の主役は張れないでしょう。

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そもそも、人生をクリエイトするには、目に見えないものが主体になっていないといけなません。

なぜかというと、「自分と外界、あるいは他人は別」というのは妄想だからです。

これを説いているのが、般若心経にある「遠離一切顛倒夢想」という言葉です。

「自分が主体で、目に見えない世界に実体はない、というのは妄想だ。
真実とは逆さまだ。そうした妄想を遠くに解き放て」
これが、遠離一切顛倒夢想の意味するところです。

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われわれは、外の世界が実体があり、また力がある、と夢想しています。
しかし本当は、外の世界に実体はなく、また力もない。

自分の心こそが世界の主人公であり、自分が人生を世界を創っていく。

だから、自分はみんなのいる場に対して、盛り上げる責任を引き受ける。
自分は、場に必要な関わりをして、その場をクリエイトしていく。

そういった場における精神態度は、イコール人生における精神態度です。
そしてそれこそが、空なのです。

なぜなら空というのは、人生や場などのキャンバスに、自分が好きなように絵を描けるという心の状態です。

絵が自在に描けたら、どんなことも人生に現象(色)として現すことができる。
これが、「色即是空」の意味なのです。

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外のものに力はあると思ってしまうと、自分の思うように心のキャンパスにイメージを描けません。

“外のものに力を与えてはいけない”という意味の言葉が旧約にあります。

外のものに力がある、というのは、「自分は無力だ」という捉え方です。

でも本当は、無力だというのは言い訳なんです。
人生をクリエイトすることに責任を持ったら、そんなことは言えないのです。

例えば、ものごとを成就するには、「絶対自分はそれを実現する」と決めていれば良いのです。

そういう絶対的な決意をするには、ネガティブな世間の声に自分の心を売り渡したり、心にブレーキをかけたりしない、ことが必要です。

もしかしたら子供の頃、大人に迎合して、いつの間にか世間に心を売り渡してしまった時があったかもしれない。

だとしたら、自分が心の中で大事にしていたものを取り戻さなければなりません。

動物を自分のように思いやるとか、友だちと遊んでいる方がいい!テストなんて関係ねーとか。子供の頃に大事にしていた想いというのは、必ずしも大人が好むような想いでは無かったはずです。

タオサンガで体験する「遊心」の氣というのは、創造性、潜在力の源泉ですから、人と人が遊心でつながったら、素晴らしい、凄いコミュニティを創っていけるはずなんですよ。アースキャラバンもその一環なんです。

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アースキャラバンを創ろうとしている皆さんの心の中にも、いろいろマイナスの囁きが来ると思います。「こんなことをやって何になるんだ」とか、、、。

クリエイトしようとしているものが素晴らしいものであればあるほど、ネガティブな囁きやってがきます。

その瞬間、「これは悪魔の囁きだ!」と気づけるためには、「王様は裸だ!」と言った子供のような「幼子の心」で生きていなければなりません。

「何のために?」とか「どんな利得があって?」なんて関係ないですよ。
面白ければいいんです。ワクワクすればいいんです。

人間が一番面白さやワクワクを感じるのは、みんなで力を合わせて困難を解決したり何かを達成したときなんですよ。

ワクワクする方を選ぶのが人生勝利の秘訣なんですよ。ただしやり通さなければなりません。

例えば、チャトランガ・ゲームのファイナル版をやると、いろんな局面でどの手を打とうか?と選択肢がいくつか出てきます。その時に、手堅い手ではなく、ワクワクする手を選んだほうが勝つんです。

で、人生もそうなのですよ。チャトランガ・ゲームは人生の縮図ですからね。

これをやったら手堅いとか、得するとか、そんなのは関係ありません。
一番面白い、ワクワクすることをしたら、少なくとも後悔はしないし、
必ず次の展開が生まれるんです。

危なくないように、ということで生きていても、つまらないでしょう。
それよりはワクワクして行動したら、絶対に次の展開があるんですよ。

人生つまらないものではなく、いくらでも面白く出来るものなんです。
人生を面白くクリエイトするという部分で人とつながっていく。
これがアースキャラバンなんですね。

今日のクラスでは、場をクリエイトしていくということが、どれほどタオ指圧と不即不離で一致しているかということを、一日かけて体験して頂きました。

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さて、人生とのコミュ力、眼に見えないものとのコミュ力を高めるにはどうすればよいでしょうか?

皆さんは、人生と聞いたら、何をイメージするでしょうか。
過去の人生を思う人もいれば、世間で言っている人生のレールを思い浮かべる人も多いかもしれません。

だいたい大人が「人生が・・・」と説教するときは、安全なレールが敷かれたようなつまらない話です。

ここで言っているのはそういうことではありません。
これからどう面白いことをやっていくか。
「面白い未来とのコミュ力」という話です。

これは自分が腹を据えて、「やってやるぜ!」というガッツが無いとできません。
ズルい大人に首根っこをつかまれたり、世間に矯正されたりして、遊心が抑圧されていなければ、皆の心の中に本当はあるんです。

もっとも学校教育って、創造力の源泉である「遊心」を潰すためにあるんですよね。
今は、たまたまそうなっている、ではないんですよ。
えーっ、知らなかった!? 

世の中の仕組みは善意で作られているというのは誤解です。
だから打ち克って、素晴らしい世界を創っていくように、クリエイティブに生きるのが、人間界の修行なんですよ。

学校や世間で教育されているのとは逆の「こんなに面白いことができるんだぜ」、ということをやらないとなりません。

世界中の皆が、人生につまらないイメージを持っていますが、「人生こんなものじゃない!」というのを爆発的にクリエイトして、みんなを解放するのがタオサンガなんですよ。

縛られたイメージからの解放こそが、本当の解放じゃないですか。
生き方の解放というか、人生の解放というか、、、。

タオサンガは、これをやるための活動なんですよ。

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さて、つきつめていくと、人生と自分とのコミュニケーションは、結局、如来様と自分とのコミュニケーションでもあるんです。無意識とのコミュニケーションです。

人生の主体を物質に置いていたら、如来様とのコミュニケーションは成立しません。
その場合は世間と自分とのコミュニケーションになる。

それって、およそ楽しくないコミュニケーションですよ。
わかるでしょう?

世間とのコミュニケーションというのは、昔大人に言われたこととか、みんなが人生はこうだとか世界はこうだとか思い込んでいる「妄想」との対話になります。

世間の目とのコミュニケーションはだいたい不安を煽るようなものです。
「世間的にちゃんとしているの?」とか、「それで大丈夫なの?」とか、
恐怖との対話ですから、面白いわけないじゃないですか。

如来様と自分との対話も、過去の人類が夢想してきた宗教とか教義とかを持ちだしたら、真の対話になりません。カルマ的な締め付けがあるだけで。

如来さまとの対話は、浄土とか未来のクリエイトがテーマになるんですよ。

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Dr Nobi が「死を恐怖させるのが、人々を隷属的にコントロールする鍵」と言っていて、僕はなるほどと思いました。

昔は地獄を恐怖させることで人々をコントロールしていた。
ところが法然上人が、死のイメージを極楽浄土に変えてしまいました。

もし、このイメージやメッセージが皆の心に入ったら、何にも怖いことがなくなります。

「食っていけなくなる」というのは、現代の恐怖の一つですが、これだって死の恐怖が根底です。

如来様との対話は、死が明るいものになった状態を前提にしているんです。
そして、地獄も怖くない、死も怖くないという状態で行うものでしょう。

でも如来でなく、過去の教義的な夢想との対話であれば、そこにはだいたい縛りが入ります。

多くの宗教団体、伝統的なものも含めて、一見宗教を語っていますが、実は世間話に過ぎません。そこには大霊はいらっしゃらない。だから如来との対話がない。

人に頼らないようにしないと、人生と対話していないと、如来と対話していないと、一見霊的な道であるかのようでいて、偽物に取り込まれます。

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人生に自分に求めているものとは、イコール如来様が自分に求めているものです。

今自分が生きている「場」が生き生きと盛り上がるようにすることが、自分の人生を100%生き生きと盛り上がるということです。

場とは、数名で出会っている「場」もあれば、世界という「場」、未来という「場」もあります。

様々な場を活かし盛り上げることが、即ち自分を活かすこと、なんです。
世界とは、自分の無意識なんです。

外に見えるものは、自分の無意識の現れです。
だからそれを活かさずして、それをケアせずして、自分の人生が盛り上がるわけがありません。

自分の人生が盛り上がるには、周りを盛り上げないといけません
相手が自分を嫌いだとか、相手がバカにしているとかは関係ありませんよ。

ここで、ちょっと自慢話ね、、、。
みなさんは人に嫌われるのはイヤかもしれませんが、僕は割と平気なんです。

実はぼくには特技があって、人に嫌われても相手を好きなままでいられるんです。

なぜだかよく分かりませんが、人が自分がどう思うかということと、自分がその人をどう思うかが、自分の中でつながらない。それとこれとは、全然別の話になってしまうんです。

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如来様とのコミュニケーションのためには、「空性体験」をする必要があります。
“私は空性を体験していないからそうなれない”を言い訳にはしてはいけませんよ。

言い訳するくらいなら、一生懸命周りのことを考え、念佛して祈る、サンガのことを考えて、必要なことをする。

とにかく相手にとって必要なこと、サンガにとって必要なこと、イコール自分の人生との対話をすることであり、自分の無意識を盛り上げることなんですから。

人生をそういう捉え方をして、一瞬一瞬未来をクリエイトしていく、、、。

「未来をクリエイトする」なんてことは、いくらお題目として言ってもしょうがありません。

クリエイトするなら、その人と会っていても、また会っていなくても、相手のニーズを常に想像して感じているだけです。

そもそも、目の前にいたら相手のニーズは何かを、無意識に感じるでしょう。
相手と心を切り離すのではなく、自分は相手のニーズにそのまま寄り添う。
痛みになら痛みに寄り添う。

我に対しては無視してもいいですけど、、、。

もしその人の遊心、人生における可能性の部分でお互いにつながれたら、それは最高に素晴らしい関係になりますし、お互いの人生が展開します。

そういう関係性をサンガの場として、コミュニティを作っていけたら、それが人生のスタートになるし、サンガのスタートになります。

これを単にクラスのワークとしてだけではなく、具体的に実践すものとして、アースキャラバンはいい機会です。

アースキャラバンで、コミュ力、人間力、サンガ力を示すことができたらいいな、と思っています。

(合掌)