宗教の矛盾/人を自由にすべき宗教が、人を縛る問題を解決しよう!

人を自由にすべき宗教が、人を縛る問題を解決しよう
法話ライブ at 京都道場  2016年2月27日
法話:遠藤喨及 


動画URL
https://www.youtube.com/watch?v=gBOBUu-Cppc

(1)宇宙一切を認識する

八正道といってお釈迦様が八つの道について説かれたのが仏教の基本で、
その最初に出てくるのが正見です。

この正見の意味を「正しく見ましょう」と書いてあったり、読む方も「ああそうか」、と思ったりしています。

でもそれって、交通標語じゃあるまいし(笑)あまりにも浅い解釈ではないですか?
お釈迦様が6年間の苦行の後に菩提樹の下で悟り、2500年もの間、人々の悟りを導いてきたものは、そんなもので、あるはずがないですよ。

正見には、果てがないほど深い意味があります。
これをうーんと端折って言うと、「一切認識智」のこと。

どう説明したら良いのでしょうか、、、。
たとえば自分は、浅い範囲でしかものごとを見て(認識して)いません。
宇宙一切を認識するというのはどういうことか?

基本は、宇宙一切の存在を自分の心の中に摂めとっている状態です。
すると宇宙一切に対して、目が行き届くのです。

例えば大勢のなかの一人として話を聞いていると、
自分は、あまり目立たないと思うじゃないですか。

でもね、ここに座ってごらんなさいよ(笑)
結婚式のスピーチなんかのときでもそうでしょうが、
そんなときって、一人ひとりの動きが目に入ってきますよ。
認識が変わるんです。

皆の気持をすごく気にしていると、みんなの想いが心のなかに入ってきます。
もっとも、一切認識智はこんな程度のことではないですけどね。

(2)宇宙一切が一つの存在の動きに現れている

「気の幸福力」(法蔵館)に書いたんですが、
ヨガの先生がアメリカにいって、「悟りとは何ですか?」って
ワークショップの参加者に聞かれたんです。

その時、「世界中が恋人みたい」と答えた。
一見、「すごーい! さすが悟った人は違う」と思われたかもしれませんが、
これって、まだまだ浅いんです

自分を中心に世界を見ているのでは、真の悟りのレベルではない。
経典に、それは「権大乗(にせの大乗仏教)」と書いてあります。
それは天上界の悟りであって、本物の大乗の悟りでは無い、と。

どういう意味かと言うと、
真の大乗の悟りとは、一切の存在から一切を見ている状態です。
自分というものがない。あるいは一切それ自体が自分である。

そして、宇宙の一つの動きが瞬時に宇宙一切に波及する。
同時に、宇宙一切が一つの存在の動きに現れている。
そう言った、一瞬一瞬のすべての宇宙全体の動きが、
同時に自分という個を土台にせず、一切の無辺の側として認識されている、
ということです。

自分の一つの動きって、自分が動かしているんだ、と思うでしょう。
でも実際には、それは宇宙一切の動きの現れなんですね。
かつ自分の動きは、同時的に宇宙一切を変化させている。
これがわかる。
何が原因で何が結果かというのは、個別には存在していないんです。
本当はこれが、「因果」とか「縁起」というのです。

因果を英語では、Cause and effect(原因と結果)と言いますが、普通に聞くとニュートン力学みたいに当たり前の話に聞こえます。

でもそんな当たり前の話ではない。
事々物々一切が、同時に原因であり結果であり、
なおかつ瞬間ごとにすべて変化している。

宇宙が何のためにこういう構造になっているかというと、
霊的に無限向上するためなんです。

(3)向上の真の意味は、潜在力の開発

向上という言葉も誤解されやすいですね。
「向上しなさい」とか、外から強制されて「はい、頑張ります」
みたいなイメージがありますよね。

でも向上の真の意味は、潜在力の開発です。
だから、必ず現状をぶち壊すのですよ。
それが宇宙の法則ですから。

これまでのことが壊れて新たな法則ができるんです。
宇宙の法が…と言っても変わらないものがあるわけではなく、
法そのものが変わるんです。

これを「横超」という言葉で表現することもあります。
普通だったら、宇宙の法則を超えられないように思います。
でも、横っ飛びに超えてしまう。
それで横超といいます。
阿弥陀如来の慈悲による横超によって、悪人が往生する、と。

だって普通に考えたら、我々のようなカルマの重い存在が、
少し修行したところ人生変えられるはずがないでしょう?
悟れるはずないでしょう?

それが他力によって、心が啓けて来るのです。
心身が変わり、人生が開かれていくのです。
カルマの法則を横超するからです。
ねっ、面白いでしょう。

(4)新しい心の世界、新しい人生が開けてくる

世の中は霊的には向下するように仕組まれています。
でも宇宙の本質は、そんなものは超えて、
瞬間ごとに潜在力を発現していく。

だから毎瞬、既製のものは壊れていく。
自分がこれまで既成概念的に思っていたものなんか、
そんなものを壊してこそ、
新しい心の世界、新しい人生が開けてくるんです。

潜在力を開発すること。
今までの自分が思っていたことが覆されること。
この両者は、表裏一体なんですよ。

科学なんて「今までのはウソでした」ということの繰り返しで
発展してきましたからね。

本当は宗教もそうなんですよ。
本物は皆そうやって始まったんだから。

例えばキリストも、ユダヤ教の偉い人たちのことを、
「あいつら神様がどうとか言っているけど嘘だよ」と言って始めた。
「エルサレムの神殿なんてぶっ壊しても、オレが三日で建てなおしてやる」
とか、イエスって言うことが過激なんですよねー。

法然上人だって「修行も戒律も関係ないよ」って、
完全に仏教のコンセプトをぶちこわしているんですよ。

日蓮上人も「日本がこんなになったのは…」と、
既成仏教の人たちをボロカスに言って追われたのです。

(5)本来なら人を自由にするためのものが、、、

宗教ほどやっかいなものはない、と思いますよ。
本来なら人を自由にするためのもの。
なのに、これほど人を縛っているという、怪しげな真逆の実体。
この絶対的な矛盾は、なぜ生じるのでしょうか?

そもそも、宗教の本質、真理を体験していないと、
「今までこう言われていたから」とか、
過去を前提として、宗教を捉えてしまう。

「伝統が…」とか「法然上人がこう言った」とか、
「聖書にこう書いてあった」とかいろいろあります。
でも、そんなのは、自分の頭で言葉で理解しているものじゃないですか。

実際には、自分の頭の中で言葉になった時点で、すでに過去の残骸なんです。
真理は、今、自分が「こうだ」と思っているその認識を必ず覆すんですよ。

それが宗教の本質なのに、宗教で上の地位にいる人たちが、
ほとんど逆をやってしまうから、人を縛ってしまう。

人を縛った時点で、もうその宗教は終わってます。
そこには何ひとつ真理はありません。

(6)真理とは現在を覆していくもの

真理は、常に今の自分を越えていくんですよ。
潜在力の発現、向上とはそういうことです。

皆さん、念仏はこういうものだとか、
仏教はこういうものだとかって、頭で思っているでしょう。
でも、それは全部過去の残骸なのです。
そこに意味はない。

なぜなら霊的な本物性、真理というものは、そ
れらを全て覆していくものだからです。

皆さんも、今の自分を覆していくような向き合い方をタオサンガでしないと、
いつしか、法然上人や日蓮上人を弾圧した側と結局同じことをやってしまいかねないですよ。

もっとも、修行することも信仰することもない状態だったら、
そのような論議以前の話になりますけど、、、。

(7)豊かな霊性に支えられている認識

自分が”佛の教えとは「こうだ」”と思っているのは、
真の仏の悟りの内、髪の毛の一本すらない程度の細いものです。

自分の霊的な深さや宇宙の認識が、
どこまで深くなってもそうなんです。

そういう心の態度でないとおかしくなるんですよ。
「自分は何年か修行したからこれくらいは知ってるぞ」
これがもうすでにおかしいのです。

「どこまで行っても、せいぜいが髪の毛一本程度」という心が、
実は非常に豊かな霊性に支えられている認識なのです。

宇宙の霊的無限向上という本体とつながっていると、
自分の認識や言葉で理解しているものが、
非常に浅い一部でしかないということが、非常によくわかります。
真理とは、ダルマとは、言葉にならないものですから。

どういう思いを持っているときが、
宇宙大霊とつながっている状態か?
これは気のワークをするとはっきり分かります。

(8)人間存在が本質的に持つ矛盾

どうして宗教が人を縛るものになってしまうのか?
これは、決定的な人間存在自体の矛盾によるのです。
この矛盾をどう解消するのかがタオサンガのテーマなんです。

人間という存在には、いろいろな矛盾があります。
例えば、、、。
・幸福を物理的に追求すればするほど、幸福からは遠ざかる。
・霊的向上や悟りを人生の目的におけばおくほど、
 人間は物理的な面を含めて幸福になっていく。

これらは隠された宇宙の秘密です。
だからまず普通は、そういうふうには思わないでしょう。

一般的には、「悟りを求めるなんていうのは、物質的なものを諦める」
そんなイメージがあります。ところが、宇宙の物ごとは逆転するんです。

・物理的な豊かさを得るほど幸福から遠ざかる。
・物理的な幸福を得るほど、苦しみの種になっていく。

人間存在は悲しいですね。
苦しみの種になるということが分かっていて、
なおかつ求めてしまうのが人間。
矛盾だらけですね。

人間存在が本質的に持つ矛盾と宗教との関わり。
これを考えると、生きることも含めてですが、
霊的に生きる、宗教性に関わるというのは、
綱渡りのようなかなり難しいことだな、と思います。

(9)自分のイメージが自由になれば、そのイメージ通りに現象が起きる

悟りと自由はイコールなんですよ。
そもそも自由の「自」というのは宇宙大霊のこと。
そこから「分」かれたのが「自分」です。
宇宙大霊が発現してくるのを、自由というんです。

なぜなら、宇宙大霊と融合したら、
自分の念のコントロールはより一層自由になります。

自分のイメージが自由になれば、
そのイメージ通りに現象が起きる。
そして、思い通りの人生になっていきます。

ところが、人間なかなか思い描くことが自由にできないのです。
良いことを思おうと思っても、ポジティヴに思えないとか、
ヤキモチを焼かないようにしよう、と思ってもできないとか。

だから、幸福になる、自由になるというのと、
悟りを得るのは、実際にはイコールなのです。
それで神の子イエスは、自らの悟りの力で、
いろんな現象を起こして見せていたのです。

自由を得る、悟りを得るには、
何よりも大霊と繋がることが必要です。

さらに大霊とどう繋がったらいいか、という教えも必要です。
そして、その教えに基づいて修行する場が必要です。
この3つがなければ成立しません。
仏教では、この3つを佛・法・僧と言います。
ブッダ、ダルマ、サンガね。

「教えや場がなくても成立する」と、
そう我(エゴ)は思いたくなるかも知れません。
「私、本を読んで一人でやるわ」とかいって。
でも、本イコール教えではありません。

あらゆる教え、文化は人から人へ伝わるものであって、
本を読んだからそれで伝わる、というものはありません。

仏教で三宝といって佛法僧を非常に大切にするのは、
そういう意味があるのです。

僧(サンガ)というのはコミュニティという場のことです。
仏法僧は分けられないから、「三宝」といいます。

聖徳太子は十七条の憲法で「篤く三宝を敬え」と書きましたよね。
日本の最初の憲法だから、これと九条を日本は誇りにして良いと思います。

聖徳太子は、馬小屋の前で生まれたとか、7人の話を同時に聞いて答えたとか、
イエスの子供の頃の話と似ていますね。

三宝はどれが欠けても成立しません。
世界のあらゆる仏教徒は、
「ブッダンサラナンガッチャーミー ダンマンサラナンガッチャーミー サンガンサラナンガッチャーミー」と帰依の言葉を唱えます。

(10)固有の佛法僧を通さなければならない

教えを学ぼうと思ったら、佛、教え(法)、サンガ(僧)に帰依します。
どこか固有の佛、法、僧を通してでないとを修得できないのです。

だから個別の仏、教え、場を通して、宇宙一切と繋がって、
宇宙一切に、大霊の光を回向(振り向ける)する。
そのために大乗仏教の修行はあるのです。

本当の大霊は宇宙一切。
そして宇宙一切が法。
サンガも宇宙一切です。

また、自分の肉体という個を通さなければ人生が無いように、
何かの場を通さなければ、
回向(大霊の光明を一切に振り向けること)はできません。

回向が目的なのです。
それは固有の佛法僧を通さなければならない。

でも逆に、それがあだとなって、たとえば、○○宗とか○○教団とか、
組織だけに目を向けるようになったときが危険なんです。
人を縛るようになるからです。

真のサンガは一切衆生、生きとし生けるもの。
そこに回向するための修行の場としてのサンガなんです。
そのスタンスがしっかりとあれば、
自由になっていくことができます。

でも、それに対して目をつぶってしまうことが多いんです。
そして目を向けるのが、組織内だけになったときに、
本来人を自由にするものであったはずの宗教が自分を縛り、
人を縛るようになります。これが非常に怖いのです。

かといって、サンガを足がかりにして自分のために利用する。
そのようなスタンスでは、自分が主体になって「自我肥大」を起こします。
ここには我の自由だけがあって、真の霊的豊かさは何1つありません。
それどころか邪気だらけになります。

組織に自我を投影せず、組織利用の自我肥大も起こさず、
このどちらにもならないというのが、ほんとうに綱渡りなのです。

(11)人類の宗教カルマを克服を実現できるのか?

この綱渡りがうまくできたら、
これまで人類が犯してきた、また現に犯している、
宗教における間違いを繰り返すことなく、
乗り越えることができるでしょう。

最初は自我一切を覆すものとして始まった教えが、
既成の宗教になった途端に、自我を守るようになってしまいます。

そうして、最高に革命的な教えだったものが、ついには真逆のつまらないもの
になってしまう。そういうことがこれまで繰り返されてきました。

果たして今までの人類の宗教カルマを克服を実現できるのか?
これはタオサンガで修行する1人1人にかかっている、と思っています。

今日は、人類の最初の試みとして、四つの宗教の神様の名を唱えて一切に回向する、
という異宗教融合念佛を公式にやってみました。

新たな世界を開いていけば、人を自由にし、
それでいて自我に立脚しないものがクリエイトできる。
「クリエイトする」ということは、
既製のものを自ら壊しながら、やっていくということです。
我々は、とどまろうとするものを捨て去っていかなければなりません。

金剛般若経というお経に、
「真の修行者ならば法でさえ捨てなければならない。
ましてや法でないものはなおさらである」とあります。
(原文:筏の喩えの法門を知る人は、法さえも捨てなければならない。まして、法でないものはなおさらのことである)

そのように潔くできたらな、と思います。
また修行者は、そうカッコよくあるべきだと思います。
    
(合掌)