わが内なるサンガに宇宙大霊が宿る
法話ライブ at 京都道場 2016年6月18日
法話:遠藤喨及
動画URL
https://www.youtube.com/watch?v=_NHOVXkMcZA
1)存在は認識したときにしかない
今、Facebookで、毎日何か一言書いていくのを自分に課しています。
以下は、投稿するのをやめようかと思ったけど、思い切って出したものです。
「サンガというのは修行のコミュニティである。
しかしメンバーが自分のことを、“その中の一人、<One of them>と思っているなら、たとえ100万人いたとしても、そこにサンガは存在しない。
でも、その中に一人でも、“自分独りが一身に法を背負い、我が責任として三宝を引き受ける”という矜持を持っているなら、その人の心の中にサンガは存在する。なぜなら、生きとし生けるものの魂、宇宙大霊がその心に宿っているからだ」
これ、自分で言うのもなんですが、結構深い話なんですよねー(笑)。
実は、量子力学に通じる話なんです。
量子力学というのは、面白いことに、「認識しているときは、そこに存在はあるけど、認識していない時には存在はしていない」ということを、実験によって確認しているんです。
“でも、寝ているときは認識していないけど、起きたら同じものがあるじゃないか。だからやっぱり、あるものはあるんじゃないか!?”って言いたくなりますよね。
でも、これは“「識」が習慣性を持っていて、同じようなパターンで認識が続くから存在が生まれ、それを持続した存在として認識している”のです。
これは、量子力学と大乗仏教の「唯識学」との非常に大きな共通点ですね。
“識だけが存在する”、と。
お釈迦さまの時代には唯識学はありませんでした。
しかし、お釈迦様のお悟りの中にそれらは全てがありました。
時代の制約(衆生の理解)によって、語られるものと語られないものがあったのです。お釈迦様が全部語られなかったものは、大乗仏教によって明確になり、さらに弁栄上人が、大乗仏教の最後のパズルのピースをはめられたのです。
2)他者の経絡が自分の心の中で認識できる
量子力学は、実は経絡とも共通しています。
例えば、一般に人は、経絡が外にある存在だと思っています。
しかし、これは最大の間違いなんです。
経絡は外には存在しない。
自分の心の内にしか存在しません。
経絡治療とは、自分の心の中にある相手の経絡を、自分の心の中で治す作業なんです。
なぜ他者の経絡が自分の心の中で認識できるのか?
それは、“人のことが全部、「わがこと」という心の状態”だからなんです。
つまり、外のもの(外界)は存在しない。
外の人(外界)が持っている症状、苦しみ、辛さ、喜び、それらが全部自分の中にある。だから、すべては内にしか無いのです。
「我が内なる他者の苦しみ」、あるいは経絡を施術し、我が内で癒え、その結果、相手の人の症状が良くなる。
これの実際を、タオ指圧のクラスでは繰り返し学んでいるのです。
3)宇宙大霊の仏がわが心に宿っていないと、相手の経絡を100%入れられない
自我意識は幻想です。
だから我は、他者の苦しみや経絡を、“外のものであって、自分のことではない”と して追い出してしまいます。
それで色々な問題が起こるのです。
本当は、他者の経絡やツボを、指を通して自分の心の中に100%入れさえすれば、相手は治るのですが、、、。
さて、どのような原理でこれを訓練するのか?
まず、自分の心に他者の経絡を全部入れようとします。
「他者」と思っていますが、実は自分自身をそこに投影して他者として見ているのです。
また、他者の経絡を全部自分の心に入れようとしますが、普通の状態では、相手の経絡は自分の心に入りません。
実は、宇宙大霊の仏がわが心に宿っていないと、どうしても我が出てきて、相手の経絡を100%は入れられないのです。
4)癒しが起こるとき
仏様が宿るということは、「我が消える」、ということです。
そして、どうしたら仏様が宿るのかというと、相手のことを「わがこと」として引き受けることによるのです。
実はこれ、「卵と鶏とどちらが先か?」というのと同じような、決定的なパラドックスを含んでいるのです。
というのは、「相手のことを100%わが内に引き受けていないと。仏様は宿らない。
でも、佛様がわが内に宿っていないと、相手のことを100%引き受け切れない。」
一体、この矛盾をどうしたら解決できるのか?
実は、「佛法僧の三宝」を我が責任として引き受けることによってのみ、これが可能となるのです。
先ほど申し上げたように、「法を人々に伝えることへの責任を、われ独り引き受けて生きる時には、宇宙大霊がその心には宿っています。」
宇宙大霊が心に宿っていれば、相手の存在(経絡)を100%わが内に入れられるのです。
そして相手の経絡をわが内に100%入れた時、相手と仏様とは直結するのです。仏さまの生命がそこに(相手に)宿るのです。そこに癒しが起こるのです。
これが真の経絡の治療原理なのです。
本当の意味で相手が癒やされるには、他には方法はありません。
5)「責任者なんとかしろよ!」って何?
先ほどの話に戻しますと、受け手の人を対象化して見たときには、「この人の問題はこの人の問題、私の問題は私の問題」となります。他者の症状も、苦しみも、“他人ごと”となります。
ところが、相手の存在を“わがごと”として引き受けた場合は、“私の問題”となります。
経絡を我が心の内に認識するというのは、その心の状態なのです。
経絡が人ごとでなくわがことであるように、他者の問題も、またわが問題でしょう。
これと同じように、「仏法僧」をわがこととして引き受けた場合には、サンガが「対象化」したものとしては見えないのです。
仏は「我が内なる仏」だし、法は「我が内なる法」だし、サンガは「我が内なるサンガ」です。
我が内なるサンガ、というのは対象化しないということ。「他人ごとでなく、わがこと」ということです。
そしてサンガを対象化していなければ「サンガには問題があるんじゃない?」という言葉は出ないのです。だってそれって、「責任者なんとかしろよ!」ってことでしょう?「自分がなんとかする」んでなく。
6)我が問題としてこそ、その心に仏様が宿る
もし真の修行者ならば、そこには、“わが一身に法を背負う”という矜持があるはずです。そして、サンガが「わがこと」なら、どんなサンガの問題も自分の問題です。「責任者出てこい!」でなく、自分自身が責任を持って解決する問題となるはずです。
仮にもし「サンガの問題」とかそういう言葉が出るならば、そのときは、サンガを外のものとして対象化して、自分を無責任な部外者として置き、あくまでも“ひとごと”として見ているということでしょう。
これは、人が治療を受けに来た時に、「あなたの身体の問題じゃない?」と言っているようなものではないでしょうか?
一身に仏法僧を背負っていて、何か問題を感じるとしたら、それは我が問題なのです。三宝をわが問題としてこそ、その心に仏様が宿るのです。
そのような心でこそ、経絡治療をする上においても、わが内なる経絡が認識できるし、また治療ができるのです。だからこそ、「我が内なるサンガ」でなければならないのです。
その矜持や覚悟の心に、一切の生きとし生けるものの魂が宿り、そこにこそ、一切普遍の道があるのです。
7)あらゆる宗教の根底にある真理が、すべてつながりを持って認識される
「責任者出てこい!」的に、サンガを対象化して捉えている時は、サンガを外部に追いやっています。
その人の心にはサンガは存在しません。生きとし生けるものとも、普遍とも、つながりようがありません。
サンガは我が内にいれてこそ、初めて一切の生きとし生けるものの普遍なる生命とつながるのです。
これは法においてもそうです。
よく間違えるのは、仏法僧を対象化して客観的に観ることが、普遍的な認識である、という捉え方です。
これもまた、自分を部外者に置いているということですから、その人の心に法は宿りません。法が宿らなければ、その心に霊的な目覚めはありません。
法を、わが内に入れてこそ、一切普遍に通じる法が認識できるのです。だからこそ、あらゆる宗教の根底にある真理が、すべてつながりを持って認識されるのです。
サンガにおいてもそうです。自分の修行コミュニティであるサンガを、外に認識していないからこそ、生きとし生けるものがわが内に宿るのです。
仏様に関してもそうです。
わが内なる特定の阿弥陀様を本尊としてお迎えしているからこそ、
一切普遍の宇宙大霊がその心に宿るのです。
8)心に宇宙大霊が宿り、一切普遍のサンガが存在するとき
まことの修行者ならば、この「決定的なパラドックスにある真実」、というところに立たないとならないのです。
対象化している限りは、外に何かがあると思っています。
繰り返しになりますが、そういうサンガ認識になった時点で、すでにサンガは存在しません。
自分を“One of them (集団の1人)”とした時点でサンガは存在しない。同様に、「サンガに問題があるじゃない」、とか言った時点で、サンガを対象化した時点で、すでにその人の心にサンガは存在しないのです。
同様に、「経絡に問題がある」と、経絡を外に見た時点で、経絡は存在しません。
無いものに治療はできないように、サンガがないのに、「サンガの問題点」もへったくれもないのです。それは自分の問題を投影していたに過ぎないのです。
これが逆転して、経絡を、サンガを、全部がわが内なるものとして、それらをより良いものにクリエイトする責任を引き受けた時に、その心に宇宙大霊が宿り、一切普遍のサンガが存在するのです。
9)集団が消えなければ、”生きとし生けるもの”という視野は生まれない
量子力学や唯識で説く、「認識においてのみ存在がある」ように、
結局、サンガが存在するかしないかは、その人の心次第なんです。
その人の心においてのみ、サンガは存在するのです。
客観的な経絡は存在しないように、客観的なサンガは存在しません。
客観的なサンガは存在せず、それぞれの内なるサンガがあるのみなんです。
一方、外なるサンガを自分から切り離したら、それは内にもありません。
内なるサンガとは、全てをわがこととして、わが責任として引き受け、わが身として内に入れる、ということです。
我がこととして入れた場合には、経絡を自分の内に感じるのです。
その心には、宇宙大霊の如来様が宿っているので、相手の虚を引き受けても、根底は苦しくありません。しかし、違和感という負担があります。そこで、それを治療するのです。
10)わが責任として引き受け修行することによって、必ず悟りが開ける
根底が如来様大霊というところとつながっていないと、相手の経絡は引き受けられません。「相手を引き受けようとするからこそ如来様が宿る」というところもあります。
ここは極めて微妙で、どう説明していいか分かりません。
最大のパラドックスは、「仏法僧(相手の経絡を含む)への責任を引き受けないと如来様が宿らない。」けれども、「如来様を宿していないと責任は引き受けられない。」です。
今日の午前中に、「わが責任として引き受け修行することによって、必ず悟りが開ける」という念佛メソッドのワークをやりました。もしかしたら念佛メソッドによって、このパラドックスが解決するかもしれません。
11)人間関係があれば、当然、何らかの問題は発生する
今ちょうどターニングポイントですね。
念佛もサンガも無かった状態からここまで来ました。
ですが、サンガを対象化し、自分を“One of them”としてしまうと、あたかも自分とサンガという集団、の区別があるような幻想に陥ります。
その結果、人間関係があれば、何らかの問題が生じるのは、当たり前なのに、「サンガのアレは問題だ」とかなります。
そもそも、その心にはサンガは存在していない。ということは、その思考自体が矛盾していることに気づかないとなりません。
12)集団が消えなければ、生きとし生けるもの、という視野は生まれない
さて、面白いことに、これから申し上げることも、矛盾したパラドックスなんです。
まず、仏教コミュニティという意味のサンガがあります。
「この人と、この人と、この人がいる」というもの。
これがないと仏法僧は成り立たないのですが、それら(この人と、この人と、この人)を全部わがこととして、わが内に入れていないと、自分の心の中にある、「サンガという集団」という幻想は消えないのです。集団が消えなければ、生きとし生けるもの、という視野は生まれないのですよ。
、、、分かりにくいでしょうね、これ。
全部わが内に入れていないと、タオサンガが集団に見える、ということ、って。
13)個人という幻想も、集団という幻想も消える
サンガをわが内に入れられた時に、その心には如来様が宿っていますから、一切の生きとし生けるものが、同時にその心に入っているのです。それで集団という幻想が消えるのです。
何故、サンガをわが内に入れることで集団という幻想が消えるのか?
メンバーの1人1人を心の内に100%受け入れるということは、1人1人の先祖から何から、あらゆる因縁まで全部引き受けているということだからなんです。
それは経絡治療をする上でも同じなんです。1人を100%引き受けるというのは、そこまで深く強く人を想う心なんです。
全部の因縁を引き受けてこそ、初めて「人を引き受けた」と言えるのです。
これが経絡をわが内に入れる、サンガをわがことする、ということなんです。
この時は、空性なる因縁だけがあり、個人という幻想も集団という幻想も消えているのです。
14)サンガの人たちが、とってもありがたい存在に見える
ところが、サンガをわが内に入れていない限りにおいては、サンガはあくまでも集団でしかありません。
これはすごく狭い心だし、サンガが人ごとなんです。
サンガを人を対象化して見ていますから、色々な我(エゴ)とか闇とか、ネガティブなカルマが全部投影して、その目には映るのです。
サンガをわが内に入れたら、そのような投影はされません。
逆に心に宇宙大霊の如来様が宿りますから、外なる物が全部逆転して光に見えて来るのです。
サンガの人たちが、とってもありがたい存在に見えるのです。
たとえどんなわずかなことであっても、法のため、生きとし生けるもののためにしてくださる行為が、光ってありがたいものに見えるのです。
15)修行はここから始まる
自分のネガティブなものが投影されたら、この光は見えません。
先ほどの経絡と一緒で、根底は非常に楽なんだけど、サンガにおいても、違和感を感じる部分があります。
その違和感をわが責任として全部引き受けるからこそ治療ができる。これと同じように、サンガでも同じようなことはあります。みんなの色んな問題が我が内として「ああしたらいい、こうしたらいい」と自分の中で動きます。
本当はここにおいて、その人にとってサンガが存在するということです。
そして、修行はここが始まりです。
(16)一切の因縁が救われ向上し、そこから新しい未来が拓けてくる
経絡がどうしたら全部内に入るかということを、タオ指圧クラスでは、繰り返しトレーニングしています。相手の経絡を内に入れさえすれば、相手の症状は消えるのです。
氣コミュニケーションにおいてもそうです。
心に100%入れてもらった人は、それだけで癒されるという体験があります。
経絡が外のものでなく、内に入れることである。
ここからがタオ指圧の本当の始まりです。
他者は外の存在でなく、内に入れることである。
ここからが人間関係の本当の始まりです。
サンガは外の存在でなく、内に入れることである。
ここからが修行の本当の始まりです。
そして入れたところは始まりであってゴールではありません。
入れ続けることによって、一切の因縁が救われ、向上し、そこから新しい未来が拓けてくるのです。
サンガをわが内に入れ続けていくことで、大霊が宿り、一切が向上し、救われていく。このような霊的世界が展開するのです。
(17)言葉を霊とする以外の生き方をしたくない
僕のサンガへの願いを最後に申し上げます、、、。
サンガでは、言葉をそのまま信じ合える人間関係が欲しい。
、、、それだけが僕の願いです。
「あの時はこう言ったけど、実はこうだった」と後で言われても、人が言ったことをそのまま信じる僕としては、どうして良いかわかりません。
聖書には「言葉は神だった」、と出てくるくらいで、僕は言葉は霊だと思っています。
僕は人の言葉を、霊としてそのまま受け取る以外の生き方はしたくない。
もちろんこのために人に騙されることは多々ありました。
でも、人を信じられなくなるぐらいなら、騙された方がよほど良いんです。
また自分が何かを言ったら絶対に嘘つきにだけはなりたくないと想っています。
もちろん、時に忘れて迷惑かけることはありますが。
お互いに、言葉通りをそのまま信じられる人間関係が、本来の「当たり前」だと思います。この「当たり前のこと」が、まずサンガにおいてできて欲しい、そう心から、切実に、思います。
人と人が、お互いの言葉を信じ合えることが当たり前となる世の中にするためにも、まずはせめてサンガでは、この当たり前のことを実現したい。そう思います。
お互いに相手の言葉がそのまま信じられ、お互いのことを他人事(ひとごと)とすることなく、わがこととし、お互いの存在を心の内に入れ、癒やしあえるような人間関係でありたい、そのことを心から願っています。
(合掌)