般若心経☆解説−5 〜心の縛りから自由になる。色即空〜

心の縛りから自由になる。色即空  般若心経 第5回

法話ライブ at 東京道場  2014年4月5日
般若心経 第5回
法話:遠藤喨及


動画URL
https://www.youtube.com/watch?v=gNyMkw0YdHg

色即是空の3つの意味の解説です。

(1)
宇宙は大霊が元です。
だから心の働きによって、
人生や世界を自由に創っていくことができる。

(2)
宇宙の成り立ちについて、、、。
絶対の大霊から、
「相対」(上下、自他、主観客観など)が生まれることで、
人間界の宇宙は生じたのです。

その生みの苦しみの過程で、カスのようなものが先に生まれる。
それがカルマとか、魔というようなものです、

宇宙が生じるときに現れた、
カルマや魔に立ち向かっていくことによって、
世界はますます豊かになり、光明が輝いていきます。

(3)
佛法僧と空の関係。
一切のためにという心に立つからこそ、
仏法僧が空だということが分かるんです。

それによって、我の縛りから解放され、
仏教一般としてではなく、
タオサンガの仏法僧というところに立つことができます。

そうした「入門」という境地になってから、
本当の修行が始まるのです。

(書き起こし)
(経文)色即是空

これは、般若心経のエッセンスと言われているところですね。
色即是空は、無限の意味を持つ言葉です。

色とは目に見える世界です。現象、物質と言ってもいい。
空は、いろんな言葉で表されています。

目に見える世界の背後にあるから、宇宙大霊とも言うし、
相対を超えているから絶対とも言います。

目に見える現象には、それを背後で支え、
かつそれを超える世界があって、
同時にそれはイコールだから、即というのです。

しかし現象の本体は、大霊であり、空であり、
相対としては捉えられないものです。

相対として捉えられないということは、
意識で認識できないということです。

意識というのは相対的にものを捉える、という働きです。
これによって我々はものごとを認識しています。
私がいて、あなたがいて、とかね。
だから、あなたがいなければ、私もいないんです。

意識できないものは存在できないのと一緒ですからね。
感覚に触れてこなければ、それは無いのと一緒なんです。
これは、当たり前のことですけど。

たとえば、犬にとっては爆音でも、人間の周波数が捉えない音は、
人間にとって存在しないのというのと一緒です。

本当は物質にだって限界はない

さて、現象を成り立たせているのは、目に見えない世界です。
存在は、どうしてこういうふうに成り立っているのか?
宇宙の成り立ちはどうなっているのか?、

一体、大霊の心と現象の、どっちが元なのか?
大霊、空が元になって現象が現れているのか?

もちろん、空が元だと言われたら、
頭ではその気になるかもしれない。

でも、普段どう思って生活しているのか?
目に見える世界で悪戦苦闘したりするのだったら、
現象が元だと思っているのです。

そこで視点をちょっと変えてみましょう。
色と空のどちらを頼りに生きる方が得なのだろう?

我々は、物質、現象の方をなんとかしないと損すると思い、
物質を追い求める。

でももし、本当に大霊、心が元だったら、
どうでしょう?

心には限界がないでしょう? 
限界がない、ということが本当なんだ、ということであれば、
本当は物質などの目に見える世界にしても、限界がないはずでしょう?
実際のところ本当のところ、限界はないんですよ。

思い込みや洗脳からの解放

でも我々限界があると思っているでしょう? 
あるいは、そう思わされている。

たとえば、石油は後何年で枯渇しますよ、とか。
お金はこれだけしかありませんとかね。
自分がこれだけ取らないと、
他の人が取って無くなっちゃうよ、とか。

これらのかなりの部分が、
そう思い込まされてるんですね

本当は心が元ですから、目に見える世界にしても、いくらでも増やしていけるものなんですよね。

でも、そういう真実に、人類が気づいて欲しくない、
人類に目覚めて欲しくないという、そういう魔的なエネルギーや力もまた、世界には働いているんですね。

その魔的な勢力が作っているシステムによって、
教育がねじ曲げられ、マスコミがコントロールされ、
人類が日々刷り込みを受け、洗脳されているというころもあるのです。

でもだまされてはいけません。
本当は大霊が元なのです。

大霊の側に往かないと人間は自由にならない
大霊の側に往けば本当に自由になるのです。

騙されちゃいけないですよ。
本当に多くの人がだまされて、自由のない生き方を
強いられている、、、とも言えるし、
それを自分から選んでいるとも言える
、、、まあどちらの面もあるから面白いとも言えるんですが、、、。

世界というものは、そういうものだ、とみんなが思っていて、
そういう教育を学校でもされて、そういう風に育っていく。

人間は、他のみんながそう思っているなら、
世間一般で認められている、権威ある誰かが言っていることなら、
それは正しいことなんだ、という心理が働いて騙されてしまう。

象は子供のうちから杭に繋がれていたら、
大人になっても、逃げられるのに逃げないそうですね。
それとよく似ています。

真理はみんなが思っているのとは、通常は逆なんですね。
それを発見して自由になること、それが人間の権利なんです。

だから本当は、世間の側でなく、大霊の側に立たなければならない
そうしたら生き方がガラッと変わるはずなのです。

どうしてこんなに不安とか恐怖に縛られた思いの中で、
ケチくさい生き方をしていなければならないのか?

人間はそんなものであるはずがないんです。
大霊であり、如来様の力をいただいている存在が人間なんですから。
そんなはずがない! ということに、まず気がつかなければならない

世界に思い込まされている色んな縛りがたくさんあります。
その縛りを打破するためには、努力しなければならない
それは自由を得るための努力です。

それは正しい努力なんです。
恐怖に駆られたが故にする努力は、さらに自分を縛る
間違った努力です。
恐怖に打ち克たなければ、自由を求める努力は始められないんです。

世界の真実に目覚める

さて、色即是空は簡単に分けて、3つの意味を持っています。

まず一つ目。
宇宙一切は大霊が元です。宇宙一切全てが大霊なんですよ、ということ。
これが色即是空。

心の働きによって、どこまででも自由に人生や世界を創って行けるのだ、ということ。
これは本当のことなんですよ

でも、こんな素晴らしい事実があるのにもかかわらず、
そうじゃないと思わされたてきたんです。

これには、それまでの人類の歴史も原因だし、
また教育や、それに同調したみんなの思い込みもあります。

これまでの歴史といったら、
人間を縛ってきたものが2つありますよね
これは西洋において特に顕著なんですけど、
一つは宗教です。

宗教と言っても、キリスト教がコンティヌス帝の政治的判断によってローマ帝国の国教になって、
本来のキリスト教からはかけ離れた「教会キリスト教」が生まれた。

それによって、宗教は人を自由にするものでなく、支配する政治の道具になった。
徹底的に人を恐怖によって縛るのが宗教になったのです。

もう一つは科学。科学もそうですよ。
唯物論というのは、実は人を非常に縛るものなんです。

だから殆どの人が、「死んだら何もないし、生きてる間がすべてだ。物質が全てなんだ。」と思っています。
「それが科学的、理性的で知恵のある人間なんだ」そう思い込んでいるんです。

そういう風に思っている限りは現象界を元に生きているわけだから、
宇宙の本質である、空の自由性や人生の無限性には気がつかない。
だから「自分は物質に縛られた、卑小な存在だ」、と思って生きていく以外にはなくなります。

実は唯物論というのは、どうしようもないインチキなものなんです。
そして、それを前提にしているから、西洋医学もほとんど実際には、インチキなんです。

効かない薬を効くように見せかけて、薬を売るとか、
基準値を引き下げることで、病名が付く人を増やして薬を売っていく、
というようなことをしているのです。

医学や薬品会社がそういうことをできるのは、
みんなが、言われた通りのことをそのまま信じているから、
成り立っていることなんです。

ある意味、それが外から刷り込まれたものであるということにも、
われわれは気が付かなければならない。

同時に、自分の中にある恐怖によって、
洗脳に自ら迎合してきたということにも、
気がつかなければならないんです。

これからは、「自らのカルマを打ち破るための内的な立ち向かうこと」と、「外的な魔を見極める」という、
両方をやっていくことで目覚めていく時代なんです。

そうすると、一体何が本当なのか?という、
世界の真実の姿が見えて来て、
色んなことがわかって来ます。

宇宙の成り立ちとカルマ(魔)の関係

色即是空の二つ目の意味は、宇宙の成り立ちと関係があります。

元来は大霊、
お浄土しか無かったわけですよ。
絶対の大霊が根源なんです。

我々は狭い意識の中で生きています。
だから無限の喜び、自由性、輝きとがとどまること無く向上して広がる世界、
ますます喜びが増大していく世界…
でも人間の意識ではそういう世界は想像しがたいのです。

さて、絶対の大霊から人間界という相対が生まれてきます。
何のためか? さらに一切が向上するためです。
そのために相対の世界が創られるんです。

その相対の世界が人間界なんです。
だから人間界の意識というのは、
主観があって、客観があって存在しているでしょう。
私がいてあなたがいる。また、世界があって私がいる、というように。

そういう相対的なものを超えた世界が、空という絶対の大霊ですけど、
実際には、そこから色という、相対の世界が生まれているのです。
それが世界の始まりなんですね。

そして絶対(空)から相対の世界(色)が生まれる過程では、
最初にカスみたいなのが生まれるんですね。
まあ、他の表現を思いつかないんで「カス」と言っているんですけど、、、。

そのカスがカルマであり、魔と呼ばれるものです。
内的に観れば「カルマ」だし、外的に観れば「魔」です。

それは絶対から相対が生じるという分離の直前、
隙間みたいなところから生じるのです。

これは、あまりにもぶっ飛んだ話なので詳しくは、いずれまたしますが、、。
我々はなぜ縛られた世界にいさせられているのか?
ということと関係があるんです。

「帰依する」とは本願によって浄土を輝すこと

さて、宇宙の成り立ちというのは
絶対の大霊から相対の人間界が生じたということです。

物理学でも、人間を生むために宇宙が生まれたという、
「人間原理」という説があります。

このことは、宗教的にも、いろんな表現がされていますよね
旧約聖書でもアダムとイブがエデンを追い出された。
なぜ追い出されたかというと蛇に騙された、
という象徴的な表現がなされています。

蛇は魔を象徴しています。
相対が生まれる直前の瞬間には、カルマというカスを通って生み出される、ということです。
だから相対世界には、カルマや魔が存在するのです。

仏教でも法身に出でて、法身に帰るといいます。
法身とは絶対の大霊のことです。

法身から一切が生まれ、また法身に一切が帰っていく
仏教では、こういう表現をしているわけです

この法身に帰っていくという働き、大霊のこの求心性の働きを
阿弥陀の「本願」というのです。

本願って、本来はそういう意味なんです。
同時に、大霊が生み出していくという働きも、また本願なんです。

私たちは、阿弥陀さまの本願によって生まれ、
また本願によって、カルマに打ち克ち、魔を倒して、浄土を輝かし、
本願によって、浄土に帰って往く。だから帰依するというのです。

魔を消滅させて光を顕す

相対が生まれることによって、初めてさらなる向上があるから、
私たちは人間界という、相対の世界に出て来る。

そしてカスであるカルマ的な世界、
魔的な世界に立ち向かっていくことによって、
絶対の浄土世界に帰っていく。

それによって絶対世界が、
ますます豊かになり、ますますその光明が輝いていく。

そういう宇宙の成り立ちや働きというものがあるのです。
そのために宇宙大霊は、万物を私たちを生み出し、
また私たちは、そのために宇宙大霊の元へ帰って往く。

自分の出生元と帰るべきふる里がはっきりとわかるという、
この人生の帰趣が、自己の内面において決まることを、
仏教では古来より、いろいろな言葉で表して来ました。

「信心を得た」ともいうし、「安心立命(あんじん・りゅうめい)」、とも言う。
あるいは「道を得た」や「入門した」などの言葉で表現して来ました。

その心の地平に立って来るようになると、
目の前に立ち現れる人生の困難や、
魔の働きによって世界にもたらされている苦しみは、
大霊に向かっていくために存在しているものとして認識できます。

困難は突破するために、また魔は霊的にも消滅させて、
一切に光を顕していくところに、
私たちが人間界という相対世界に生まれた意義があるのですよ。

真の佛法僧の目的とは?

色即是空の3つ目の意味は、仏法僧との関係ですね。
今ここにいらっしゃる人には、
タオサンガとの関わり方が色々あると思います。

いわゆる“仏教一般”の修行に来ているというイメージでいる人、
”ちょっと関わっています”といった程度の気持ちの人もいるでしょう。

あるいは、タオサンガの仏様(法身阿弥陀如来)を信仰し、
タオサンガの法(教え)に入門し、タオサンガの僧(修行コミュニティ)を通して、
一切に献身する、という気概を持っている、
そういう深い想いで修行されている方もいることでしょう。

これが、どう色即是空と関係が有るのかといいますと、、、。

私たちは、阿弥陀様という形ある本尊を拝み、
タオサンガを通して、”知識として得られる教え”、すなわち法を学び、
目に見える、サンガという修行の場に集っているわけです。

この三つの「色」が目の前に「仏法僧」として存在しています。

この仏法僧のどれか一つでも外したら、
実際には、修行は成り立たないですね。

本尊なくしてする念仏は空念仏だし、
教えなくしてする念仏は、単なる歌に過ぎなくなります。

また、修行コミュニティなくてしは、
皆さんが念仏の縁に触れることはなかったのです。

そして本当の仏法僧とは、空なるものなのです。
サンガという修行コミュニティは、
コミュニティを作ること自体が目的ではありません。

このコミュニティを基点として、
一切の生きとし生けるものに功徳をわかちあうためにあるのです。

信仰は仏法僧の本体が空だと悟ることから生まれる

法を分かち合うべき一切衆生。これは無尽ですから、
対象化することはできません。

僧、サンガは空なんです。
対象化出来ないものを空というのです。

もしサンガを対象化して捉えてしまったら、
目に見えるコミュニティだけが、「サンガ」ということになりますね

そして「教え」、法は、”自分が知識として得るもの”となります。
でも、対象化できる法は本当の法ではないのです。

対象化できる教えを足がかりとして、
自分がこれを人々に伝え分かちあい。
修行していくことによって得ていく心の輝き、

これこそが本当の法であり、教えなんです。
それも対象化出来ないものです。
だから、法も空なのです。

私たちは阿弥陀さまとして拝んでいますけど、
阿弥陀如来は絶対の宇宙大霊であり、
本来は対象化できないものです。

でも、宇宙大霊というだけでは、
意識のある私たちは、拝めません。
拝めなければ、つながりようが無いのです。

だから、人間界にいる私達は、
宇宙大霊とつながるために、
阿弥陀様というお姿を拝するのです、
そして信仰することによって大霊とつながれるのです。

阿弥陀さま(色)と大霊(空)を分離させたら、
私たちはつながれないのです。

だから阿弥陀さま即大霊、すなわち一体の本尊として、
色即是空として、阿弥陀さまを拝むのです。

この阿弥陀さまを、私が信仰する阿弥陀さまとして、、
またタオサンガの法を、私が順ずる教えとして、、、
またサンガを、私が唯一の道として修行するサンガとして、、、

そういう心の世界に、果たして今の自分はなっているのか?
それともそうではなく、
あくまでも仏教一般として、
ある意味、ちょっと距離を置いて、
関わっているに過ぎないのか?、

これはタオサンガの仏法僧が、
自らの信仰となっているか否かというところですね。

それで、もし信仰があるのなら、実はその境地は空なんです。
一見そうは思えないかも知れない。

「空なんだから、本尊は何でも良いはずだ。
教えだって、仏教一般のはずだ。
どんなところで修行したって、同じはずだ。」

そう思う人もいるかも知れません。

ガンジーは「献身なき宗教は偽善である」と言った

でも実は、それは逆に、
仏法僧を対象化したものとして捉えているということなんです。

対象化しているが故に、
仏法僧と自分の間に距離を置くんです。

対象化していなければ、距離などあるはずがないのです。

対象化して距離を置くのは、
修行しているのは、
あくまでも自分のためだからなんです。

自分のためにしかサンガと関われないのは、
恐怖に縛られているからです。

そしてその恐怖は、
闇からの囁きによる刷り込みがもたらしていることに
気づかなければならないんです。

その刷り込みによる恐怖に打ち克ったら、
心が輝くんです。

そして純粋に、
他の一切のための修行になったら、
対象化はなくなるんです。

そうなれば、心が空になります。
空になれば、
タオサンガの仏法僧が
一切のために存在していることがわかります。

そうなれば、阿弥陀さまをわが本尊として、信仰することができる。
タオサンガの法を他と積極的に分かち合うことができる。

サンガというコミュニティを、大切にしながらも、
単なる仲良しクラブみたいなものにすることなく、
外の一切の人々と大霊をつなげるためのパイプにします。

タオサンガの仏法僧に献身することができるのです。

般若心経で色即是空というのは、
仏法僧という目に見える「色」と、
対象化できない「空」との関係を
”即である”と説いていることなのです。

法を分かち合うこともせず、
サンガを自分の仲良しクラブみたいにしておくとすれば、
それは、単にサンガに自我を投影して、
自分の中に囲い込んでいる、ということです。

現象の方に仏法僧を閉じ込めてしまっているのです。
これは縛りです。

サンガは一切のためにあるから、
本当は、空でなければならないのです。

ガンジーが”献身なき宗教は偽善である”と言ったように、
仏法僧を分かち合うための「献身」という行動がなければ、
空ではないんです。

タオサンガを一般化して、
これを仏教一般として、まるで外から眺めるように捉えたり、
”時々関わる”、という程度の関係性では、
空にはなれないんです。

空になれないと、献身はできません。
自我にとらわれているからです。
あくまでも自分が中心だからです。
それでは、心は空として解放されないのです。

私はこういうスタンスです、とあくまでも距離を置いたり、
あるいはタオサンガを一般化して捉えたりして、
ある意味、外から眺めるようにタオサンガに関わっているというのも、
自我に囲い込まれていることです。
これは、縛りなんです。

人生が開けていく第一歩は?

本当に利他のために修行になってこそ、
仏法僧の本質が空だということが分かります。

すると、自分にとっての唯一の信仰として、唯一の教えとして、
また唯一の道としての「タオサンガ」(仏法僧)となります。

そういう空の境地に立ってこそ、真の修行ができるんです。
そこからが本当の修行の始まりなんです。
それまでの心は、入門を準備しているような状態なんです。

私たちは、門に入ることで、はじめて大霊とつながることができる。
本願の心に触れることができる。
そして、浄土へ帰って往くことができるのです。
人生を輝かすことができるのです。

そこに至ってこそ、
大霊を根源として、物質という現象をいくらでも生み出すという
心の境地や世界が開けてくるのです。
それまでとは、まったく別の風景が見えてくるのです。

そして人生がやっと開けていくのです。
そこから、世界を変えていく第一歩を踏み出せるのです。

この色即是空の所に入っていかなければ、
自由になる世界はいつまでも開けません。

自分の心の門が開くからこそ、
空の世界、
自由なる浄土の光輝く世界に入門できるのです。
そこに本当の人間の解放があるのです。

そういう世界をいつまでも開くことなけれければ、
いつまでも、物質を根底として生きていかなけばなりません。

それでは、いつまでも大霊を根底とした人生になりません。
より良き人生や世界を創造していくという自由性は得られないのです。

一切のためだからこそ生まれる、仏法僧への信行と弘通

このように、色即是空が説いている三つの境地は、
ある意味とてもシビアです。

本当に一切のための修行であれば、
知識として蓄えられるものを超えた、心の輝きこそが教えであり、
宇宙大霊が即ち一切である、という心の地平に立つことができる。

それがゆえに逆転して、「仏」を目に見える本尊として信仰し、
知識として捉えられる「法」を学び、
あくまでも、このサンガ(「僧」)という修行コミュニティを通して、
如来の大愛を、一切と分かち合っていこうという境地が開かれるんです。

自分の肉体を通さなければ、
世界には何も発信できません。

肉体が大霊を顕すためにあるように、
サンガは大霊を顕すためにあるんです。

大霊が宿れば解放がある

宇宙の成り立ちで面白いのは、
絶対から相対から生まれるその直前にカスが生じ、
それがカルマであり魔なんだけど、
それを超えて光を顕していくことで、
一切を向上していくことができるということです。

私達人類は、今そういう時代に立ち会っているんですよ。
根源的な悪、魔という存在に立ち向かって、自分自身を解放する時代なんです。
精神性にも物質的にも、ほんとうの自由を手に入れる時代なんです。

そのためには、まず自分の自我の縛りというものに気が付かなければならない。
また、洗脳によって、縛られているということに気がつかなければなりません。

自我(エゴ)と洗脳によって縛られている限りは、
受持、すなわちタオサンガの仏法僧に対する責任を引き受けて
修行していくことは難しいのです。

しかし、もしこの二つの縛りに気がついたら、
この縛りを打ち破り、仏法僧を受持することができる。

そうなれば、破邪して(魔を消滅させて)、
自分の人生にも世界にも、
光を顕していくことができる。

受持をすれば、大霊が宿ります。
空という自由性が得られるんです。
大霊が宿れば、そこには解放があるんです。

                                                          

                        (合掌)