住職に聴く! タオサンガ篇(9)

和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。

喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?

遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/

 

 

タオサンガ篇 (9) 

 

特攻隊のパイロットだった僧侶から学んだ弁栄教学

 

-- 住職が念佛修行を始められてから最初の数年間、特攻隊のパイロットだった僧侶から、弁栄教学を学ばれていたとお聞きしました。

住職: はい、そうです。

-- そのときの法話のメモの一部を現在もお持ちだと・・?

住職: 昭和55年10月のものがありました。

-- 放浪者みたいな生活をずっと送って来られたのに、そんな昔のノートが残されているなんて、、、!

住職: 僕にしても驚きです。

-- どのようなことが書かれているのでしょうか?

住職: ノートを見てみますと、例えば、以下の言葉があります。、、、「自己に正しい味わい(証)がなく、ただそう思っているのは、“信”ではない。わがものとしなければならない」

-- うーん、、、。“人には慈悲の心を持ちましょう”とか、“家族仲良く暮らしましょう”みたいな、お寺で世間話的に聞くような、法話ではないんすね。

住職: まあ、そうですね。

-- ここに出て来る“証”とは、なんなのでしょう?

住職: 悟り、のことです。

-- なるほど。

住職: 弁栄上人の言葉が板書されて、それもメモっています。
、、、「信とは、自己の精神が“神秘合一”を体得したる状態を云うなり」(弁栄上人)

-- 仏教の法話に、「神秘」という言葉が出てくるんですか?

住職: 神秘というのは哲学用語で、神と人、あるいは仏と人が融合することです。例えば、キリスト教「神秘主義」というのは、神人合一を土台した教えで、これはバチカンからは異端として排斥されましたけど。

-- 弁栄上人は、その「神秘合一こそが信だ」、とおっしゃっているんですね。

住職: はい。信とは、仏と融合した悟りの状態だ、と。

-- “とにかく信じましょう”みたいな、浅い話ではないんですね。

住職: こんな言葉もありますね。、、、「正信にあらざれば、解脱はおぼつかない」。

-- やはり、「信イコール悟り」なんですね。

住職: えーと、それから、、、。「庭先の花の色がそれ自体で光を放っているのではない。それが太陽の光の反射であることに気づくことを、“神秘に入る”という。そこから本当の信が生まれる」という言葉もあります。

-- どういう意味なんでしょう?

住職: 私たちが目の前の現象を認識している時は、光が目の網膜に映り、それをイメージで解釈しています。でも、目の前の現象や存在は、それ自体が光を放っているわけではない。実際には、太陽などの光を反射して、それを通して私たちは認識しているのです、と。

-- なるほど。

住職: 弁栄上人は、“如来を霊界(浄土のこと)の太陽”とも表現されています。また、「宇宙一切の根底は、一大霊体の如来である」、とも。

-- へぇー。

住職: 面白いことに、西洋の神秘家であるスエーデン・ボルグも“霊界には太陽がある”と言っています。さらに言えば、天照大神も太陽の神さまだし、大日如来もその字の如く太陽のシンボル。宇宙大霊は太陽として象徴的に表現されることが多いんですね。

-- なるほど〜!
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住職: ここで話を戻すと、“認識されるものがイコール実在ではないのです。
目の前の現象や存在は、それ自体では存在していません。むしろ、それらを現象あらしめ、また存在あらしめている根底がある。
それが、宇宙大霊の如来。その実在に気づくことが「信」である”、と。
法話のこの部分は、そう説かれているんですね。

-- うーん、深い! こんな法話を、10代後半から20代半ばまで聞かれていたんですね。

住職: いや〜、だから最初の頃は全くわからずに寝てばかりでしたよ。(笑)でも何年か修行している内に、突然、感銘を覚えながら聞けるようになったんです。その頃は精神的にも、いろいろボロボロだったんですけど、それでもこんな風にメモっていて、それが残っていました。自分なりに大切にして来たんでしょう。

メモはまだ数ページあります。また、法話の書き起こしも、一つだけ、今なお、手元に残っていました。

 

インタビュー後記

「信とは、自己の精神が“神秘合一”を体得したる状態を云うなり」(弁栄上人)、 信イコール悟り、、、。
信、悟り、お浄土、霊界、神仏、、、。

いや~、現代に、この言葉を普通に受け入れられる人はどのくらいいるんでしょうね・・?これらが、いったい自分の人生にどのような関係があるのか?
就活に忙しい大学生や、子育て真っ最中、働き盛り、財テクや、老後の心配をしている人、、、には、どのように響くのでしょう・・。
また、どのような人にこれらの言葉が特別な意味を持つのか・・?

住職が、弁栄上人の存在を教えて下さらなかったら、私たちはおそらく弁栄上人の存在を知らないままだっただろうと思います。
住職は、たったひとりで、法を伝えようとした。 その動機を聞いてみたい。
「住職に聴く!」の原点に戻ってきたような気持ちです。