タオサンガ・ネイティブの時代が来る!
法話ライブ at 京都道場 2017年2月18日
法話:遠藤喨及
動画:https://www.youtube.com/watch?v=Yn04hPEub0Y
動画URL
https://www.youtube.com/watch?v=Yn04hPEub0Y
1)決定的なターニングポイント
今日行われたタオ指圧クラスは 、あとで振り返ったら決定的なターニングポイントだったと思うかもしれません。
今、僕が心から悩んで葛藤しているのは、どうしたら皆さんが共感的想像を土台としたサンガのコミュニケーションを日常的にできるかということです。
そう言えば、タオ指圧の歴史でも、かつては誰もタオ指圧が説くツボをできなかったんです。そのときと似ている感じがしますね。あの時も本当に苦しみました。
でもツボは今はみんなができる。
あの頃は何年経っても、誰もツボができなかったのに、
今はなんと初めて体験講習に来た人でも理解できる。
きっとタオ・コミュニケーションも、そのようになるのでしょう。
今はそう思って忍んでいます。
2)日常の場で、責任を持ってコミュニケーションを豊かに
さて、皆さんはタオサンガは修行するところだと思っていたかも知れません。
でも、それは違います。
タオサンガは、道場で得た体感を、人々に分かち合う生き方をすることなんです。
気の体感を、人生に顕すところなんです。
道場で体感する、如来の智慧光、大愛、歓喜、本願を「顕す」。
「顕す」というのは回向する、与える、という意味ですよ。
目的は、自分が味わうためでも楽しむためでもない。
「いつか光を顕すために修行しています」、というのは本来のタオサンガではないのです。
だから、コミュニケーションのワークで体験したなら、それが人生の、道場の「場」において顕れるのが当然なんですよ。
先にも言いましたけど、昔はツボを教えるのが本当に大変でした。
2年間、毎週2時間ツボのことだけをやり続けて、結果、誰もわからなかった。
仮に教えたとしても、ダメージを与えてしまう。
それでツボを教えるのは、何年も封印していたんです。
相当長い間教えませんでしたね。
そんなことがあったなんて、と信じられないかもしれません。
今は、体験講習ですらツボが分かって、超脈も前提にして学びに来る。
入門している人には当たり前にできるようになった。
今となっては信じられないだろうけど、誰も全くツボがわからないという時代が長かったんです。
あのときは、「これだけ一生懸命教えてどうしてわからないんだろう!?」と思って、頭抱えていました。
そして今は、「どうして日常の場で、責任を持ってコミュニケーションを豊かにできない人が多いのだろうか?」と思い悩んでいます。
3)なぜ押し黙って、自己愛の世界に入るのか?
憶念(仏に愛の念を持つこと)は、修行ではないんです。
実践なんです。「憶念」は人に対する愛も含むんです。
「受持」は、他者のことを「わがこと」すること。
人の心や体感を「他人ごと」にしては気が冷たくなります。
タオ指圧の原則は、「他者を”わがこと”とし、他者の経絡をわが内に観る」
ことなんですよ。
それで、「三宝讃嘆する」というのは人も含みます。
だから「三宝决定」するらば、他者の良き未来も决定するんですよ。
念仏で行じているならば、なぜその内容を日常的なコミュニケーションの場で顕さないのか? なぜ押し黙って、自己愛の世界に入るのか?
4)ワークの時にはできるのに
かつてツボのときに、「なんで? なんで共感的想像をしてツボを見ないのか?」と思っていたようなことを今思いますね。
「なんで? なんで共感的想像をしてコミュニケーションしないのか?」って思います。それに、タオ・コミュニケーションのメソッドはワークとして成立していて、ワークの時にはできるのに、「なんで日常ではしないの?」と思うのです。
タオサンガには、さまざまなコミュニケーション・トレーニングの方法があります。
これらは全部ワークとしてやればできる。なのに、なぜ日常でやらないのか?
だからふと、「一体、自分は諦めた方がいいのだろうか?」と思うこともあります。
でも、ツボのときも「誰もわからないから止めたほうがいいのか?」と思いましたし、、、。
また実際、何年かはツボを教えることを封印していたのです。
だから、もしどうしても今のサンガで、タオ・コミュニケーションが無理ならば、何年か封印するべきなのかも知れません。
でも、そういう風に、葛藤して悩んでいるところが、かつてツボを教えようとして苦しんでいた時と非常によく似ていますね。
当時はツボだけでなく、念佛なんてもちろん誰もやらない。
佛教のことなど、一言もしゃべれなかった時代が15年ぐらいありました。
「道のためにボランティアでワークをされますか?」
と聞いたら「一体、何をやらせる気だ!」とか。「俺たちを利用しようとしているのか!?」などが返ってきていました。
それが今や、ワークをすることが当たり前の時代になってきています。
では、これから先はどうなるのでしょうか?
5)未来にはシフトせざるを得なくなる
一つは、何年後かには、「以前は、みんな押し黙っちゃって自分の世界に入っていて辛くてね、、、。自己関心、自己愛の中に入っちゃって大変だった、、、」、「えーっ?そんな時代があったんですか? 信じられない!」となる。
道場にいるみんなが相手に関心を持ち、相手のことを「わがこと」として引き受けて、暖かい気を出している、、、。だから、「昔は違ったんですか?」って未来の人が驚く。
だったら良いですけどね。そんな風にシフトしないまま、宿題は来世持ち越しになる、という可能性だってもちろんあります。
でもね、、、。「できるか? できないか?」という時が、一番おもしろいんですよ。
絶対勝つってわかっているゲームなんかつまらないですからね。
僕としては、100%の確約はありませんけど、おそらく未来にはシフトせざるを得なくなると思います。というのは、ツボの時もそうでしたから。
もし同じような流れになるならば、新しく来る人で、最初から”場に責任を持って”明るくコミュニケートする人が少しずつ増えて行くことになるでしょう。
そうなると、今いる人たちは変わらざるを得なくなる。
もちろん頑なに、自己関心、自己愛ワールドを死守しようとする人もいるでしょうけど、、、。でも、主流は、タオ・コミュニケーションをする人になっていきます。
今は、「無理じゃないか」「そうなるなんて、ありえない」と思っていたのが、あとで振り返ってみると「前はそうだったということが信じられない」ということが、タオサンガでは、いくつもあるんです。というか、今までその連続でやって来たのです。
だから、これからは入門の段階から会話トレーニングを始めます。
そしてこれが、人間として当たり前のコミュニケーションのあり方だ、ということを明確にします。
念佛をすることだけでなく、コミュニケーションの場を受持することが前提になって、入門して来られる方が、少しずつ少しずつ増えて行くのです。
6)コミュニケーションとは、「人をどう扱うか?」ということ
生まれたときからコンピューターがある世代をデジタルネイティブと言いますよね。
今は幼稚園の子でも、スマホの使い方を知っている。
それでテレビを、タッチパネルだと思って、指で触って画面を動かそうとしたりします。
もっとも未来には、テレビもタッチパネルになったり、画面だって空間に映し出されるようになるでしょう。
彼らをデジタル・ネイティブと言いますが、最初から場のコミュニケーションを受持する人たち、「タオサンガ・ネイティブ」の人たちが、これから生まれて来るんです。
そもそもタオ・コミュニケーションが日常になって、初めてタオサンガと言えるんですよ。
なぜなら、コミュニケーションとは、「人をどう扱うか?」ということだからです。
「その人が、他者をどう扱っているか?」が、その人の「存在そのもの」なんですよ。
7)どのようなコミュニケーションしているかは、その人の存在そのもの
存在というと、人に対してどうとかは関係ない、と思うかもしれません。
でも、そうではないんです。
例えば普賢菩薩は、智慧の象徴です
「普賢」という字を見たら、普(あまね)く賢くする。
つまり、「人々に智慧を与える」という意味です。
その人(普賢)自身に智慧が有る、という意味などではありません。
人々に与えているものがその人なんです。
そもそも、「この人はどんな人か?」と思うときに、「その人からどういうイメージを与えられているか?」が、自分が思う「その人」でしょう。
投影でネガティブに思う場合もあるかもしれませんが、その問題はさておき、で。
その人が、他者に対して気遣いがあるとか、他者のことを「わがこと」として責任をもって引き受けているとか、そういうことをしている人だったら、その人に対してそういうイメージを持つでしょう?
すなわち、人が他者に与えているイメージが、その人そのものなんですよ。
だから、人がどのようなコミュニケーションしているかは、その人の存在そのものなんです。
サンガのコミュニケーションは、場を自由で豊かに明るくクリエイトすることです。
たとえば、場にいる人を憶念して、大愛をクリエイトするとか、場にいる人を受持して智慧光をもたらす、とか。
あるいは、場にいる人を讃嘆して歓喜をもたらす。
これは、一人ひとりの心のなかにある可能性をみて、言葉で言わなくても讃嘆の気持ちを持つことです。
人の潜在力を讃嘆する気持ちが無ければ、自分の可能性だって見ませんよ。
自他は表裏一体なんだから。
また、そういう目で他者を見ていたら、人に何かパッと光るものがあったときには、自然に讃嘆の言葉が出てきます。
8)相手の気持ちに対する共感的想像は、タオ指圧の基本中の基本(!)
「自分が人からどう見られるか」ではないんです。
今日はクラスで、「自分が人からどう見られるか?」という余計な想いを捨て去るために、チャトランガ・サイコドラマ(演技ワーク)をやっていただきました。
「自分が人からどう見られるか?」「人からどう思われるか?」
それが最大の自己関心、自己愛、自己執着でしょう?
相手がどういう感じているか?
相手の気持ち、相手の体感に対する共感的想像は、タオ指圧の基本中の基本(!)でしょう。
それは自然に湧いて来るはずなんですよ。
自己関心から他者関心へと、心身が解放されるために、私らは念佛をしているんですよ。
念佛の場においても、大愛なり智慧光なり歓喜なりを一切に回向していなければ、違うんですよ。
そしてそれができていれば、コミュニケーションの場でだってできるはずです。
コミュニケーションの場をクリエイト(回向)していれば、
念佛の場においても回向になっているのです。
すると、人生の場においてだってクリエイトできているのです。
なぜならコミュニケーションは、人生、存在、全ての表れなんですから。
9)タオサンガ・ネイティブという人たち
タオサンガは場、人生、フィールド、全てに亘って大愛、智慧光、歓喜、本願をクリエイトするところなんですよ。
いつかそうなるために修行するところではないんです。
タオサンガでは悟りの世界すら、一足飛びに体感することができる。
それは、その体感を人生に他者にコミュニケーションに、指圧に顕す場だからなんです。
今後、そのような過程をワークショップで学ぶシステムができてくると思います。
そしてそれを終えた後は、ワークショップで得た体感を前提に、最初から人生で実践する。
それがタオサンガ・ネイティブという人たちです。
今、その未来を創ろうとしているところなんです。
それはどれほど世界にとって救いになることだろうか、と思います。
ここにいる方が一歩でも、また一人でもそこに目覚めたら、その時代が近づきます。
ここにいる方自身が自分の人生をそれを実践し、その時代を創る。
これはイコール自分の未来を創ることです。
自分の気を上げてくれる人に、ぶらさがることじゃないんです。
ネイティブというあり方とは何でしょうか?
それは、今までのように「タオサンガにいたらこういう体験ができるし、こういう楽しいことがある。だから自分はここにいる」、というあり方ではありません。
タオサンガを通して、人生に如来のみ光、聖意(みこころ)を顕す、ということです。
「人生に」ということは、「自分も人もなく、自他一切に顕すという存在になる」ということです。
そういう生き方をすることがタオサンガ・ネイティブなんです。
なぜなら、それができる場がタオサンガであるからです。
ここは、もらうところではなく、ここを通して一切に回向を顕す場であると認識してください。
そうなって初めてタオサンガがスタートする。
ツボができるようになって、初めてタオ指圧の学びが始まりました。
同様に、コミュニケーションの場をクリエイトできるようになって、初めてタオサンガがスタートできるということです。
10)宇宙には、上げるか下げるかしかない。この事実に向き合ったら、本当に厳しい
仏法僧の三宝に対しては、利用か献身か、そのどちらかしかない。
これが宇宙の構造の面白いところですね。
この宇宙、あらゆるものが真逆です。
これは宇宙の厳しさでもあり、易しさでもある。
厳しさから言えば、例えばコミュニケーション・ワークでは、場をクリエイトする責任を持たなかったらどうなるか? と言う体験をしますよね?
これは、「たとえ自分に場の気を落とすつもりがなくても、場に責任を持っていなければ、それは場の気を落とすのと同じ状態として作用してしまう」ことです。
これを氣で体感した以上は、ちゃんとこの宇宙的な気の事実と向き合わなくてはならないですよね。
気の事実で私たちが学ぶのは、
「宇宙には、上げるか下げるかしかない。
上げなければ下げるのと同じ、という法則がある。」と言うことです。
だから、「場に責任を持っていないだけで、場の気を落とそうと思っていない」という中間の状態にある気は存在しない。
そして、自分が場に責任を持っていなければ、それは場の気に対してマイナスに作用してしまう。
この事実に向き合ったら、本当に厳しいことだと思います。
では逆に、この中間のない宇宙の構造における「易しさ」とはなんでしょう?
それは、「ネガティブが一瞬にしてひっくり返る」ことです。
ネガティブが強ければ強いほど、それに勝る愛、それより強い志があれば、逆転するんです。
ここで言う愛というのは何か?
人生に対する愛、存在に対する愛、可能性に対する愛、そして人類の未来に対する愛です。
11)最高に輝き、人々に喜びをもたらす人生を歩んで頂けますよう
どのみち、いつかはカルマはひっくり返して仏性にしなければなりません。
何回生まれ変わった後かは分かりませんが、いつかは、、、。
いつまでも「私はこのままで良いです。私は闇に沈みますから」なんて言ってもね。
なんと言っても、宇宙一切は、如来様の懐の中ですから。
西遊記の孫悟空が逃げたつもりでも、お釈迦様の掌からでられなかった、というのは、
宇宙一切が如来様の大愛、み心の中だ、と言うことの象徴です。
だから地獄の果てに行ったとしても、如来様はずーっと待ち続けてくださって、いろんな方便で手を尽くして、待っていてくださいます。
僕のような者でも、そんな想いは捨てられずに持ち続けます。
どんな人でも、かつてタオサンガにいらして一緒に念佛されていた方のことは、今回の人生では無理だったかも知れないけど、いつかの人生ではまた必ず、と思って待っています。
僕ですらそんな想いを持って待っているんです。
だから、ましてや如来様が、どれほどの強い想いで待っていてくださることでしょうか、、、。弁栄上人も、たびたびそういったことを書かれています。
「いつか」とは、今日なのか、明日なのか、今回の人生なのか、来世なのか、来来生なのか?
それは人によって違うでしょうが、いつかはカルマを転換して、自分自身が如来の大愛を与える、回向する存在にならなければならない。
自も他もないのが存在の本質なんですから、「私はダメ」とか、「私はこんなところにいてはいけない」、と言うのはちょっと恥ずかしいですよね。それに宇宙のどこに行っても、どの時代に生まれても、如来様の掌の上にいるんですし。
「私は」と言うものが、そもそも自分で作っている幻想で、自他は無いんだから。
私イコール世界一切なんですからね、、、。
こうしてタオサンガに出会えたのは、カルマを転換する千載一遇、百千万劫難遭遇のチャンスだと思います。
だから、たとえ針の先ほどの志であっても、捨てずに温めて、
それを頼りに最高に輝き、人々に喜びをもたらし、
自らも喜びに溢れた人生を歩んで頂けるように、と願っています。
(合掌)