どうしたら未来は明るくなるか?

どうしたら未来は明るくなるか?
法話ライブ at 京都道場  2016年2月6日
法話:遠藤喨及 


動画URL
https://youtu.be/iIfpMA_w2II

1)正見と邪見

八正道の謎の続きです。
仏教は謎だらけだと考えないとつまらないですよ。
そう考えたら、今まで思ってもみなかったような、
新しい着想で解釈することができます。
そうすると、感動しますよ。
「ああ、これがお釈迦さまの言わんとしていたことだったのか!」って。

それはともかく、、、
正見に対して邪見という言葉があります。
通常正見は、邪見との対比で説明されることが多いんですね。

例えば、自分の霊魂は永遠に続いていく。
そういう考えが、当時からインドにありました。

これ、お釈迦さまの教えでは、邪見なんです。
一瞬一瞬、壊れては生まれているのが、存在の本質だとするのが
お釈迦さまの教えですから、ずっと続く何ものもないんです。

「自分の霊魂が永遠に続いていく」という思想は、ギリシアにもありました。
でも現代人は、こういうことすら、あまり考えないようになっていますね。
そもそも、なるべく生きている間だけのことを考えるようにさせられている
んだから。誰にさせられているか、って? ふふふ、まあーそれはともかく、、、。

その他、相対的なものの見方も邪見の一つです。
例えば普通は、「世界があって、それを自分が見ている」
と考えるじゃないですか。
実はこれも、邪見なんです。

邪見とは何か?が、少なくとも頭のレベルでわかると、
「ああ相対を超えたものの見方が正見なんだな」と、
そういう逆説的な理解の仕方をするようにできるんですね。

2)正見は修行の方法でなく、あくまでも結果である

八正道というからには、「道」でしょう。
お釈迦様は悟りに至る修行方法として、八つの道を説かれた、と。
その1番目が「正見」です。

でもさ。「正しく見る」なんていうのは修行になるのでしょうか?
よくよく考えたら、「正見」というのは修行の結果じゃないですか?
僕なんかは、そういうふうに思うんですね。
修行の結果、正見ができるようになったということ、だと。
悟りとしてのものの見方は、最初からできるわけではありませんからね。

3)最悪を受け入れた上で、無謀なことを楽観的にやる

ところで、物事を暗く考えるのが好きな人っていますね。
夫婦でどちらかであることが多いんだけど。

例えば旦那が「こうやろう!」と言っても、
奥さんが「えー!? でもこういう問題があってさ…」と反論。
それで、旦那の未来の計画は次々と潰されていくとかねー。
もちろん、逆の場合もあったりします。

旦那の夢を壊す先の奥さんのように、
物事を暗く考えるのは、正見ではありません。
慎重になるというのと、物事の暗い面だけを観る、
というのでは、似ているようで違うんですよ。

かと言って、ネガティブな面には目を瞑るのが得意だった
旧日本軍のようでもねー。

作戦計画としてはまったく無謀なのに、
「断じて行えば鬼神も避く。日本は神国だから天佑神助がある!」
(何がなんでもやれば、鬼だって逃げていく。日本には神の助けがある!)
なんて言っちゃって、「えいや!」でやってしまう。
これも問題ですね。

日本軍、最初のころはバクチに勝って、それこそ連戦連勝だった。
でも、ひとたび歯車が狂ったら、勝てる戦いにも勝てなくなるような事態になる。
ネガティブな面に目を瞑るのがダメなのは、歴史が証明していますね。

やはりネガティブ、ポジティブ両方を観た上で、
それでもポジティブを選択して行動する、というのが
一番バランスが良いのではないでしょうか?

もちろん、ネガティブを観る、ポジティブを観ると言っても、
いろいろな見方がありますけど、、、。

僕のように、
「最悪の状態になることを想定し、それを気持の中で受け入れておいた上で、
無謀なことを楽観にやる」という、バカなんだか智慧があるんだかわからないようなやり方もありますから、、、。

4)自分の範囲でしか見ていないのに正しく見ていると思う
人間関係というのは、例えば「自分がいて、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんがいる」。当たり前なんだけど、全員が、「自分が相手を見ている見方が正しい」と思っています。

でも、それぞれの見方は全部違うのです。それぞれが、「我」のフィルターを通して観ているのですから。

それぞれが自分の範囲でしか見ていない。
ですが、正しく見ていると思っています。
しかし、全員の見方を全部足したらそれが正しいかというと、そうでもないのです。

まずもって、頑なに自分が正しいと思うことは、
まったく正見から離れて邪見の世界にいっています。

一般の人間関係においては、正見とまでは行かなくても、
少なくとも、「AさんがCさんを見る見方と、Bさんを見る見方、Cさんが自分を見る見方は全て異る。」ということは、理解しておいても良いと思います。
自分の側から見ていることが絶対的に正しいと思うことは、正見ではないのです。

5)一切認識智(正見)とは?

正見ならば、AさんからDさんまでの、全員が見ている見方が、同時に見えていなければいけません。でもそれは、至難の技です。
仮にそれができたとしても、それだけではまだ、本当の正見とは言えない。

なぜなら、今は仮に、AさんからDさんまでの4人のことでしかありません。
ですが、真の正見はそんなレベルではない。

宇宙一切の存在、植物や虫から動物、人間に至るまでの一切の存在。
地球だけでなく、あらゆる宇宙の存在。
地獄から浄土までの霊的レベルの一切の存在。

その三千大千世界一切の存在の側から、一切から一切を同時に観ている。
そしてすべての見方が、同時に認識されている。

そのような超絶したものの見方。
それが佛の一切認識智というものです。
正見とは、この一切認識智のことを言うのです。

あらゆる存在からあらゆる存在を見る。
諸法無我として、全てを超えたところで宇宙一切を認識している。
これが正見なのです。

だから、「正見とはありのままに、ものごとを見ることです」
なんていう、教科書的で感動のない説明では、全く物足りない、
と感じてしまいます。

6) 疑いが石のように固まるのが礙

この一切認識智という、宇宙一切を普遍的に観れる自由性を持つようになること。
それは、修行の結果と理解しなければなりません。

では、どうしたらこういうものの見方ができるようになるでしょうか?
人間の心の発達には情の発達、意の発達、智の発達があります。
どれも無いと、人生を誤ります。

自分だけの見方に固執するのは何が足りないのでしょうか?
人間関係で問題が起きるのは、だいたいにおいて、
自分だけの見方に固執するところから始まります。

もし、個を超えたところで、「一切が一切を観る」という風に認識できていれば、
人間関係に問題は何一つ生じないないはずです。

般若心経の“心無罣礙”の礙は「疑いが石のように固まる」という字を使いますね。
「疑い」というのは自分の中で作っています。

未来の明るさに対する疑い。
自分に対する疑い。
人に対する疑い。

それが石のように固まるのを礙と言うのです。
心の自由性が失われている状態です。

7)人に対して明るく思えば思うほど人に好かれる

先ほどの話に戻します。
正見とは何をもってして得られるか?
これを考えなければなりません。

そもそも、なぜお釈迦様は正見を説かれたのでしょうか。
正見は、極まりない無尽の世界観。
一切認識知の世界です。

「ありのままに見ろよ」なんていう日常の延長などではなく、
本当はとてつもなく深い話です。

未来が明るく思えず、人に対して礙に固まってしまうというのは、
暗い世界に固まってしまっている状態です。

人に対しても明るく思えないというのは、
そういう暗い世界に引き寄せられて固まってしまっている状態です。
損か得かで言えば、人生で極めて損をしている状態です。

人に対して、明るく思えば思うほど、もしかしたら人に騙されるかもしれないけど、絶対に人に好かれますもの。

8)どこまでも人間的な祖師たち

ウィリアム・ジェイムズが100年前に書いた「宗教的経験の諸相」は、心理学でもあり宗教学でもある素晴らしい本です。

仏教の修行体験とかキリスト教的な神秘体験など、世界の宗教体験について、
アメリカの教授がイギリスで講義した本です。

そこに出て来るんですが、
「何度ダマサれても素直に信じていく」という、
宗教的な人たちについても語られています。

その他、霊媒体質っていうんですか、神秘体験し易い人は癇癪持ちであることが多い、とも書いてあります。

イエス様も癇癪持ちだったという解釈が、成り立たなくもありませんよ。
門前市の人たちを蹴散らしたり、怒ってイチジクの樹を腐らせたり、、、。
日蓮上人とか親鸞上人とかもそう。結構プリプリしたりしている時がある。

道元禅師もね、自他共に非常に厳しい方でした。
で、どんな位が上の人が言ってきても、歯牙にもかけないんです。

ある日、お弟子の一人が、大名か何かのお偉いさんから、
極めて高価な紫の衣を、「道元禅師への供養に」と言われてもらってきた。
そしたら、すごい怒っちゃって、その弟子を即座に叩きだした。

それだけでは気が収まらなかったみたいで、その弟子が座っていた場所の畳を外して、
土まで掘り返して捨てたりしてしまいました。いやー、強烈ですねー。
でも、そういう人間的なところって、面白いですね。

日蓮上人でもそうですが、道元禅師でも晩年になると、「もしかしてこの女性のことを好きなんじゃないかね」なんて思わせるような人が現れたりしています。

一休禅師みたいなると堂々としたもんです。
目の不自由な女性と同棲して、「この女性(森女)に対する恩を忘れたならば、私は地獄に落ちる」とか言っちゃってね。

8)宇宙大霊はどういう構造になっているのか?

さて、ここで正見の話に戻すと、
人間の世界には、必ずポジティブな面とネガティブな面が両側面としてあります。

どんな酷いことでも良い側面がある。
それは「良くなる種になり得る」ということです。
そして、どんなに良いことでも、未来の苦しみの種になりえます。

人間として生きている限り、相対性が必ずあります。
両面があるのです。これを「平等性」(びょうどうしょう)といいます。

「平等性智」というのは、あらゆる存在、物事、出来事の中にある両義性を、
両方とも同時に体感している。そして両者を超えた絶対の空性に安住している、
ということです。

相対性を超えた絶対なる空性が開かれていけば、
光と影の側面が両方共に認識されます。

宇宙大霊はどういう構造になっているのか?
その四側面の一つが、「平等性智」という智慧なんです。

大霊そのものが平等性智。
なので、人間界の存在には全て相対性が有るのです。

過去の原始時代から比べたら、文明が発達しました。
これには、すごく良い側面があります。

でも逆に、大変なものを背負っているという、
負の側面も同時にあります。

物質的な側面だけ見ていると、なかなか気が付きません。
平等性智をどのように修行するのか?

まずは、自分の心の中にあるネガティブなものをちゃんと認識します。
そのネガティブなもので、如来様の光明に向き合う。

内なる陰に直面合せずして、光に対面することはできません。
これによって、光(如来の光明)と影(無意識のカルマ)の相対性、
両義性を同時に平等に認識できるのです。

どこまで無意識に内在する影に向合って、光に向かうことができるのか?
自らの影をどこまで意識化できるのか?
これが修行の目的であり、また成果なのです。

9)一緒にいて居心地が悪い人は?

無意識が眠っている人ほど、自分の影が見えません。
内在する影が見えないと、それを外に投影します。
すると、他の誰かが悪く見えるのです。

もし自分の影がちゃんと認識できていれば、それは外に投影されません。
すると外の光が見えてくるのです。

そして外部の誰かを悪く思うのではなく、
光というか長所が見えて、感謝できるようになるのです。

如来さまの光が外に見えるほどに、
自分の影は浮き彫りになります

如来様、神仏と対面するということは、
まさに自分の中のカルマと向き合うということなんです。

そして、自分の中のネガティブ・カルマと向き合うということは、
イコール如来の光明と向き合うことなんです。

ちょっとでも自分の嫌なところを見るのをやめようとすると、もういけない。
自分を善の側に立ててしまい、本当の意味での如来様、神仏との向き合いは、
できないのです。

カルマとの直面と神との向合い。影と光とはまさしく両義的です。
よく「自分には影、ネガティブなものはない。わたしは全て光よ」
なんていう人がいます。

それって聴いているだけで、なぜかすごく居心地が悪いんですよね。
人間は両義性があって初めて存在しているのだし、宇宙の真実を無視しているということでしょう。

そして無視した影は、必ず外に投影される。
それを予感するから、居心地が悪いのではないか、と思います。

僕などはそういう人と居ると、「けっ!どうせオレは悪いよ〜」とか言いたくなっちゃって、居心地が悪いのかなぁ〜(笑)

如来の光を見るということは、イコール内なる影を見るということ。
内なる影を観るからこそ、外に在(ましま)す本尊として、
無量光として、如来様を拝むことができるんです。

自分を光としてみた場合、外なる本尊なんて拝めないですよね。
だって、自分が光なら、自分が神になってしまうんだから。
とても外の本尊なんて拝めなくなりますよ。

でもそれは、外に内なる影を観ることにつながるのだ。
ということを忘れてはいけません。

そうなってしまうケースが多々ありますけどね。
まあグルが外なる光になってしまったり、とか。
あるいは社会や裏政府に影を観てしまったりとかになることもあります。

10)正見はこうして開かれていく

最近のスピリチュアル系には、生死の問題は除外視していますよね。
せいぜいが、来世を語るぐらいかな。

スピ系とお釈迦さまやキリストの教えには、決定的な違いがあります。
それは、生と死という問題を解決するのが、本来のお釈迦様の教えであり、
キリストの教えだということです。

諸行無常の存在というのは、
瞬時の生滅であると同時に、永遠性のものです。

自我に立脚しないこの永遠性をどう実現するのか?
これは大変に深い話なんです。

平等性智がどのようにして啓かれていくのか?

自らに内在する影と如来様とが向き合って融合していく。
その過程において、
平等性智という相対の世界を超えた空なる世界が啓かれていく。
これが最初の入口です。

それによって両者が平等に認識される。
同時に、両者の根源である空に立脚する。
正見はこれによって開かれていくのです。

お釈迦様が正見を最初に持ってきたのは、
きっと、「内なる影を認識しろよ」ということなのだと思います。

神秘主義と聞くと、オカルトみたいな話か、
と思われるかもしれません。

でも、神仏と人間の合一を説くのが神秘主義なんです。
非常に哲学的なんです。

弁栄上人の光明主義を、
「浄土教的神秘主義」と書いた宗教学者もいました。

教会キリスト教には、「神との合一」という思想はありません。
でも元来、大乗仏教においてもキリスト教においても、
神なり仏なりと合一するというのは、基本中の基本なんです。

どれほど教会が禁止しようとも、
神との合一を求める人間の欲求を抑えられるものではありません。
それ以外に人間に真の安らぎはないですから。

そもそもイエスが神と融合して生まれたのがキリストの教えですから、
神秘主義は、必ず表れてきます。

浄土真宗でも神秘主義ということを嫌います。(理由はここでは伏せるけど)
でも、どれほど否定しようとも、阿弥陀体験が親鸞上人の宗教的源泉ですから、
必ずそういう人は現れてきます。

キリスト教神秘主義やイスラム教神秘主義の人たちは、
神人合一の神秘体験を、「見神」といいます。

仏教の神秘主義の人は「見佛」といいます。
弁栄聖者の修行の眼目も、「見佛」でした。

神も佛も、本尊は外なる光、大霊の象徴です。
だから見神や見佛によって、自らの無意識が浮き彫りになって顕れていくのです。

11)念佛ほど革命的なものはない

無意識の根底は、影が逆転して如来です。

だから根底が啓かれていくプロセスには、
あらゆるネガティブなものとの出遇いがあります。

どこまで自らの影に立ち向かっていけるか?
これが、今回の人生で、どこまで自らの魂を向上させていくことができるか、
の鍵になります。

「仏と衆生と世界は同じ」という言葉があります。無意識ではそうなんです。

だから、「仏様が光、愛であって、自分を大事に下さっている」と思えれば思えるほど、他人や世界に対するイメージも同じようなものになるのです。
神仏が怖いと思えば、人も世界も怖くなります。

内なるものが顕れてくるほど、カルマが浮き彫りになります。
が、同時に、自分の内面の潜在力が開発されてきます。

未来に対して安心感を持てるようになります。
特に念佛の場合は、これが素晴らしいですね。

なんといっても法然上人が、「死という最も暗いものを明るいイメージに変えてしまった」。これほど人の未来に対するイメージを明るくする思想はないでしょう。

「念佛一つでお浄土が開かれていく」。この絶対的な約束。
そこに信頼が置けたら、未来が全部明るく見えてきます。

念佛といったら、「古臭くて暗い」というイメージがあるじゃないですか。
「まったく誰がこんな風にしやがった!!」と思いますね。

念佛ほど革命的なものはない。
ネガティブなものをこれほど全く明るいものにひっくり返す思想はありません。

だからもう、今の仏教を全部ひっくり返さないとダメですね。
念仏している私たちが、心の輝き、人生、正見でもって、人々にこの革命の素晴らしさを示していく。

これこそが、今、法然上人の末裔として念佛をしている私たちの務めだろう、
と思います。
    
(合掌)