和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。
喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?
遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。
http://endo-ryokyu.com/blog/
怒りの正体(2)
-- 前回、怒りの正体について話をうかがいました。
興味深いと思ったのは「人は一般的に、相手を選んで怒りをぶつけている」という住職の言葉です。
その基準が「相手が状況上、立場上、あるいは性格上反発できず、自分のネガティブな感情の責任を負わせることが可能な場合に限ります」と、、。
住職:そうそう、、、。怒って相手を責めている方は「相手に責任がある」と思っていますが、実際はその逆というのが面白いですね。
-- んー、そこを自分で気づくことはできるのでしょうか、、。
住職:怒る人は、自分の弱い部分や傷ついた部分を守るために怒っているのです。
だからお互いに怒っている状態なら、それは自分の弱さを守ろうとして相手を攻撃し合っている、ということです。
-- 分かり合えっこない感じがしますね。
住職:でも、一方的に「相手を攻めたてる」という場合は異なります。
自分が内蔵している負の感情を相手に負わせているのです。
-- 親にしてみたら、これは自分の子どもですね、まさに。
住職:子どもが自分の思い通りにならないのは当たり前のことです。
でも、それを「けしからん」と怒るか?
あるいは、水のように受け入れるか?
「自分の思い通りにならないこと」をどのように対処するかは人によって異なりますね。
-- 「けしからん」という程度ならまだ可愛げがありますが、全く理不尽な怒り方をする人がいますよね。
特に子供など無防備な相手に対して。
住職:はい。
-- 「怒りをぶつけることは、霊的には「自己の魔界の生贄になることを相手に強要すること」とおっしゃっていましたが、それって、とても罪深いことですよね?
住職:反論できない立場にある相手を責め立てるなら、それは、いじめとさして変わらないですね。
-- 責めたてられる相手はまさに「生き贄」ですね。
住職:実は人間には、自己のカルマを投影する生贄が必要なんですよ。
だからどの文化圏でも、古来より人柱のような生き贄がいたのです。
-- 宿命的に必要なんですね。
そういう狂気みたいなものを、人間ははじめからもっていると、、。
住職:元々、生贄は人間相手だったのですが、やがて動物になり、最後は人形などの象徴的なものに取って変わっていきました。
もっとも、コルカタのカーリー寺院では、今でも動物の生贄を神様に捧げる儀式をしていたと思いますが。
具体的な生贄の儀式は、今はほとんどないけれど、本来人間には必要な儀式だということですね。
住職:はい。それで、連続幼女殺人事件(幼女を殺して儀式を行う)、サカキバラ事件(子供の頭部切断)、会津若松事件(母親の腹部に人形を埋め込む)など、まるで生贄の儀式をやっているかのような、猟奇的事件が起こるのです。
いずれも、人類の生贄欲求の吐け口役を負わされた人が起こしたものです。
だからみんな、10代の人たちが起こしている事件なんでしょうか?
住職:かも知れません。
今現在、生贄的な行為は至るところで起きています。
クレーマーのように、モンスター化して怒っている人も、その一部かも知れません。
相手の非をとても巧妙に(陰湿に)責めたてているのを見ると、その怒りが、なにか得体の知れない闇からでてきてるなー、と感じていたんです。
住職:生贄というはけ口を失った人類全体のカルマが、魔界からの使者の如く、いろいろな人の心に立ち現れていますからね。
そうなんですね。
住職:その結果、今現在起こっているのが戦争であり、人為的飢餓であり、死刑制度です。
身近なところでは、いじめであり、クレイマーであり、また人々のモンスター化でもあります。
-- 根源的カルマ解消の働きを為す生贄を持たない現代の人類は、一体どうしたら良いのでしょうか?
住職:生贄は、象徴的に行われれば、それで十分なんです。
例えば、ボクシングやプロレスなども、一種の生贄の観賞行為と言えます。
-- ああ、そうですね。
住職:スポーツ、将棋、囲碁、チャトランガなど、勝ち負けのあるものは、負けた人が一瞬、生贄役を為しているのです。
手前味噌で恐縮ですが、特にチャトランガは、戦場で相手を爆破する演技をしながらのゲームですから、すべてが生贄解消に繋がります。
※チャトランガ・・・住職考案の「戦争ゲーム」
-- チャトランガは、怒りエネルギーの解消には良いのでしょうね。
人々がもっとチャトランガをやれば、モンスター化しなくてすみそうですね。
住職:はい!(笑)人を傷つけない生贄的な遊びが、もっともっと必要なんです。
“ぷんぷん”なんて聴こえて来そうな程度のかわいい、罪のない怒りなら怖くなくていいんですけどねー。
住職:ははは、猫パンチみたいなのね。
-- でも、底知れない闇からでてきてるような怒りだと、やはり怖いです。
それをぶつけられ、責めたてられる方は、一体どのように逃れればよいのかと思います。
住職なら、怒る相手に対して、どのようにされるのでしょうか?
住職:相手が自分自身の闇に向き合えそうもなければ、たとえ自分に非がなくても謝りますね。
-- 「自分に非がなくても」なんですか?
住職:内在している怒りは、心の傷と同居していますからね。
-- ああ、そうでしたね、、。
住職:怒っている人というのは、自分の傷を相手に理解してもらいたくて、同じ傷を相手に負わせるのです。
でも、それが叶うことは決してない。
だから、一種の自爆テロ行為とも言えます
。-- 分かる気がします。
住職:怒っている相手に謝るというのは、「今までその傷を理解してあげる人がいなくてごめんなさい」と暗にメッセージを送るためなんです。
-- どうして「傷を理解してあげる人がいなかったこと」を謝るのですか?
住職:本来なら、両親なり身近な大人が理解共感して上げていればよかったのです。
でも、そういう人の元では育てられなかったから傷つき、怒りが内向している。
で、なぜ僕がそれに対して謝るのかというと、その人を傷つけた周囲の大人たちになり代わって、如来様に懺悔しているんです。
また、“傷ついた時に、守って上げられなくてゴメンね”というのもありますね。
--そうなんですか、、、。
ところで住職は、怒ることってあるんですか?
、、、というのも、なさそうに見えるんですよ。
住職には、個人的な怒りってあるのでしょうか?「人間だもの」という言葉を聞いたことがありますが、住職には個人的な、自分のための怒りはあるのでしょうか・・?
住職:これは個人的な怒りなのかどうかはわかりませんが、最近「タオ指圧&サンガ念仏」のメソッドを教えている時に、相手に向かってではなく、自分の中で、一瞬「怒り」が起きるときがあるんです。
そうなんですか、、?
住職:僕は、宇宙の内奥から顕れて来たもの(如来さまから頂いたもの)をお伝えしようとしています。
ですが、相手がその深遠な内容をそのまま受け取らないことがありますね。
過去の知識を持ち出したり、浅薄な自我で解釈したり、、、。
-- はい、、。
住職:宇宙の内奥から顕れて来た教え(如来さまから頂いた法)は、そのまま受け取る必要があります。
過去の知識や浅はかな知恵で解釈することは、教えや法を貶めることになってしまうんです。
-- はい、、。
住職:時に、期待値の高い相手が、そのような浅薄な受け取り方をすると、その法を貶める言動に対して、自分の中で一瞬「怒り」が起きます。
“なんで、法を貶めていることがわからないんだろう!”って。
-- はい、、。
住職:でも念仏修行者は、「人に対してどう振る舞うか」に責任があるんです。
なぜならそれは、「人が如来様をどう思うか」に直結するからです。
もし僕が怒っているのを人が見たら、人は如来様をどう思うでしょうか?
「如来さまは怒りっぽいイヤな奴に違いない」と思ってしまいます。
それでは自分の行為が、法を貶めていることになります。
-- 確かに、そうかもしれません、、。
怒りっぽい人に「お念仏素晴らしいですよ」と勧められても説得力ないですものね、、。
住職:だから僕は、人にはなるべく怒らないようにしているんです。
一瞬でも怒ってしまったら、その時はやはり恥ずかしい想いをします。
インタビュー後記
住職の話をきいていると、住職の怒りは、個人的なものではないような気がします。
ですが、自分も含めて他の人の根の深そうな怒りを見聞きすると、たいていは「闇」の存在を感じます。
闇に個人的というものがあるのかはわかりませんが、個人的な動機を感じるというか、、。
どんなに相手に正当性があるように見えても、その怒りには「納得できない!」とこれまた怒りで応戦したくなるわけです。
これも虚しいことですが、、、。
この場合、私は自分が納得できるかどうかを問題にしているのですが、、住職のこの言葉には考え込んでしまいました。
「相手が自分自身の闇に向き合えそうもなければ、たとえ自分に非がなくても謝りますね。」
・・・そんなことしたら、なんか損した気がする、、。と思う自分を否定できません。
ですが、住職の次の言葉 「・・・なぜ僕がそれに対して謝るのかというと、その人を傷つけた周囲の大人たちになり代わって、如来様に懺悔しているんです」、また「傷ついた時に守って上げられなくてゴメンね、というの、あります」
、、、人という存在に対する根源的な優しい視線を感じ、自分の即物的なものの考え方を省みる機会になりました。
どうしたら、本当の意味で闇に向き合えるのか、怒りの本性に向き合えるのか、、次回聞いてみたいです。