氣が良くなる生き方を决定する/ニーチェのように、ただ一人歩め

ニーチェのように、ただ一人歩め
ー決定的なターニングポイント時代の幕開けー

法話ライブ at 東京道場  2017年10月14日
法話:遠藤喨及


動画URL
https://www.youtube.com/watch?v=C0sySEsfRcw

I 善悪の彼岸を観る

第1章  ニーチェは何をもって善悪の基準としたか?

一般的な人間たちは、畜生類であり奴隷である
ニーチェに「善悪の彼岸」という本があります。この中に”何をもって是非とするか?”、つまり”何をもって正しいか間違っているかを判断するか?”という話があるんです。

ニーチェは、ことの是非・善悪を決定するのは、法律はもちろんのこと、一般的な倫理でも、神の律法でもないと言うのです。

では、一体何か?
それは、自発性で行われる行動であるか否かなんです。

ニーチェは、人間を畜生類(畜群=奴隷)と高貴なるもの(貴族)に分けます。
そして一般的な人間たちは、畜生類であり奴隷である、と言います。

なぜなら彼らは、「その他多勢」が正しいとすることに基づいて行動し、「その他大勢」が間違っていると考えてることはやらないからです。

いかなることであっても”悪”
ところが本物の人間、すなわちニーチェの言う、「高貴なる者」は違います。高貴なるものは自発性(自らの智慧)にのみ基づいて物事を判断し行動するのです。

さらにニーチェは、「その他多勢」に基づいた考え方や行動は、いかなることであっても、それは”悪”である、と言うのです。

自発性に基づいた考え方や行動であれば、それは”善”。
自発性であるか否かが、唯一無二の善悪、事の是非の基準なんです。

実はこれ、最近僕が考えていた事とほぼ同じだったんです。
でも、とっくの昔にニーチェが言語化していたことに気づいて、”なあんだ”と思いました。

悪魔的な所業の背景
”自発性か否か”によって善悪が決まるなんていうのは、あまりにも無謀ではないかと思われると思います。

むしろ”悪魔的な所業こそが自発性に基づいているんじゃないか?”って思いますから。実際、ヒトラーはニーチェをそのように解釈していましたしね。

だけど実際には、人間が複数集まって悪魔的な所業をする時には、必ず「その他多勢」や権威が背後にあるんですね。

犯罪者のように、個人が悪魔的な所業をする時は、世間や権威に対する復讐だったり、妄想の中で権威ある悪魔に命令されていることもあります。

僕は、“事の是非の判断を「その他多勢」が認める権威に求めることは、いかなることであっても悪である”というニーチェの考えは、世紀の大発見だったし真理だ、と思っているんです。

虐殺と福祉
なぜ最近、僕がそんなことを考えていたのかと言うと、今、まるで戦前のような空気が世の中に造成されているからです。

直接のきっかけになったのは、南京虐殺について辺見庸という日本人作家が書いた「1937(イクミナ)」という本を読んだことです。

その中に、”南京事件と同じ年にヘレンケラーが来日し、日本人から熱狂的な歓迎を受けた。虐殺する人間が一方では福祉について熱心に語る。この人間の矛盾云々”、と書いてあったのです。

それを読んだ時、”ナチスの強制収容所の幹部が、夜な夜な囚人にバッハを演奏させて涙を流していた”という話を思い出しました。

また、何もしていないパレスチナ民間人の家屋を破壊し、一般人を殺しても、週末に家族の元に家に帰れば良き息子として普通にふるまっていた、という元イスラエル兵士の告白もある。

日本に原爆を落としたアメリカ人パイロットだって、直後にはまるで良心の呵責など感じなかったでしょう。
それは、彼らが母国では英雄として迎えられたことからもわかります。

そして、関東大震災時における朝鮮人の虐殺、、、。
一般に私たちは、「かつて良き昔の日本人は、、、」と言う幻想を抱いていますよね。でも、かつて良かったはずの日本人が、あんな酷いことを起こしているんですよ。

”古き良き日本人”なんていうものは幻想なんです。
昔は良かったはず、と我々がイメージしているまさにその時代に、近所のおじさん達が同じ土地に住む近所の人たちを大量殺人したのですよ。

そんな馬鹿なことがあるはずないのに、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という流言を人々は容易に信じ込んだし、また警察も加担したと聞きます。
日常的な差別だって、当時どれほど酷かったことか、、、。

ナチスが政権を取ったとき、ドイツやオーストリアでユダヤ人商店の焼き討ちや虐殺が起こりました。
これを「水晶の夜」と言いますが、同じようなことが起こっていたのです。

大量殺人に加担
もちろん日本人の中にも、暴徒から多くの被害者たちの身を守った警察署長がいた、という話は聞きます。オーストリアやドイツにだって、中には身を呈してユダヤ人を守った人たちもいた。

でも、そういう人は少数だったのです。実際、多くの人が大量殺人に加担したのですから。
それにしても、一体人間というのはそこまでバカなのか、と思います。

でも、考えてみていただきたいのですが、”あの国が攻めてくるから戦争しよう!”とか、”あの人種は悪くて劣った連中だからをやっつけろ、殺せ!”とか、後で考えたら”何てバカな事を考えたんだろう、、、”というようなことや、まともな人間なら絶対しないような極悪非道なことを、人間は実際に無数にやって来たんです。

それらの行動は一体どこから生まれるのか? 彼らは、自発性によって事の是非を決められない人間たち。ニーチェの言う畜生群、畜生類。「その他多勢」を判断基準とする人間たちだったのです。

第2章 アイヒマン実験

権威ある学者に指示されると、、、
日頃は犯罪を起こさなくても、いわゆる「良き市民」とは、所詮その程度のものなんです。それがよくわかるのが、ユダヤ人学者ミルグラムによって戦後アメリカの大学で行われたミルグラム実験です。

彼は、”なぜ理性的なドイツ人がナチスに加担してホロコーストを起こしたのか?”を調べるために実験したんです。

被験者は、「権威ある学者」と紹介された男の指示のもとで、”壁の向こうにいる人の答えが間違っている場合には電気ショックを与えるように”と言われます。

さらに、壁の向こうにいる人が答えを間違えるごとに、電気ショックの電圧を上げるように指示されます。

電圧を上げると、壁を叩く音が聞こえたり悲鳴が聞こえたりします。それは演技なのですが、被験者はそのことを知りません。

壁の向こう側から聞こえる悲鳴が大きくなると、被験者は躊躇します。でも権威ある学者に、「もっと電圧を上げるように」と指示されます。

相手は死ぬかも知れない
それで、実験の結果はどうだったのでしょう?
255ボルトには、「激しい衝撃」と但し書きがありました。それにも関わらず、300ボルトに達する前に実験を中止した人は、一人もいませんでした、、、。

壁の向こうでは悲鳴を上げているのに、全員が「激しい衝撃」を与える300Vまで上げたのです。

375Vには「危険で苛烈な衝撃」の但し書きがありました。また、450ボルトには但し書きは無かった。でもここまで来ると、”もしかしたら死ぬかも知れない”ということは、被験者にも予想できたことでしょう。

それにも関わらず、何と6割以上の人が、死ぬかも知れないことが予想できた最大の450Vまで電圧を上げたのです。

ミルグラムは、最高学府の大学生を含めて、いろいろな学歴の人を集めて実験しました。しかしどれも結果は同じでした。

当初はドイツに行って実験するつもりだったのですが、アメリカでの実験結果からドイツ行きは不要となり、渡航を中止したそうです。

誰もが起こし得ること
これを別名「アイヒマン実験」と言います。それはこの実験が、アイヒマンなどのナチスの幹部たちは何も特別な悪魔達ではなく、誰にでも起こし得ること、と示しているからです。

ミルグラムは各地で実験結果を講演しました。しかし”そんなはずはない!”と、いろいろな人から反発を受けていたようです。”誰の心の中にも、ナチスの幹部と同じ要素がある”ということを、人はなかなか認めたがらないのです。

また、あるユダヤ人ジャーナリストは、アイヒマン裁判をすべて傍聴しました。そして”被告(アイヒマン)は、ただ上からの命令に従っただけの小役人だった”と報じたんです。すると同じユダヤ人たちから、”そんなはずはない!”と轟々たる非難を受けたようです。

生活心理の延長に過ぎない
広島に原爆を落としたエノラゲイのパイロットも、一般家屋を爆撃するガザ攻撃のイスラエル空軍パイロットも、また南京をはじめ中国全土で人々を虐殺した日本兵も、サリンを撒いたオウム信者も、皆、普通の人間たちなんです。

彼らは、みんなが認めた権威ある政府、軍、あるいはグルが”正しい”と言うことを正しいと思い、”間違っている”と言うことを間違っている、と思ったに過ぎないのです。

第3章 人が権威にしたがうのは?

盲目性が、世の中を悪くしている
人類が起こした、あるいは現に起こしている非道な行為は、一般市民が日常的に送っている生活心理の延長に過ぎないのです。

そう聞いて疑問に思われたなら、ミルグラム実験をもう一度思い出してください。被験者は、壁の向こうの人が苦しんでいるのにも関わらず、権威のある学者に見える人の指示に従ったことを思い出してください。

被験者は、”世界的に皆が認めている学者が指示していることだから正しいのだろう”と思ったのです。

それは人々が、大手マスコミのニュースや政府の言うことを、”その他多勢がそう思っているから正しいのだろう”と信じる心理と、何ら変わることはないのです。

みんな、「一流の放送局だから嘘は言わない」とか、「みんなが認めている政府だから言っていることは正しい」と思うんです。

その盲目性が、世の中を悪くしているんです。例えば、モンサントという人類に災厄をもたらす種を売っている会社があります。そこの社員も、上司が”やれ”と言い、会社のみんなもやっているから正しい。そう思って販売しているのです。

政府が認めたのは、モンサントが政治献金しているからで、その種が人類に災厄をもたらすかどうかを配慮した結果ではありません。

権威ある学者が大丈夫と認めたとしたら、それは研究資金をもらっているからで、人類の健康被害に配慮などしていないのです。

その種を購入する人は、政府が認めているから、テレビで宣伝しているから購入するのです。そして病気になれば、政府が認め、また権威ある医学者が認める西洋医学の病院に、盲目的に入院するのです。

権威に従う人びとの盲目性は、一体どこから来るのでしょう? それは、無意識に潜む、”自分の判断に責任を取りたくない”という想いから生まれているのです。

人類による悪業の原因は?
今、沖縄の辺野古に米軍基地が作られようとしています。言うまでもないことですが、人間としては、反対運動をしている住人の方がまともなのです。

でも機動隊員は、”政府の意向の邪魔だから反対派住民を排除しろ”という、警察上司の命令に従って、人々を弾圧しています。他の隊員みんなが人々を弾圧しているから、みんなと一緒になってやっているのです。

人は、”たとえ自分1人であっても、それが「人として正しい」と思うならそれを貫く”という信念を持っていない限り、人として間違っていることでもやってしまうのです。

「その他大勢」に生きる人は、戦争になって上官に命令されたら、虐殺すらすることでしょう。人類による悪業は基本的に、他の人が行うことを正しいとする生き方、権威に従う生き方が起こしていることを、忘れてはなりません。

小学生でも分かる話
「尖閣諸島を取られるから戦争だ!」なんていう人がいます。たかが無人の島1つのために、戦争で莫大なお金を使い、人を殺しまた人命を失うことによって得るものは何なのか?

戦争するのとしないのとでは、一体どっちが損でどっちが得なのか? 戦争の結果、結局どうなるのか? 普通に考えたら、小学生でも分かる話です。

でも、”中国、あるいは北朝鮮が攻めてくる!”と政府やメディアが言っているから、”そうなんだ、大変だ! 軍備増強しなきゃ”、なんて言う風に思ってしまう人がいます。

政府もマスコミも、多国籍企業の軍需産業から、”武器が売れるように国民を脅すんだぜ”という命令を受けているだけなんですけどね。

だから彼らはここ何年かかけて、戦争できるような空気を世の中に醸成してきたのです。それによって、軍需産業の御用聞きである政権が法案を通していったのです。

世の中全体が、戦争の空気で動くようになった時、少数の洗脳されていない人は、かつて「非国民」と呼ばれたように、今度は「陰謀論者」と呼ばれて否定され、頭の狂った者として排除されていくことでしょう。

これらのすべては、”他の人が認めているから”と、その権威を信じ、”他の人が考えているからそれは正しい”、と人々が思うことが原因なのです。

Part 2 「高貴なる者」として生きる

第1章 気が未来を決定する

「畜群」は動物的な本能に従うだけ
ニーチェがなぜ、その他大勢に生きる人を「畜群」と呼んだのか? 動物的な本能に従うところから生まれる生き方だからです。

例えば、誰かがアクビをすると、本能的に自分もアクビをします。また、草食動物は肉食動物が近づいたとき、一定方向に逃げます。

バラバラに逃げたほうが助かる確率は高いでしょうけど、彼らはみんなが行く方向に従って進むのです。鳥なんかでもそうですね。

自分自身の考えは持たない。それが智慧なき畜群の生き方なんです。彼らは、自分自身ではものを考えないのです。

だから、人間に生まれても、動物と同じ生き方をしている人は「畜群」なんです。草食動物が肉食獣の餌食になるように、畜群的な生き方は、悪智慧が働く1%魔連中の餌食になります。そして人々が不幸になるように導びかれるのです。

畜群は「奴隷」
畜群をニーチェは「奴隷」とも呼んでいます。それは、カルマの奴隷だからであり、世の中を悪くする1%魔連中の奴隷だからです。

これに対して、ニーチェが「貴族(高貴なるもの)」と呼んだ人は、自らの考えを持ちます。権威に依らないし、過去や伝統にも依らない。ましてや、他の人が正しいと考えているか否かは眼中にありません。

このことに気づいたニーチェは、天才的な着眼点を持っていたと思います。では、自らの智慧によってことの是非を判断する生き方は、一体どのようしたら生まれるのでしょうか?

ニーチェは方法論にまでは思い至りませんでした。クリシュナ・ムルティなど、ニーチェのように真理には気づいたけど方法論が無かった人は、割と多いのではないかと思います。

世の中の権威によらない
なぜこの話を法話でしているのかというと、自発性ある生き方を見出す方法論こそが、タオサンガの要だからなんです。

これまでの人類は、ニーチェの説いた「高貴なる者」の生き方をする方法論を持っていなかった。しかし今や、タオサンガがその方法論を見出した。それは、”ただわれ一人”の精神だけが持ち得る方法論です。世の中の権威にもよらず他の人にもよらないものです。

それは、氣の状態が快いのか、軽いのか、暖かいのか、あるいは澄んでいるのか?
ただそれだけを尺度として、事の是非を決める生き方です。 

自分の未来や運命にとって
気の状態が快く、軽く、暖かく、そして澄んでいれば、その生き方は健康に良く、自分の未来や運命にとっても良いのです。真のタオ指圧の臨床は、そのような気の状態でなければ勤まりません。

そもそも世界は、氣の状態が快く、軽く、暖かく、澄んでいる状態でなければならないのです。気がそのような状態であることは、世の中にとって必要なことなのです。

逆に氣が不快で冷たく、重く、汚れた状態だと、そのような氣を発している本人の健康だけでなく、周りの人の氣にも悪影響を与えます。そのような気を発している人が指圧すると、単なる物理的な加圧になってしまい、経絡治療にはなりません。

1%魔連中は人々をどのように操るか?
人の気は世界に影響を与えます。邪気を発することは、本人の未来だけでなく世の中全体を悪くしてしまうんです。  

氣が不快で冷たく重く汚れた状態はどこから生まれるのでしょう? 実は邪気とは、世の中の権威やエゴに従う畜群のエネルギーなのです。

先ほど申し上げたように、”みんながそう思っているから”、という生き方が世の中を悪くするのです。なぜなら魔は、人々を操ることによって自由を奪い、不幸にしていていくものだからです。

人々を操るのに使えるものとして恐怖や罪悪感、また欲望などがあります。しかし最も都合よく使えるのは、他の人々に従うという「畜群的性向」なのです。なぜなら消費者的欲望とは、他の人が欲している生まれるものであり、恐怖もまた然り
だからです。

権威者に従うなら気は汚れる
誰か権威ある人が”こうしたらイイ”と決めたことを盲目的に従うことは、気を汚すのです。気は、自分の智慧で判断しないことによって汚れるのです。

だから、仮に誰かが喨及(りょうきゅう)を権威者だと思い込み、”喨及(りょうきゅう)の言うことだから正しい”と考えたとしたら、それ自体で気は汚れるはずなんです。

第2章 世の中の無意識は?

反射されて返ってくるのが氣
「気が快い、軽い、暖かい、澄んでいる」という尺度で生きることは、氣の体感に基づいて生きることなのです。

正確に言うと、体感は自分自身の氣ではないんです。自分の想いや念に対して、宇宙、自然界から反射されて返ってくる氣なんです。

恐怖に支配されている
一体どのようにしたら、自分自身の気の状態がわかるようになるのでしょうか? 
これが問題ですね。

もちろん、最初かから気がわかる人はいません。なぜなら世の中の大人は、ほぼ全員が「快くなく、軽くなく、暖かく、澄んでいない」気の状態で生きているからです。

ということは、気は重く、冷たく、汚れているということです。しかしそれが常時であるならば、無感覚で気づきません。

もっとも無意識的には苦しいんです。だから瞬間的にでもその苦しさを忘れるために、レジャーに勤しんだりします。瞬間の脳の快楽を求めるのです。

基本的にその無意識は、世の中全員の無意識と同調しています。それは、人生が恐怖に支配されている状態なのです。

そうして「食っていくため=死なないため」や「何かあった時のため」に準備することに、人生の大半のエネルギーや時間が使われることになります。

第3章  是非を判断する

気の体感は、宇宙からのメッセージ
気は、自然、宇宙、如来様との向かい合わせの鏡みたいなものから生まれます。だから、気に一方通行はないのです。

だから、他者に対してポジティブになると、宇宙一切から返ってくる氣が快いのです。そしてその快さが周りの人にも反射し、それを無意識に感じて気持ちがよくなるのです。

気は、言うなれば宇宙からのメッセージだし、如来様が、このように生きなさい、と指し示す「道」なんですね。

エゴとは真逆
老子は「人間は自然に従うことで健康になる」と言いました。この真の意味は、「”気が快く、軽く、暖かく、澄んでいる”状態になる生き方をすることによって、健康になるし運命も良くなるんだよ」と、言うことです。

そう聞くと一見、なんだ簡単じゃん、と思うかも知れません。しかし、その逆ですよ。なぜならこれは、エゴが求める方向とは常に真逆だからです。

たとえば、食べ物を分け合うのと独り占めするのとでは、どちらの気が快いか?
飽食の時代なら、簡単に気が快い方を取ることができるでしょう。
しかし、食べ物が不足している状態でも、分け与える方を選べるでしょうか?

畜群の特徴は無責任
タオサンガでは、気の状態を他の人にチェックしてもらうことができる簡単な方法があります。

そして例えば、道場で利他念仏の修行がO月X日にあるとします。そして参加するのはスケジュール的にちょっと厳しかったとします。このとき、誰かに気のチェックをしてもらい、参加しない方が気の状態としては良い、と出たならば、無理してまで参加しない方が良いのです。

でも、多少無理してでも修行に参加した方が気が快く、軽く、暖かく、澄んでいると出たらどうしますか? この時、気で出ている答えを無視するようでは、気のことが分かるようには決してならないでしょう。それは誰も幸福にしない。そりゃ、そうですよね? 宇宙の気を裏切っているんだから、、、。

宇宙の構造上、ポジティブとネガティヴは表裏一体です。そして気が指し示すことは、そのまま自分の未来を暗示しています。だから、もし気が軽く、暖かく澄んでいる方を選択しないならば、それは重く、冷たく、汚れている未来を自分は選ぶ、ということなんです。

信じられないことなんですが、これまで長い間、気で示すことを無視してエゴを選ぶ人が、多かったんです。気の勉強や修行に来ていながら気を無視するというのは、一体、どういうことなんだろう? 一体、何しに来ているのだろう? もしかしたら、カルチャーセンターで仏教を学ぶみたいな感覚なんだろうか? そう思って、これまで深く追求して来ませんでした。

でも、ニーチェの理論で考えたらよくわかる。畜群を抜けられなければ、結局そうなるんです。なぜなら、自分の都合や好みやエゴでなく、気が快い方、温かい方を選ぶ、というのは、「われただ一人」という気概がなければできないことなんです。

「その多大勢に生きる」というのは、自分の判断に責任を取りたくないからなんです。実は、それこそがエゴの最たるものです。畜群的な生き方では気が不快になる道を選ぶのは必然です。

方法論を持たなかったニーチェが「高貴なる者」と呼んだ、是非を自己自身の自発性を持って選ぶことのできる唯一の尺度。それが、サンガが実践している気の体感ワークです。

エゴが受け入れられないこと
人間は、エゴが受け入れられないことを「疑問」として転化します。また、体裁の良い言い訳を考えます。あるいは相手を非難することで、自分のエゴと直面せずごまかします。

果たして自分は、ニーチェの言う「高貴なる者」の生き方するのか? 
果たして自分は、老子の言う「自然に従う」生き方をするのか? 

果たして自らのエゴ・カルマに直面して乗り越える気持ちがあるか否かを問われているのです。

もし、その決心がまだつかないならば、それは学びや修行以前の段階にある、ということです。だから、むしろ学びも修行も、その決心をつけてからの方が良いですね。

第4章 ただ一人、犀の角のように歩め

畜群の無意識
先ほど申し上げたように、エゴは恐怖から生まれ、恐怖はの世の中全体に支配されている畜群の無意識から生まれています。

またエゴ・カルマは、人をして常に、気の状態が不快で、重く、冷たく、汚れている方を選ぶように導こうとします。あらゆる巧妙な言い訳を作らせるよう、無意識に囁くのです。

言い訳は、恐怖の転化したものなんです。しかしそれこそが、昔から人類が悪業を造って来た原因であり、現在も尚、世の中を悪くしている原因なんです。

世の中を明るく照らす
恐怖もまた、その他大勢に生きる、智慧なき人を操るのに有効な手段です。世の中の畜群を支配しているのは、権威への盲目性と一体である「恐怖」です。

まただからこそ、恐怖を乗り越えてエゴに打ち克ち、快い氣を100%選ぶ「高貴なるもの」として生きる人々の存在が、世の中には必要なんです。

それは、グルに従えでも、集団に入れでもなく、伝統に従えでもありません。恐怖に従い、他の人に従い、カルマの奴隷となっている畜群の世の中で、「唯一人の意識」で生きる、ということです。ニーチェの言う、”高貴なるもの”として生きることなんです。そしてその存在こそが、世の中を明るく照らすのです。

世界を悪い方向に導いているのは?
快く澄んだ気が示す生き方は、”自然(=気)に従う”ことです。それは老子が言ったように、健康にも良いし運勢的にも良いのです。

しかし、本当に大事なのは、自分の健康や運命がどうかではありません。「高貴なる者」という生き方をしないと、世界は悪い方向に導かれてしまう。今こそ、その重大な事実に気づく必要があるのです。

自らの足で立って生きる
皆さんは果たして、「氣が澄んでいるか否かをもって生きる道を決める」ことを决定(けつじょう)しているでしょうか?

誰の権威にも依らず、100%気の体感に心を澄ませ、われただ一人、自らの足で立って生きる。これが、お釈迦様が説かれた「ただ一人、犀の角のように歩め」ということです。

Part 3  より良き世界のために

第1章  修行の前にまず為すべきこと

宇宙に同調しているのは?
”みんながやっているからやる”というのは、例えどんなに良いことに見えたとしてもニセものだし、気としては澄んでいないのです。

本物とは、自分自身の中から出てきたものでしかありません。唯一の尺度は「氣が澄んでいるかどうか」なんです。

それは、”常に氣が軽く、快く、暖かく、無限に向上しているのが宇宙の本質”だからです。気が澄んでいるなら、宇宙に同調しているのです。逆に、気が重く冷たいのは宇宙の本質とは離れているのです。

生き方を決める
だから本当は、私たち自身が常にこの状態にある、というのが存在としての本質なんです。しかし一般に人は、社会カルマに毒されて育つから、通常はそうなっていません。では、どうすれば常にこの状態でいられるのか?

それには先ず、「自分は何があっても、快く、軽く、澄んでいる気の状態を生き方として選ぶ」。これを决定(けつじょう)することです。

自分の都合の良い時だけ、というのでは無理です。エゴに基づいた生き方から、智慧が生まれるはずがありません。

容認することは加担すること
先にも申し上げたように、ずっと以前は、”Aの道を選べば氣が快くなり、Bの道に行けば気が重くなる”ことを体感していながら、Aの道を選ぶことを決定(けつじょう)しない人が多かったんです。

今から考えると信じられないような話ですね。タオサンガで学び修行することの意味が全くなくなってしまいます。また、そんなエゴを主体とする生き方こそが、世の中を悪い方向に進ませているのです。
例えば、教師が学校でいじめを容認しているなら、それはいじめに加担している、ということです。だから、澄んだ気を創る生き方に決定(けつじょう)しないということは、世の中を悪い方向に進ませること加担している、ということなんです。今から考えると、もっとこれをはっきり言うべきだった、と反省していますが。

一体自分は、世の中を良くする生き方に決定(けつじょう)するのか?
それとも、世の中を悪くする方向を容認し、自ら加担するのか? 
自他に対して、そう率直に問うべきでした。

第2章 肉体消滅後も同じ選択をする

お釈迦様の教え
気が良い方を選ぶ生き方を決定(けつじょう)し、法に随って修行するならば、やがては自分の存在自体が変わります。自己の気は、宇宙の本質に同調します。すると、常に心身の氣が快い状態になるのです。

そうなれば、「もし今こちらを選んだら氣が汚れるな」などが分かるようになります。それが智慧だし、そうなればエゴを優先することはなくなります。基本的に気が汚れる選択肢は取らなくなりますから。

お釈迦様の教えにある”唯一人歩め”やニーチェの”高貴なる人間=本物の人間”は、このような生き方を意味しているのです。

「氣に隨い、氣を創る」か否か? これは、氣が澄むか邪気に住むか、という選択なのです。

未来
心の状態は習慣性のものです。だからもし今、氣が快い道を選ばないなら、未来もずっと選ぶことはありません。生きている間に選ばないなら、死んだ後も選びません。

「往生要集」か「チベットの死者の書」だったと思いますが、次のような下りがあります。

『死んであの世に行き、お浄土に向かう道筋は見えているんだけど、美女が乗っている車がやって来る。「ああ、そっちの方が楽だなあ」と思って、そちらに惹かれて乗ってしまう。でも途中で火の車に変わってしまい、「こんなはずじゃない。ちょっと待ってくれ!」と叫ぶ。だけど、もう遅い』、と。

これは、死んだ後も、同じ心の習慣で道を選ぶことを象徴しているのです。そもそも、生きている間に邪気を選び、死んだ後には気が澄んだ道を選ぶ、といことはあり得ませんよね。

生きている間に、一見楽だけど気が汚れる方を選ぶならば、肉体が消滅すれば当然、気が汚れる道を選びます。それは、自分のエゴに直面する純粋な道よりも一見楽だし、エゴはそう囁きますしね。

第3章 言い訳に縛られる

個人の自由意志に反応する
浄土教が説く”十回の念仏で浄土に往生できる”のですか? という質問に弁栄上人は、“必ずしもそういうわけはないが、いつか未来の人生で必ず救って頂ける”と答えられました。

「無量寿経の十念往生」(10回の念仏で浄土に往生する)は、”阿弥陀さまはかくも慈悲深い方だ”と象徴的に説いているんですよ。伝統的な解釈を鵜呑みにしないようにする必要があります。

だって、生きている間、いつも気が汚れるエゴに基づいた選択をしながら、自分の都合の良い時だけ、あるいは死んだ時だけ、気が澄んだ浄土の道を選ぶということは、まさかないでしょう。

何せ、宇宙はすべて、個人の自由意志に任されて反応して、その相(すがた)を現わしているのです。

生きている間にカルマにしたがっていた人が、死んだ時は自分のカルマに反した、”純粋で、一見楽ではなさそうだけど、結果的には極楽浄土に行く道筋を選ぶ”、ということはないのです。

浄土への道筋が現れる
氣が快いのが存在の本質です。気が澄んでいるのが浄土の本質です。気が暖かいのが宇宙の本質なんです。

だから今この瞬間にも、どちらの道を選ぶのか? 誰にも依らず、われ一人己れが信じる道を選ぶのか? 智慧ある、高貴なる生き方を選ぶのか?

氣が澄んでいる道を選ぶなら、死んで現象界が消滅しあの世が現れても、気が澄んでいる浄土の道筋が現れてきます。

自分がその状況を創っている
以上のようなことは、今まで言わずに来たんです。でも、今の氣の状態が、すべての未来、死後の状態をも映しているんです。このことは否定できません。

未来の人生においてもそうだし、未来の肉体が終わったあとの世界もそうです。そのような観点に1人立ったとき、あなたはどうしますか?

気の体感に反して、「でも、、、」という、自分都合の話を出しますか? 「分かっています。でも事情が・・・」、「だって今の自分には厳しくて・・・」という言い訳をすれば、言い訳に沿った状況が生まれるんですよ。

結局は、自分がその状況を創って、次はその状況に縛られることになるんですね。でも、いさぎよく突き進むなら、言い訳になりそうな原因は消えていくんです。

体調を言い訳にしたら、体調不良になります。年齢を言い訳にすると、それに応じた心身の状態になることでしょう。年齢ほど、世間の呪いに負けるものはないと思います。人生、言い訳をしている暇はないんですよ。

”世界のために”
氣が澄んだ、相手が快い状態になるような人へのふるまいを選択するのがサンガの生き方なんです。”場に責任を持つ”とは、そういうことです。

これは”自分にとって良いかどうか”で選択できることではありません。世界のため良いから、という動機でしか選択できないものです。

自分のために選択すること自体が、氣が澄んでいないからです。「世界にとって、未来にとって氣が良い選択に生きること」。全ては、これにつきるのです。

第4章 世界に対する態度

場に対する責任が表すもの
ここで少し、身近な話をしましょう。何人かが集まっている「場」があるとします。

その場の氣は、今、どのような状態なのか? 共にいる人の気持ちを想像し、それに対して責任を持つようなら、ご自分の気は快く、軽く、暖かく、澄んでいることでしょう。

しかし、人の心を想像もせず責任を感じることもないなら、場の責任を誰かに負わせているのです。その人の気は不快で、重く、冷たく、汚れています。

そしてその気は場に影響し、場全体の氣が重くなってしまいます。結局は、誰かが責任を負って、邪気を払拭するためにエネルギーを使うことになります。

誰かに場の責任を負わせるならば、それは”相手にもたれる”と言うことです。
それは、人の気を吸っている状態であり、存在が餓鬼性になっている、と言うことで、それこそが「畜群」なのです。来世に餓鬼として生まれて、こんなはずじゃなかった、と文句言えるでしょうか?

世界に責任を持つ
ミニ世界である複数の人たちが一緒にいる”場”に対して、責任を持っているか否かは、その人が世界に責任を持っているか否かを示します。

それは、”「その他多勢」に生きる畜群”なのか? あるいは、”ただ一人高貴なる者”として生きているか否かを示しているのです。

世界に対して、場に対して責任を持たない生き方は、氣が汚れた生き方を選択しています。世界に、場に責任を持つ氣は、快く、軽く、澄んでいます。

”気には「快・不快」のどちらかしかない”のです。すなわち人の生き方には、「畜群」か「高貴なるもの」かのどちらかしかない、ということです。

カルマ(すなわち魔)の奴隷か?
繰り返しになりますが、人の生き方には、カルマ(すなわち魔)の奴隷か、自由を得た貴族か、どちらかしかないのです。

なぜなら場に無責任な生き方とは、他の誰かに責任を預けること。すなわち「その他大勢」として、無責任を選択をすることだからです。

もっとも実はそれ、選択ですらありません。その生き方は、カルマに導かれたものであり、魔が選択させているものだからです。だから、それによって、”場”という目の間にある世界の気は重くなり、また暗くなるのです。それでどうして来世は安泰などと思えるのでしょうか。

そもそも、世界の未来が暗くなることに加担しておいて、どうして死後を含んだ自分の未来が明るくなるでしょうか? もはや、あらゆる言い訳は不要です。存在には、明るくなるか暗くなるか、そのどちらかしかないのです。

どちらを選ぶのも自由ですが、明るい道を選ばなければ、カルマの法則で年月が経つにしたがって暗く重くなっていきます。

第5章 素晴らしい未来は創れる

世界は滅びに向かって進んでいる
ちょうど今、新しい時代にさしかかっています。世の中の決定的なターニングポイントが、これからやって来るのです。

果たして世界は、滅びに向かっていくのか? それとも、このターニングポイントから、明るい世界を創っていくことになるのか。

今は皆が、無責任でエゴに基づいた、世界の氣が暗くなる生き方をしています。
だから、確実に世界は滅びに向かって進んでいます。、、、これは現実です。

だから今ここで、エゴがどれほど嫌がろうとも、氣が示している快い、明るい、暖かい方向を選択する生き方にシフトしなければならないのです。そして、もし自身が、そちらの道を選ばないのであれば、それは自ら、世界の滅びに加担しているということです。

一体自分は、世界の滅びに加担する側に立つのか? それとも、氣が快く、明るく、澄んでいる世界を創る生き方に決定(けつじょう)するのか? 

果たして、ただわれ一人高貴なる者としての生き方を貫き、世界が滅びに向かう選択をしない生き方を決定(けつじょう)するのか?

未来を自分の心で創る
、、、物質を前提に生きるというのは、世間一般の常識に従って生きるということです。なぜなら、物質に生きるということは、心によって世界が変わることを認めないということだからです。でも実際のところ、物質的に生きれば生きるほど、人生はいろいろな意味でジリ貧に向かって行くんです。

自分の未来に対する想いと、世界に対する想いは、無意識的には同一なんです。
まずは、”自分の未来は自分の心の状態によって創っていける”ことを、自らの人生において証明しなければなりません。

そうでないと、世界の滅びとともに、自分の運命もジリ貧になります。共に滅びていくことになります。

第6章 快く澄んだ気に包まれて生きる

決定的なターニングポイントの時代
サンガも世界も、決定的なターニングポイントにいる。今は、そういう時代です。
このことは皆さんも、無意識では自覚されていると思います。

おそらく世界中のほとんどの人が、”人間としての本当の生き方は何か?”を暗中模索しています。幸いにして、タオサンガで修行する我々は、氣が快いかどうか、という尺度を持っています。

さらに、どうしたら常に気が快く、軽く、暖かく、明るく、澄んでいる状態にいられるか? という方法論、すなわち行法も生まれました。これによって、タオ指圧、念仏三昧、気心道、日常での気の整え方、未来の創り方など、最後のピースがはまったのです。

氣が快く、軽く、温かく、明るく、澄んだ存在として生きる。
宇宙一切と如来の大愛を分かち合う存在として、唯一人立つ。
ようやく、それを可能とする方法論が確立したのです。

新しいサンガの時代の幕開け
これからは、気が快く、軽く、温かく、明るく、澄んでいる道を選択する人々。世界に責任を持つ生き方を志願する人々がやってくると思います。これから、そういう時代にサンガは入っていくのです。

なぜなら、タオサンガとは団体でも、既存の伝統宗教でもない。何かをやっているとか、やっていないとかでもない。気が快く、軽く、温かく、明るく、澄んでいる存在のあり方そのものがタオサンガなのです。

それはまさに人類に必要なことだから、“This is it!”なのです。
                             (合掌)