住職に聴く!インド巡礼(8)

極東軍事裁判のパール判事のお孫さんと(コルカタにて)

 

ーー 前回、コルコタの

チャンドラボースのご子孫に会え、

親交を深めらられたお話を伺いました。

 

希望の火が、インドの各地で迎えられ、

祈りを込めていただいたり、

合祀されたり、、

どれもとても印象深いお話として

記憶に残っています。

 

住職: そうですか!

 

ーー その中でも、チャンドラボースの

お話は、衝撃でした。

 

日本軍と独立インド義勇軍は、インパール作戦で、

ともに同じ仲間として戦ったということなど、

まったく知らずにきましたので、、。

 

住職: チャンドラボースは、

世界で初めて女性兵士の部隊を創設

したり、すごく画期的でした。

 

また、日本には昭和初期の頃から、

インド独立運動の志士たちが亡命

していました。

 

ーー 女性兵士の部隊ですか?

 へー!! 

 

日本に亡命していた志士たちのことも、

驚きです。

 

住職: 日本の資産家も、彼らを

匿ったりして、助けていました。

 

当時は、まだ日英同盟があって、

当局に見つかったら、

大変な事になるのを覚悟で。

 

有名なのは、新宿・中村屋のカレーの

創業者、相馬夫妻ですね。

 

ーー え、そうだったんですか!

 

住職: 亡命したインド独立の志士たちを、

文字通り、命懸けで匿いました。

 

相馬家では、ビハリ・ボーズ

(チャンドラボースの前の指揮官)

に娘を嫁がせたほどです。

 

ーー そんなことがあったとは、、。

そこまでしようとする動機が

あったということですよね。

 

住職: 欧米列強の

アジア植民地化に対する、

同じアジア人としての義憤。

 

これは、一般の日本人、

特に知識層には、

強かったと思いますね。

 

第一次世界大戦後のパリ会議では、

世界で初めて、

日本が、人種差別撤廃提案を訴えたんです。

 

アメリカのウィルソン大統領に潰されましたけど。

 

ーー そうだったんですね……

 


<ビハリ・ボースと結婚した相馬家の俊子。

26歳で病死するが一男ー女をもうけた。

残念ながら息子は、従軍した沖縄で戦士した>

 

住職: また、日本軍人も、インド独立や

チャンドラボースに、かなり思い入れが

あったのです。

 

それが、無謀と言われたインパール作戦

後押ししたという説もあるぐらいです。

 


東京杉並区にあるチャンドラボース のお墓

 

ーー なるほど。アジアの国の独立、

志士やリーダーに対しての思い入れですね。

 

当時の切実さを垣間見る思いがします。

 

住職: だからインドも親日なんですね。

 

チャンドラボーズ記念館ができた時は、

東條家の人も招かれたそうです。

 

ーー ヘェ〜そうだったんですか!

 

住職: 当時の日本に対する

インド人の日本観。

 

そして、今の日本人の

当時の日本に対する

メージは、真逆ですからね。

 

ーー どう真逆なんですか?

 

住職: インド人は、「西洋列強と闘い、

アジアの独立を助けた日本」

というイメージです。

 

一方、今の日本人は、

「アジアを侵略した日本」です。

 

ーー なるほど……

 

相当の違いがありますね。

その原因については、

後ほどお伺いしたいですが、

その前に、希望の火のインド巡礼は、

その後、どうなったのですか?

 

住職: パール判事の孫娘さんと

会いました。

 

物理学が専門で、大学教授を退官

したばかりだ、とのことでした。

(冒頭の写真)

 

ーー パール判事、、、

名前だけは聞いたことがありますね、、。

 

住職: 日本が戦争に負けて、

極東軍事裁判が開かれるわけですが、

その中の裁判官の1人だった人です。

 

ーー あ、そうでした! 

 

極東軍事裁判には、

インド人の判事が入っていたんですね。

 

住職: 極東軍事裁判は、アメリカを

中心とした戦勝国の判事たちによって

行われたのですね。

 

そこに一人、インド人を入れたのです。

 

まあ、公正な裁判であるかのように

見せようとして、アジア人を入れた

のだと思います。

 

ーー 公正な裁判ではなかった? 

ということですか?

 

住職: 裁判ということであれば、

戦勝国とか敗戦国とか関係なく、

全ての戦争犯罪を審判しなければ

なりません。

 

ーー それもそうですね。

 

住職: それは、パール判事の主張の

1つでした。その他、パール判事は、

戦争の原因は、

「西洋列強の植民地支配にある」

とも主張しました。

 

ーー そうなんですか?

 

住職: 裁判は万民に公正なもの

でなければならない。

 

だから国には関係なく、

戦争犯罪全般を調べるべきだ。

 

これは、被告の東條英機さんも

言っていたことです。

 

ーー 私たちが教科書で習うのとは

違いますね。

 


<パール判事の記念碑は、京都の護国神社、

広島の寺院、また靖国神社にもある。>

 

 

住職: パール判事の言葉に、

「敗戦によって日本が失った

最大のものは真実である・・・・」

というものがあります。

 

戦後の日本は、日本人自身の手で、

自国の子どもたちに対して、

反日教育をしたのです。

 

その結果、今の日本人は、

「アジアを侵略した日本」という

イメージを持つようになりました。

 

ーー う〜ん、、、。

 

住職: 日本はGHQに占領されていた

わけですから、マスコミだって教育だって、

コントロールされていましたからね。

 

ーー そうですねぇ。

 

住職: しかし、

やはり決定的だったのは、

極東軍事裁判でしょう。

 

歴史に書かれてしまいましたから。

 

ーー  裁判で有罪となれば、

「やはり日本が悪かったんだ」と

誰もが思うでしょうね。

 


<極東軍事裁判>

 

住職: パール判事は、国際法に照らして、

検察側が出して来た証拠というものを、

2年半に亘って、徹底して調べ上げたのです。

 

その結果、「南京事件も含めて、

極東軍事裁判に提出された書類に、

証拠として採用できる

正当なものは1つもない。」

と主張しました。

 

ーー 驚きですね。

 

住職: そして、他の判事たち十数名を

相手に、2年半もの間、最後まで闘い

続けたのです。

 

パール判事は、常に戦犯に面会し、

その家族を慰めていました。

 

また、戦勝国の判事たちが出した

有罪判決に不満のあまり、

自身の判決文を書き上げました。

 

その判決文は、「日本無罪論」

というタイトルで、日本とインドで

出版されました。(日本語と英語)   

 

ーー すごい人ですね、

パール判事、、、。

 

なんだか、感謝したい気持ちが

してきました。

 

住職: もっとも、

このような主張をしたのは、

パール判事だけではありません。

 

形だけは裁判だったので、弁護士も

ついていました。

 

最初に来たアメリカ人弁護士たち

十数人は、「これは初めに結論ありき

であって、まともな裁判ではない。

こんな茶番には付き合えない」

と全員が辞任して、帰国しました。

 

ーー そんなことがあったのですか!?

 

住職: 普通に考えれば、

第二次世界大戦中の最大の戦争犯罪は、

原爆投下でしょう。

 

市民相手に爆弾を落とすこと自体が、

国際法違反ですから。

 


<原爆投下が戦争犯罪であることは否定できない>

 

それに、戦争につきものですが、

ソ連軍による満州の虐殺やレイプ、

アメリカ軍による沖縄でのレイプ。

 

また、硫黄島における捕虜虐待や

銃殺などもありました。

 

ーー 裁判なら、そちらも裁かれなくては

ならないですね。

 

では一体なぜ、裁判という形式を

取ったのでしょうか?

 

住職: 続きは、また次回にしましょう。

 

インタビュー後記

パール判事の名前だけは、

聞いたことがありました。

 

そっかー、パール判事も

インド人だったんですね!

住職の話は、日本人のほとんどに

刷り込まれている教科書的な歴史では

ありませんでした。

(ひょえーな内容!)

 

そして、すごいのはパール判事の、

公正な態度と、極東軍事裁判に臨まれた

姿勢でした。

 

それだけで、救われた気がします。

 

私は、自分が極東軍事裁判に、

どこか理不尽なものを感じていたんだ、、

と自覚することができました。

「アジアを侵略した日本」という汚名は、

戦後70年以上経っても、

日本人の多くに刷り込まれたままです。

(教科書が変わらないからか?) 

 

そして、いまも、戦争は国と国の

戦いだと信じています。

 

「敗戦によって日本が失った

最大のものは真実である・・・・」

というパール判事の言葉は、

痛いですね。

 

でも、その通りだと思います。

 

さて、次回はどんなお話が聴けるのか、

楽しみです!

 

*参考文献「ゴーマニズム宣言SPECIAL パール真論 」
小林よしのり著

 

<追記>

希望の火の一行は、コルカタでも、

様々な学校やNGOなどを巡っていた

そうです。

 

ここは、バングラデシュ仏教徒が

政府に迫害され、子どもたちを連れて

逃げて来た僧侶が創設した学校とのこと。