極東軍事裁判のパール判事のお孫さんと(コルカタにて)
ーー 前回、コルコタの
チャンドラボースのご子孫に会え、
親交を深めらられたお話を伺いました。
希望の火が、インドの各地で迎えられ、
祈りを込めていただいたり、
合祀されたり、、
どれもとても印象深いお話として
記憶に残っています。
住職: そうですか!
ーー その中でも、チャンドラボースの
お話は、衝撃でした。
日本軍と独立インド義勇軍は、インパール作戦で、
ともに同じ仲間として戦ったということなど、
まったく知らずにきましたので、、。
住職: チャンドラボースは、
世界で初めて女性兵士の部隊を創設
したり、すごく画期的でした。
また、日本には昭和初期の頃から、
インド独立運動の志士たちが亡命
していました。
ーー 女性兵士の部隊ですか?
へー!!
日本に亡命していた志士たちのことも、
驚きです。
住職: 日本の資産家も、彼らを
匿ったりして、助けていました。
当時は、まだ日英同盟があって、
当局に見つかったら、
大変な事になるのを覚悟で。
有名なのは、新宿・中村屋のカレーの
創業者、相馬夫妻ですね。
ーー え、そうだったんですか!
住職: 亡命したインド独立の志士たちを、
文字通り、命懸けで匿いました。
相馬家では、ビハリ・ボーズ
(チャンドラボースの前の指揮官)
に娘を嫁がせたほどです。
ーー そんなことがあったとは、、。
そこまでしようとする動機が
あったということですよね。
住職: 欧米列強の
アジア植民地化に対する、
同じアジア人としての義憤。
これは、一般の日本人、
特に知識層には、
強かったと思いますね。
第一次世界大戦後のパリ会議では、
世界で初めて、
日本が、人種差別撤廃提案を訴えたんです。
アメリカのウィルソン大統領に潰されましたけど。
ーー そうだったんですね……
<ビハリ・ボースと結婚した相馬家の俊子。
26歳で病死するが一男ー女をもうけた。
残念ながら息子は、従軍した沖縄で戦士した>
住職: また、日本軍人も、インド独立や
チャンドラボースに、かなり思い入れが
あったのです。
それが、無謀と言われたインパール作戦
を後押ししたという説もあるぐらいです。
東京杉並区にあるチャンドラボース のお墓
ーー なるほど。アジアの国の独立、
志士やリーダーに対しての思い入れですね。
当時の切実さを垣間見る思いがします。
住職: だからインドも親日なんですね。
チャンドラボーズ記念館ができた時は、
東條家の人も招かれたそうです。
ーー ヘェ〜そうだったんですか!
住職: 当時の日本に対する
インド人の日本観。
そして、今の日本人の
当時の日本に対する
イメージは、真逆ですからね。
ーー どう真逆なんですか?
住職: インド人は、「西洋列強と闘い、
アジアの独立を助けた日本」
というイメージです。
一方、今の日本人は、
「アジアを侵略した日本」です。
ーー なるほど……
相当の違いがありますね。
その原因については、
後ほどお伺いしたいですが、
その前に、希望の火のインド巡礼は、
その後、どうなったのですか?
住職: パール判事の孫娘さんと
会いました。
物理学が専門で、大学教授を退官
したばかりだ、とのことでした。
(冒頭の写真)
ーー パール判事、、、
名前だけは聞いたことがありますね、、。
住職: 日本が戦争に負けて、
極東軍事裁判が開かれるわけですが、
その中の裁判官の1人だった人です。
ーー あ、そうでした!
極東軍事裁判には、
インド人の判事が入っていたんですね。
住職: 極東軍事裁判は、アメリカを
中心とした戦勝国の判事たちによって
行われたのですね。
そこに一人、インド人を入れたのです。
まあ、公正な裁判であるかのように
見せようとして、アジア人を入れた
のだと思います。
ーー 公正な裁判ではなかった?
ということですか?
住職: 裁判ということであれば、
戦勝国とか敗戦国とか関係なく、
全ての戦争犯罪を審判しなければ
なりません。
ーー それもそうですね。
住職: それは、パール判事の主張の
1つでした。その他、パール判事は、
戦争の原因は、
「西洋列強の植民地支配にある」
とも主張しました。
ーー そうなんですか?
住職: 裁判は万民に公正なもの
でなければならない。
だから国には関係なく、
戦争犯罪全般を調べるべきだ。
これは、被告の東條英機さんも
言っていたことです。
ーー 私たちが教科書で習うのとは
違いますね。
<パール判事の記念碑は、京都の護国神社、
広島の寺院、また靖国神社にもある。>
住職: パール判事の言葉に、
「敗戦によって日本が失った
最大のものは真実である・・・・」
というものがあります。
戦後の日本は、日本人自身の手で、
自国の子どもたちに対して、
反日教育をしたのです。
その結果、今の日本人は、
「アジアを侵略した日本」という
イメージを持つようになりました。
ーー う〜ん、、、。
住職: 日本はGHQに占領されていた
わけですから、マスコミだって教育だって、
コントロールされていましたからね。
ーー そうですねぇ。
住職: しかし、
やはり決定的だったのは、
極東軍事裁判でしょう。
歴史に書かれてしまいましたから。
ーー 裁判で有罪となれば、
「やはり日本が悪かったんだ」と
誰もが思うでしょうね。
<極東軍事裁判>
住職: パール判事は、国際法に照らして、
検察側が出して来た証拠というものを、
2年半に亘って、徹底して調べ上げたのです。
その結果、「南京事件も含めて、
極東軍事裁判に提出された書類に、
証拠として採用できる
正当なものは1つもない。」
と主張しました。
ーー 驚きですね。
住職: そして、他の判事たち十数名を
相手に、2年半もの間、最後まで闘い
続けたのです。
パール判事は、常に戦犯に面会し、
その家族を慰めていました。
また、戦勝国の判事たちが出した
有罪判決に不満のあまり、
自身の判決文を書き上げました。
その判決文は、「日本無罪論」
というタイトルで、日本とインドで
出版されました。(日本語と英語)
ーー すごい人ですね、
パール判事、、、。
なんだか、感謝したい気持ちが
してきました。
住職: もっとも、
このような主張をしたのは、
パール判事だけではありません。
形だけは裁判だったので、弁護士も
ついていました。
最初に来たアメリカ人弁護士たち
十数人は、「これは初めに結論ありき
であって、まともな裁判ではない。
こんな茶番には付き合えない」
と全員が辞任して、帰国しました。
ーー そんなことがあったのですか!?
住職: 普通に考えれば、
第二次世界大戦中の最大の戦争犯罪は、
原爆投下でしょう。
市民相手に爆弾を落とすこと自体が、
国際法違反ですから。
<原爆投下が戦争犯罪であることは否定できない>
それに、戦争につきものですが、
ソ連軍による満州の虐殺やレイプ、
アメリカ軍による沖縄でのレイプ。
また、硫黄島における捕虜虐待や
銃殺などもありました。
ーー 裁判なら、そちらも裁かれなくては
ならないですね。
では一体なぜ、裁判という形式を
取ったのでしょうか?
住職: 続きは、また次回にしましょう。
インタビュー後記
パール判事の名前だけは、
聞いたことがありました。
そっかー、パール判事も
インド人だったんですね!
住職の話は、日本人のほとんどに
刷り込まれている教科書的な歴史では
ありませんでした。
(ひょえーな内容!)
そして、すごいのはパール判事の、
公正な態度と、極東軍事裁判に臨まれた
姿勢でした。
それだけで、救われた気がします。
私は、自分が極東軍事裁判に、
どこか理不尽なものを感じていたんだ、、
と自覚することができました。
「アジアを侵略した日本」という汚名は、
戦後70年以上経っても、
日本人の多くに刷り込まれたままです。
(教科書が変わらないからか?)
そして、いまも、戦争は国と国の
戦いだと信じています。
「敗戦によって日本が失った
最大のものは真実である・・・・」
というパール判事の言葉は、
痛いですね。
でも、その通りだと思います。
さて、次回はどんなお話が聴けるのか、
楽しみです!
*参考文献「ゴーマニズム宣言SPECIAL パール真論 」
小林よしのり著
<追記>
希望の火の一行は、コルカタでも、
様々な学校やNGOなどを巡っていた
そうです。
ここは、バングラデシュ仏教徒が
政府に迫害され、子どもたちを連れて
逃げて来た僧侶が創設した学校とのこと。