利他心と、自己犠牲をはき違えないように 行動する為には、どのようにしたらよいでしょうか?

住職の人生相談コーナー

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遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧・気心道などの各教室、海外援助を行っている。遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。
http://endo-ryokyu.com/blog/


◎死は、魂にとって、ひとつの通過点にすぎないと思うのですが、世界中の宗教で死にネガティブなイメージがあるのはなぜでしょうか?

えっ?  宗教って死に対してネガティブなイメージありましたっけ?

そういえば、一般に明るい葬式ってなかなかないですよね。文化によってはあるらしいけど、、、。
本質から言えば、死がポジティブかネガティブかは、死んだ後の行き先によるのではないかと思いますけどね。
それに、いくら通過点と言っても、行き先が暗い世界だったら、ワクワク!とはならないし、逆に明るいハッピーなところに行くことになっていたら、楽しみ〜!となるでしょうしね。

あなたはどっちですか?マラソンだって、通過点よりゴールの方が大事。
あなたの行き先はどこなんですか!? (決まんなきゃ、通過点ですらないかもよ)^ ^


◎最近、何をやるにもやる気が出てきません。これは我でしょうか?

砂糖とか、添加物、農薬等で肝系がダメージを受けるとやる氣なくなりますけど、食べていないですか?
未来に夢を持たなくなっても、やる気なくなります。
果たして、どちらでしょう? 


◎赤ちゃんは、ただただ生まれてきてくれたことに感謝されて十分周りを幸せで満たしてくれる存在です。
しかし、成長するにしたがって、健康である事、勉強が出来る事、優しい事、等々、
多くの人にとって“良い子”でないと、存在価値を否定されたり、居場所が無くなっていく世の中になってしまったのは、いつからなのでしようか?(何故なのでしようか?)

そんなことを嘆く時間があったら、あなたが人々に対して、「あなたは存在価値があるんだよ」というメッセージを出したり、あなた自身が、「人々のための居場所」となってあげて下さいませ。

前者はどうやってやるか? ことあるごとに、「その人に重要な存在である」と感じさせて上げることです。(くれぐれも逆をやらないようにね。「自分がいかに重要かをアピールする」とか。 (> <)

後者はどうやってするのか?
人の未来に心から関心を寄せ、共感して
話を聴いて差し上げることです。
(くれぐれも逆をやらないようにね。
「自分の話を延々とし続ける」とか。(> <) ) 詳細は、「氣の幸福力」(法蔵館)をお読み下さい。(←宣伝 ^ ^)


◎タオサンガで大切にしている利他心と、自己犠牲をはき違えないように行動する為には、どのようにしたらよいでしょうか?

利他は“人の喜ぶ顔を見たいがために”するもので、自己犠牲は、利他を
やっている自分の姿に酔いしれてするものです。
ナルシシズムとマゾヒズムは、利他の敵ですね。その結果、誰も幸福にならないから。


◎職場で細かいことまで監視していて、小姑のようにチェックしてくる人がいます。
注意の仕方も嫌みが多くて、一緒にいてげんなりする時もあります。
そもそも嫌みを言う人の心理とはどういうものなのでしょうか?
そして、そういう人とはどう付き合っていったらいいのでしょうか?教えて下さい。
よろしくお願い致します。

嫌みを言う人は、自分の人生に不満がある人です。
人間関係における最も意味ある修行は、「自分の気持を愛をもって伝える」ことです。
「あなたにそう言われたら自分はつらいし、元気がなくなる」とかを、怒りでなく、相手に対する愛をもって伝えるということです。

もっとも、自分の思い込みで勝手に誤解して、“つらい!”と思っている場合だってあります。
その場合は、決して愛では言えず、怒りや負の感情だけが出ます。

自分の辛い気持を愛情で伝えることができるようにすることは修行です。
だから何度も何度も続けるのです。
そしてあなたが「自分の気持を愛情をもって相手に伝えることができるようになったとき」、相手は言わなくなります。
その人は、そのための指導員だったのですから。



◎住職にもトラウマというものはありますか?
あるとしたら、何が一番のトラウマであるか知りたいのですが、。

僕のトラウマ感覚の基本は、「自分には価値がない。自分は誰にとっても、
いなくて良い存在である。
そして、飼い殺しのように自由が縛られるのが怖い」というものですね。

だから、「そんなら、バイバーイ!」と、家出を繰り返していたんです。
今でもそのトラウマ感覚は基本的にあります。
だから、「誉められもせず苦にもされず」、放浪しているのが、一番自分には合っているような気がします。


◎人の感情の沼みたいなところにはまってしまったり、思わぬところで誤解をされていて、誤解が解けなかったり、こういうことは時間が解決してくれるのかもしれませんが、時々「疲れたなー」と虚しさを感じることがあります。
住職は、こういう虚しさを感じることはありますか?
そのとき、どのようにこの虚しさと向き合うのでしょうか?

「人の感情の沼みたいなところにはまってしまったり」というのが、どうもよくわからないのですが、、、。
たしかに、善意が誤解されるのって傷つきますよね。

たとえば、Aさんのために何か骨折りして、「こいつはお金とか見返りを求めてやっているに違いない」とAさんから思われたりなど、当事者であるAさんから誤解された場合は僕も傷つきます。

でも全然関係ないBさんから誤解された場合は、なぜかあまり傷つかないんです。
それはおそらく、”自分と天だけが知っていれば、それで良いや”とかがあるかも知れません。

それに、人の善意を誤解するというのは、Bさんが自分のエゴを投影して誤解したということです。
だからむしろ“Bさん、かわいそう〜”という感じになるじゃないですか。

誤解されるかどうかよりも、「自分がちゃんと自分の人生を100%使命を全うして生きているのか?」そっちの方が気になりません? 
どうせ虚しさを感じるなら、お互いもっと大きなことのために、「虚しさ」を感じようじゃないですか! (←一体なんのこっちゃ!? 自分でもよくわからんな)