和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。
喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?
遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/
第二十回
――前回は、タオ指圧が、住職の仏教体験と切っても切れない関係にある、という話を伺いました。
住職:何しろ、現在、世界各地のタオ指圧で指導されている気のワークの原形は、すべて仏の大愛を他者に反映させる霊的な気の作用ですからね。 もっとも本にそのことは一切書きませんでしたが。
――どうして書かれなかったんですか?
住職:うーん、やっぱり最後の最後まで、“仏教やら念仏のことは語らずに済まそう”みたいなのはありましたね。
――それはまた、どうしてですか?
住職:そもそもタオ指圧の内容が、かつての東洋医学にはなかったものです。
だから最初の内は、二十四経絡や超脈などの新しい経絡の存在を説いても、“何言ってんだよ、あんた”みたいな反応ばかりでしたし。
――新しいことを説くということは、大変な苦労があるのでしょうね。
住職:みんなに良かれと思って説いていたことですから、まあ、傷ついていましたね。
善意を反発や疑問で返されたり無視されることで、人は深く傷付くものなんだなあ、と学びました。もっとも、今でも、つらい時がないわけでもないのですが。
――新しい概念や思想は、最初は必ず否定されたり反発されるものですね。
住職:それは世の常だから仕方がない、といえばそうなのかも知れません。
“自分の代でタオ指圧が認められることなんか、ないかも知れないなぁ” なんて思って、諦めかけたこともありました。
エゴ全開でクラスに来る人も多かったから。
――それでも、価値あるものはいつしか認められていき、やがて世の中に共有されていくものですね。
住職:かつて長い間、人々の疑念や反発を受けながら、つらい想いでボロボロになりながら、タオ指圧のクラスを教えていたんです。
――体どうして、そのようなことが起こるのでしょうか?
住職:それは“人は、自分のエゴが受け入れられないことは、疑念や反発へと転化させる”ものだからです。
――なるほど。
住職:だから、この上、修行者に己れの我(エゴ)の抑制を要求する、仏教を説こうなんていう大それた希望は、あまり持たなかったですね。
でも、“自分が味わった仏の大愛を、いつかは他の人々と分かち合いたい”。という願いを、捨て切ることはできなかった。
それで、坊さんにまでなったんです。僧衣でも着ていれば、いつか人が自分の話を聞いてくれる時が来るかも知れない、と。
――そうだったんですか。
住職:ただし、“自分は「先生」なんて呼ばれるのからは一番遠いキャラだ” という自覚は常にありますし、正直言って、あまり好きではないんです。
だから、共に念仏する人たちが現れても、正面切って、“仏教を教える先生”という役割を担うことは、ずっと避けていたんです。
――では、タオ指圧を教えてきたのは?
住職:増永先生の教えの要である、「証診断」という文化遺産を受け継いだから、“これを次世代へ渡す責任を果たさなければならない”と、強く思ったんです。
だから、“誰かが証診断に目覚めてくれたら、自分はさっさと音楽に専念しよう”、と。まあ、それはいつも思っていましたね。
――それは、何とまあ面白い話ですね。
あそこまで徹底して、経絡臨床を研究されて来た住職が、一方ではそんなことを考えていたなんて。
住職:そう思いながら、経絡治療の研究に長い間、のめり込んでいたのです。
そしてそれは、常に“これを他の人もできるようになるには、どう工夫したら良いのだろう?”という、指導法の研究との両輪でした。
早いとこ、次の人にバトンタッチするために。
――そうして、タオ指圧の体系が生まれていったのですね。
―続く―