住職に聴く! タオサンガ篇(2)

和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。

喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?

遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/

 

タオサンガ篇(2)

 

--前回の住職の、「無限向上という、人間界における“危険思想”」という言葉が面白い表現だと思いました。私は宗教がこういう内容を説くなら、人々も宗教アレルギー起こさないのではないか、と思いました。

住職: えっ、宗教アレルギーですか、、、? うーん、どうですかねー?
まず「宗教」というからには、とりあえず宗教の定義をしなくてはならないいですね。
でも、これはとても難しい。、、、なのでとりあえず、「宗教的だけど宗教でないもの」とは何かについて考えてみましょう。

--はい、お願いします。

住職: 僕に言わせると、“およそ、人間を本尊とするもの”は、宗教に見えても宗教ではないですね。

--本尊が人間?

住職: 帰依や崇拝の対象が、個人や団体であるものですね。まあ教祖とか、教団とかですね。これは僕の定義では、宗教に見えても宗教ではないものになります。目に見えるものを本尊としているんだから。

--そこらへんが、ごっちゃになっているんですね。全部ひっくるめて「宗教」という言葉をあてはめていますから。

住職: それは宗教の本質がわからなければ仕方ないですよ。もっとも、宗教という言葉自体が明治以降の造語ですから、日本人にはなじまない言葉ですけど。

--以前、お聞きしました。

住職: 元来、日本人やアジア人にとっては、神道とか仏道とかは、「宗教」というカテゴリーではなかったんです。それらはあくまでも、「道」であって、西洋的な意味での宗教という概念ではないんですよね。

--はい。

住職: だから昔から、「登る道はちがっても頂上は同じ」という言葉が浸透していて、生まれたら神社、結婚式は教会、死んだら仏教という生活が、何の違和感もないのです。これに対して西洋の宗教というのはカテゴリーです。つまり、宗教以外の芸術などとは異なるもの、という概念です。だから日本みたいに、「剣禅一如」と言って宗教と武道を一緒に考えるなんてことは、あり得ません。

--茶道は禅から発達したから、禅と茶道も一体化していますものね。

住職: また、西洋でXX教と名付けた宗教は、異宗教の存在があって初めて成り立つ概念です。東洋みたいに、異宗教という概念が存在しなかったり、それらは道の違いに過ぎないという考えではないし、死んだ先も別としています。

--天国という行き先まで違うんですね。

住職: だからどっちが本物かという話になってしまうんですね。

--はい。

住職: でまあ、話を戻すと、本来宗教で礼拝する根本対象(本尊)は、永遠性のものです。だから教祖とか団体なんていう一時的な存在、時間が経てば劣化して朽ちてしまうような存在を帰依の対象にするのは、どう考えてもおかしいんですよねー。

--でも、目に見えない永遠なるものを認識できる人間ってそうそういないですよね。

住職: だから、「目に見えるものを通して永遠なるものにつながろう」ということで、象徴的に仏像や十字架などを拝んだりするのですけどね。

--なるほど。

住職: 「真の実在は目に見えるものを超えている。目に見えているものは、あくまでも方便なんだよ」ということが認識できていれば良いのですが、まだそれだけでは足りないんです。

--と、おっしゃると?

住職:同時に「方便が大霊そのものなんだよ」(法華経)と、逆転するのが、また大乗仏教の深さでもあるんで、、、。

--へぇー。

住職:一般の人にはわかりにくいですよね。これ? まあ理路としては、「方便はあくまでも方便なんだけど、同時に方便を超えている→大霊のすべては方便の中に現れている→方便こそ佛である。→だから方便である仏像や経典を佛として拝む」なんですよね。

--なるほど。

住職: そして最終的には、「方便でありながら真実。また、真実でありながら方便である」と、まるで二枚の鏡が向合って無限の世界を垣間見るような、永遠の反転逆転の世界を実相とするんですね。この辺はテーマがそれているので、これについての話は、このぐらいにしておきましょうね。

--うーん、深いですね~、大乗仏教は!

住職: 大乗仏教を深く修行していないと、反転逆転の真実というものがわからず、どうしても方便についての認識があいまいになりがちですね。

--はい。

住職: 逆説的真実である、この逆転の面白さがわからないと、「ボクは礼拝の対象なんて持たないぞ。そもそも、“宇宙”って呼べば良いじゃないか、だって神とか佛とか、名前なんか付けなくたって良いんだからね。」となります。するとその結果、大抵は自我肥大を起こすんですね。

--わかる気がします。

住職: 何らかの修行をした‟スピリチュアル系、困ったちゃん教祖”になるのは、実はその延長なんですね。

--そうなんですか?

住職: 自分は修行して来たつもりでも、実際には自我肥大を起こしていることが、ままあります。そして教祖になるのは、「自分こそ道だ!」と血迷った結果なんです。アドバイザーとして人間操作に慣れた人がそこに加わると、信者のヒーロー願望的な幼児性が利用され、教祖を本尊としたカルトや疑似宗教が生まれるのですね。

--なるほどね~。

住職: 指導者は、道を指し示す「指」であって、道そのものではありません。なのに、いつのまにか自分もまわりも、その人が「道」そのものだと錯覚してしまうんですね。

--はい。

住職: 話を戻しましょう。帰依の対象が人や団体でなく、あくまでも生死を超えた永遠性に通じる教え(法)、あるいは、宇宙大霊(佛)ならば、まあ宗教ということになるのかな、とは思います。

--はい、、。

住職: そもそも一般に宗教アレルギーというのは、個人(教祖)や団体を帰依の対象としている人に対するアレルギーではないでしょうか? だってそもそも目に見えないものを真の本尊とすべきであるのに、それを取り違えているんだから。

--そうですね。それに対する違和感なんでしょうね。

住職: その反動のせいか、最近人気のスピリチュアル系は、個人や団体を感じさせないものとなります。にも関わらず、グルっぽい人がいたりするんですけどね。(笑) まあそこは置いといて、、、。

--はい。

住職: でも、スピ系では「生死を超える」という、宗教本来のテーマがないですね。それではエゴが温存されますから、自我は心地よいのですが、、、。
また、拝礼する本尊もないと、自我または自我を投影したグルがお山の大将になります。これまたエゴにとっては極楽です。

--なんともむずがゆい感じがするのは、そのせいなのかもしれませんね、、。ところで、だれも、マザーテレサや、ダライラマ14世にアレルギーを起こしたりしませんが・・・。

住職: 教祖的な個人であっても、芸能人的な扱われ方をマスコミがしていると、宗教であっても一般にアレルギーはありませんよ。英語で「アイドル」というのは訳せば「偶像」で、精神的には同じ延長線上にあるんです。世間教の信者(大衆)を操作するのがマスコミの役目ですから、世間が信じているものにアレルギーは起きないんですよ。

--あ、そうか、、。

住職: エゴが安全である限り、誰も反発しないですよ。実際には、マザーテレサのハウスから逃げ出す人は多かったのですけどね。

--はい、、、。

住職: 「世俗を捨てて入りたい」と言って多くの人がハウスに入っても、ワークのキツさに加えてエゴが満たされず逃げ出すわけですが、、、。

--死者を看取るのですから、大変なワークだと想像します、、。マザーテレサに対する憧れだけではどうにもならないのでしょうね。

住職: 誰に誉められることなくやるのが、本来の利他です。だから、自己投影的な憧れで利他し続けるのは無理ですよ。マザーのハウスに限らず、タオサンガに来る人も、ワークの深さやタオ指圧の効果ばかりに氣がとらわれていることが多いのです。

--ああ、そうなんですか?

住職: 最初の内は、とっても楽しんで「タオサンガって凄い!」とか言ってくれていたりします。でも本当は、自我との徹底的な向き合いに支えられてこそあるタオ指圧の効果だし、またワークの深さであるんですが。

--そこにはなかなか認識が至らないんですね。

住職: 最初の内は仕方ないですよ。^ ^

--でも遅かれ早かれ、自我(エゴ)と向合う時は来るわけですね。

住職: 心が深い段階に進めば進むほど、自我との向き合いは深くなりますよ。

--なぜなんでしょう?

住職: 人間界では、自我と向き合いこれを乗り越えるプロセスそのものが、たましいの向上だからです。

--そうなんですか?

住職: 光を見ることは、イコール影を見ることです。自我の影を認識せずして光だけ見るとしたら、それは逆に魔によるまやかしです。

--ああ、だから「光を見た!」と言うミニ教祖がよくいるんですね。

住職: 神を見る人は、自分の中にある悪魔と対峙しているものですよ。釈尊成道の前やキリストの断食後に誘惑する悪魔が現れますが、それはそのことを象徴しているんです。

--無限向上するというということは、人間は永遠に我と向き合い続け、我を乗り越え続けるということですか?

住職: 大乗仏教徒ならば必ず唱える「煩悩無辺誓願断」という文言があります。「煩悩というカルマは無限だから、誓って断ち切って行くことを願います」というもの。これは、修行者としての宣言なんですが、「永遠に我と向き合い続け、我を乗り越え続けます」という誓いを意味しているんです。

--じゃあ、スピ系によくある、「悟りを開いて、まったく別の霊的ステージに行きました」というのはないんですか?

住職: 考えてもみて下さい。お釈迦さまが説いた真理の1つは、「諸法無我」です。これは、「個という独立した存在はない。個としての存在は、他の一切の個の現れである」ということです。

--はい。

住職: ならば、特別な存在などないということですよ。そもそも無我ならば、自分の心そのものが、一切の存在の現れであることがわかるはずです。ならば、どこに「“悟った私”などという特別な存在がいるのでしょう?」

--それもそうでした! 真理の中には我が楽しむものってないんですね。

住職:でもかえってそこに、永遠の喜び、安らぎ、そして平和があるんです。

 
インタビュー後記

住職の「人間界では、自我と向き合いこれを乗り越えるプロセスそのものが、たましいの向上だからです」という言葉。私にはたましいの向上なんて無理なんじゃないか・・・? と、言われたわけではないのに弱気になる自分がいます。いかに「自分」というものに囚われて生きていることかを思い知らされます。そういう「自分」の毒のようなものが、実は世界を汚しているのではないか? 住職は今回のインタビューでそのようなことはおっしゃってはいないのですが、なぜかそう感じました。

タオサンガ(和田寺道場)という利他行の場がある、というのは単にそこのメンバーだけに意味のあることではないのかもしれないと思います。
前回、今回の住職へのインタビューでそのような場が堕落せずに存続するというのは、ものすごい努力のいることなのだとも感じました。
今後も、住職へのインタビューを通して、利他行について、信仰について聴いてみたいと思っています。