第二十二回
――前回に続き、気の融合についてうかがっていきたいと思います。
御著書に書いてある、クラスや無料ワークショップなどで学ぶ「気の融合」は、仏さまとの霊的融合の一部、というお話しでした。
気の融合は、霊的融合に比べたら、とても浅いという話や、気の世界よりさらに深い世界があるというのは、驚きでした。
住職:その他、仏さまとの霊的融合の結果としては、様々なことが起きるんですよ。気の融合は、あくまでも表層的な一部なんです。
――なるほど。それでタオサンガには、56種類もの様々な気心ワークの体系があるんですね。気の幸福力ワークショップでは、次々と体験する気の世界の豊かさに、皆さん一様に、ビックリされていますね。
どのようにして発見されていったんですか?
住職:最初はまず、自分がタオ指圧臨床で行う気の世界が、一体どのようなものであるかを教えるようになったんです。
それらはもともと、僕の無意識が行っていたことです。
しかし「無意識」なので、何をやっているかという自覚はないわけです。
――はい。
住職:でも、それでは人にうまく伝えられない。
昔だったら、師匠と一緒に生活する。
そして、師匠が仕事している「気」を何となく感じるようになる。
やがてその「気」が弟子の潜在意識に染み込んでくる、ということで、「以心伝心」に伝わったんでしょうけどね。
――はい。
住職:こちらは、海外にいる生徒さんにも教える必要があったし、何としてでも次の世代に伝えたいと思っていたのです。
やがて、生徒さんの気(無意識の働き)を見ることによって、自分の無意識を意識化し言語化して伝え始めた。
それでできたのが、タオ指圧の気心ワークの体系なんです。
――「気心道」という本に書いてありましたね。
住職:でも、後でよく考えてみたら、気心56体系は、すべて20代で体験した仏さまとの融合体験が元だったのです。
――なるほど。だからタオ指圧と念仏は、切っても切れない関係にあったんですね。
そしてそれは、「タオの詩」にもなっている、56の壮大な体系ですね。
住職:ただ、56までできたというよりも、むしろ逆で、56でとめたんです。
――どういうことですか?
住職:気と心の体系を創っていた時、どこまでも無限に体系が生まれ続けていくような感じだったから、この辺でやめとこうとストップしたのです。
――そうだったんですか。
住職:気心56体系の根源は、宇宙大霊です。だから無尽蔵で、どこまでも出て来るんです。
――はあ、、、。
住職:でも無限だということは、全部無くても構わないということなんです。
ふと、なくなってしまっても良いかな?と思うぐらい。
――そんな、、、。
住職:例えば一遍上人は、死ぬ時に自分の書いたもの全部焼いてしまいました。
そして、「一代の聖教尽き果てて、南無阿弥陀仏となるにける」(自分の生涯の教えは尽き果てて、たた念仏だけだ)と言って、すべて終わりにしてしまったでしょう。
――それは、そうですが、、。
住職:法然上人の教義にしても、煎じ詰めたら「南無阿弥陀仏を唱えたら浄土に往生する」という、ただそれだけです。
亡くなる前に、”一枚起請文”(いちまい きしょうもん)にそう書かれた。
――はい。
住職:道元禅師は「只管打座」と言って、ただ座禅。日蓮は、ただ南無妙法蓮華経の題目だけです。
それらですべてオッケーにできるのは、そこに無尽のものが入っていることを知っているからなんですね。
それで、“只”に徹することができると思うんです。
――それはそうなのでしょうけど、私としては、タオサンガの気心体系では、参加者の皆さんが凄い世界を体感できるものですから、ぜひ残しておいて頂きたいと思っています。
それはともかく、現在、タオサンガで行われている気と心のワークは、仏さまとの霊的融合が元になって生まれた、ということなんですね。
住職:はい。
――それから、気を体感する56体系は、仏の境地の一部を誰もが体感することを可能にしたとお聞きしました。
住職:はい。56体系によって、今までは、その境地にならない限りは、仏教用語の知識でしかなったことが、一足飛びに体感できます。
――これは考えてみると、すごいことですよ。
たとえが合っているかどうかわかりませんが、棚からぼた餅みたいな、、。修行抜きで体験できるわけですから。
住職:ただし、問題もあるんですよ。
――とおっしゃると?
住職:気のワークは、相手とペアーになって体感するのが基本です。
――はい。
住職:それで、ワークによって気を体感することができるのは、本人ではなくて相手なんです。
――そうでしたね。
住職:たとえば、誰かとペアーを組んで背中合わせになったとします。
こちらは、“Aさんは、「仏さまの大愛をイメージして下さい」”とリードします。
“Bさんは、Aさんの背中から、どんな気が伝わってくるかを感じて下さい。”と言います。すると、仏の大愛をイメージしているAさんではなく、相手のBさんが、何とも温かいものに包まれたような感じや幸福感を感じます。
――へぇー、どうしてそれが問題なんですか?
住職:まず、修行によって会得した「仏の大愛」の実感であれば、相手だけでなく、自分自身も、温かいものに包まれた大きな幸福感を感じます。
しかし、気のワークでは、主として感じるのは相手です。
自分はあまり感じないのです。自分が感じることができるのは、ペアーになった相手が、そのようなイメージを抱いたときです。
――なるほど。
住職:だから人によっては、「相手の人がこんな素晴らしい体感になるんだから、修行して仏さまの大愛を受ければ、いつか自分も同じように感じるに違いない」と考えます。
または、「与えたものは返ってくるんだから。与え続けよう」と思います。
その他、「こんな素晴らしい体感なら、自分も人にも与えるようになりたい」と志を持ちます。
――それは素晴らしいことですね。
住職:でも、すべての人が、そのような志に目覚めるとは限りません。
いくら自分のイメージによって、他の人が幸福を体感しようと、それが修行する動機とはならない人もいます。
――なぜなのでしょう?
住職:他者を救うための大乗的な修行の志は、“何かを得る”ことでなく、“他に与える”ことが動機となって、はじめて生まれてくるものだからなんですね。
――なるほど。
住職:でも、真に豊かで意義深い人生を開くのは、人に良きものを与えるという人生観です。“幸運な喜びあふれる人生はそこから始まる”という「逆転の宇宙的真理」に、ぜひ目覚めて欲しいと思いますね。
―続く―