往生要集(上)/第22回 無意識は自分が未来にどうなるかを知っている

無意識は自分の未来を知っている(往生要集 P140~)
法話ライブ at 東京道場 2013年3月16日
法話:遠藤喨及 


動画URL
https://www.youtube.com/watch?v=HCdJYTvlncA

1000年前の質問も今とあまり変わらない
P140からは、「極楽の証拠を出してこよう」というところです。
証拠と書いてありますが、現代の刑事ドラマに出て来る「裁判の証拠」などというは話ではないんです。(笑)
証(あかし)という意味なんです。
今使ってる言葉と、昔使ってた言葉では、意味が違ってるものが多いですね。
証拠って言うと、「このDNA鑑定の結果が、、、」とかをイメージしそうですけど。
この本が書かれたのは、約1000年前ですが、当時は、
弥勒菩薩に対する信仰と、阿弥陀如来に対する信仰とどっちがいいか、
という議論があった時代なんですね。
それで、以下のように質問されています。
「いろんな名前の極楽があるじゃないか?
なのに、なぜ西方浄土という阿弥陀様の浄土だけ勧めるんだい?」
「なぜ、十方にいろんなお浄土があるのに、極楽だけを勧めるんだよ?」
「兜率天(とそつてん)にいらっしゃる弥勒菩薩の信仰じゃだめなんですか?」とか。
今で言ったら、「なぜ阿弥陀さまなんだ?
名前なんて、”宇宙”だって”一者”だっていいじゃないか?
神さまだっていいじゃないか? なぜ狭く阿弥陀如来に限定すんだよ? 決めつけてるんじゃないの?」みたいな感じですかねー?
そう思うと、1000年前も今とあんまり変わらないのかな?
読むのに5年かかる一切経
ここに「中国の天台大師という方は、15回に渡って全部のお経を読んだ」だとありますが、
ちょっとホントかな?とは思いますね。ワルいけど、、、。
というのは、一切経と呼ばれるものが、全部のお経です。
それは、お経の全部と、戒律について書いてあるのと、
それらのお経について、いろいろ解説したもの。
いわゆる「経、律、論」で、これを合わせて一切経と言います。
それら全部を読むのに、朝から晩までひたすら読んでも、
5年かかると言われています。
もしかしたら、「経」だけ読まれたのかな?
だって、1回5年かかるのに、15回読んでたら75年ですからね。
法然上人は5回、日蓮聖人は3回読まれた。
弁栄上人は求聞持法(ぐもんじほう)という、密教の修行をされたので、
どんな本でもバラバラっと読んで全部覚えちゃう。
それでも全部読むのに3年かかりました。
15回読まれたというのは、
もし仮に1回3年で読んだとしても、45年ですからね。
うーん、ちょっと考えにくいですね。
あるいは、「経」の部分だけかもしれませんが、それでもすごいなぁー。
何と言ったって、お経はたくさんありますからね。全部で5700巻とか、、、。
我々が知ってるのは法華経、無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経、その他、維摩経、華厳経・・
この往生要集を書かれた源心さんも、全部のお経を読まれたわけです。
それで、「このお経にはこう書いてある」と、全部覚えてて書いています。
いやー、すごいなー。
とにかく「天台大師は一切の経論を15回読んだ。
その上で、極楽浄土を勧めているんだ」と書いてあります。
セックスについて説いている理趣経
この本を書かれた源信さんは天台宗の方ですが、
天台宗には基本的に中心になる教えが二つあって
法華経、それから念仏です。
ただ、天台宗は総合仏教を目指したので、禅も入っているし
あとには密教も取り入れています。
天台宗を創設された最澄さんと、同じ頃に中国に行った空海さん。
最澄さんは国に認められて、すごく丁重に扱われて、
向こうから沢山の経典持ち帰られたんですけど、
密教だけは、うっかり抜かしちゃったんですよ。
空海は、もっぱら密教。
しかもなおかつ、インドから伝わった密教の2系統の両方とも、
恵果というお師匠さんから、特別に全部授けられてきたんです。
だから超天才ですよ。
だけど国に認められて行ったわけじゃなかった。
あとで最澄が、「あっ、密教忘れちゃった!」という感じでね
それで空海に、「弟子にしてください」と、言うんです。
書いてあること読むと、最澄は本当に純粋な人です。
自分のことを「愚の中の愚」って堂々と書いている。
一派を開くような人って、普通と違うっていうか、純粋さが徹底しているんですね。
純粋さとは、徹底して自分に厳しいということです。
みんな、そういうところがあるんですね。
それで空海が、「いいですよ。頭下げないで下さい。経典も貸しますから」ってね。
はじめは快く応じた。
仏教の伝授法というのは、
「面授」、つまり直接対面して教えを授けられるというのと、
「筆授」といって、経典などの書いたものでもって教えを授けられる、
という2つがあって、
最澄はどっちかというと、筆授なんですよ。
空海は直接、恵果と、ものすごいやりとりの中で伝授された「面授」なんですよ
最澄は「経典貸してください」って、どんどん借りて密教の勉強をする。
でも最後に空海から、「これだけは絶対ダメだ」て言われた経典があった。
それは、理趣経という経典。
これには非常に微妙なことが書いてあります。
微妙なことっていうのは、
「妙適清浄句、これ菩薩の位なり」。
妙適ってなにかっていうと、セックスのことなんですよ。
セックスは清らかであり、これは菩薩の位であるという、
そういうことがいろいろと書いてある経典なんです。
理趣経は 大乗仏教のすべてを逆転して書いているんです。
般若心経の書いてあることも、全部逆転させている。
般若心経に、「無眼耳鼻舌身意」っていう部分があるでしょう?
そういうのも、全部逆転して書いてある。
例えば、「目も菩薩の位」である、と。
でも、般若心経は「目は無い」と否定するでしょう?
密教では、目で見るものも菩薩の位である。
耳で聞く対象も、、、、全部が菩薩位だ、と。
般若心経で、「これは実体のない、空である」と説いているものが、
全て菩薩である、と。
そういうふうにね、逆転の発想で説いてあるんです。
もっとも大乗仏教そのものが、すべて逆転の発想ではあるんです。
例えば、維摩経という経典なんかでは、
「煩悩はそのまま菩提、つまり悟りである」と書いてある。
それは、
一切の相対性を超えた時には、すべてが悟りでしか無いからです。
つまり、「これは良くて、これは悪い」というふうに
自分の価値判断があってものを言ってる時には、
それ自体が「迷い」で、煩悩なんですね。
だから「相対性を越える」ということの意味が分かるのは、
やっぱり修業によって、体の触覚ってのが
消えていってからなんです。
そうでないと、人間はどうしても触覚を基本にして、
全部、相対的にものを考えますから。
これは指圧でも何でもそうなんだけど、
触覚って、あるかぎりはね、
絶対に自分と人は分かれたものでしかないんですよ。
触覚を超えて、初めてその奥にあるものが顕われてくるんですね。
その奥にあるものこそが、本物というか真実の実相なんですよ。
人生のスタートラインは、本当はそこからなんです。
そこに至って初めて、
それまでは、相対的に捉えて「否定すべきだ」としていたものが、
実は「そのままでOK」っていうふうになっていくんだけど、
これは、ちょっと説明しがたいところですね。
最澄さんは、自分の一番の弟子を
空海に弟子入りさせて、その弟子が空海から学んだものを、
天台宗の中に取り入れようとしたんだけど、、、、
その弟子が空海に弟子入りしたまま帰ってこなかった。
「帰って来てくれ〜」なんていう悲痛な手紙を何通も出しています。
もうメンツも何もなくて、まるで自分を捨てた恋人に対するラブコールみたいな手紙です。
いや〜、なんていっても、最澄さんにしても、
相当の「いっちゃっている人」ですよ。
例えば、十二年間の籠山行なんていうシステムをつくる人でしょう?
だから今でも天台宗には、十二年間山にこもって、
誰とも口聞かない生活をする修行があるんですよ。
千日回峰行だって、あれも天台宗でしょう?
最後は、九日間飲まず食わず寝ずですからね。
天台宗には、昔からそういうのがいろいろと、
修行のシステムとしてあるわけです。
その他には40日間、阿弥陀様の周りをずっと念仏唱えながら立ったまま歩くとか、
そういう、命がけではまるという感じの修行があります。
これは40日間、横になって寝れないんです。
気がついたら寝ながら歩いている。
すると途中からは、まるで極楽を歩いているようになる、と聞きます。
親鸞なんかもやったんでしょうね。
みんな天台宗にいましたからね。
法然上人、親鸞上人、日蓮上人にしてもね。
臨済宗の栄西もそう。
道元は、また別なんですけどね
お釈迦さまが疑いを晴らす
P138
(本文)諸仏の浄土・・・
ここで書いてあるのは、
「いろんな仏様が、いろんなお浄土を説いているのに、
なんでまた西方極楽だけを勧めてるんだ」、と。
こういう質問に対する答えです。
そこで「随願往生経」というお経に、
お釈迦様が「この疑いを晴らす」と言ってます、と。
ところで、必ず「何々経に書いてます」とお経を”証拠”として出てくるでしょう?
これは、必ず経典のどこに書いてある、ということを根拠にして、
法を説くっていうのが、仏教の伝統だからなんです。
経典から離れたら、それは嘘だ、というのが仏教の基本なんですね。
それで必ずお経が出てきます。
日蓮上人にしても、道元禅師にしても、法然上人にしても
必ず、このお経のどこに、こう書いてあったから、これで道を立てる、というようにね。
信仰は、心の気前の問題
(本文)
「娑婆世界には、貪濁(トンジョク)多くして信仰するもの少なく」
人の住んでる世界には貪濁、
ようするに、心が貧しいというか、せこくて気が汚れてるのが多い
そもそも、気前がいい方が、気は明るいじゃないですか。
なかなか気前が良い人が少なくて、なかなか信仰に向かう人は少ないんだ、
ということです。信仰は、心の気前の問題でもありますからね。
存在の根源は、歓喜、喜び、まさに極楽
(本文)邪を習うもの多くして正法を信ぜず
邪を習うというのは、
たとえば、
「これ信仰したらお金儲かりますよ」とか、
「念力がすごいから、あの人についていこう」とか、
「物を動かせる」とか「空飛ぶらしい」よとか、
そういうことを信じて行じる人たちは、昔からいたわけです。
そういうのを、「邪を習う」と言います。
最近のスピリチュアル系で言ったら、「超能力」とか、
「瞑想します」みたいな感じですかね。
瞑想そのものは悪いもんじゃないですけど、
ただ、「瞑想する対象は何なんですか?」という問題なんです。
つまり、目的は何なんですか?
ただ単に「自分のなにかをクリーンアップする」とか
そういう動機でやる瞑想なんですか?、と。
そもそも瞑想といったって、
「宇宙って、モノなんですか?」ていうツッコミを入れたくなりますよね。
というのは例えば、
瞑想の対象が空で、本尊として拝む対象が、何もなかったとします。
そして、ただ自分が、「やすらぎの世界に浸ります」とかいうことなら、
「じゃあ、宇宙はあなたにとって何ですか?」
「宇宙は物だ」と思うんですか? それとも宇宙は心なんですか?
もし心だったら、宇宙はどういうものに象徴されるんですか?
その対象を前に考えなければ、
瞑想が自己愛の延長になるんじゃないですか?
とかのツッコミを入れたくなりますよね。
経典で言っている「正法」というのは、
真に修行する人が、自己愛を超えて、
まさに宇宙生命としての使命を、
全うできるようにするものです。
それは、外から規定されるものじゃなくて、
何かを得ようとするものでもなく、
真の存在の根源がはっきりとして、
自分のいのちが帰っていく道筋、存在の根源がはっきりするものなんですよ。
存在の根源は、浄土ですからね。
存在の根源が何もなかったら、人生つまらないでしょう?
存在の根源は、歓喜、喜び、まさに極楽なんですから。
それがなくしては、自分が存在していることを喜べない。
そこに至る道筋がはっきりつけるもの。
それが正法なんです。
まただからこそ、お釈迦様の教えは、
たとえ2500年たっても尊ばれるんです。
それを、「仏の教えはただ空です」とか、
「何もないと思ったらいいんです」とか、
「欲望を捨てたらいいんですよ」とか、
「何も考えないようにすることです」、
「お母さんお父さんを大切にしましょう」なんていう、
つまらない教えにしてはいけない。
仏の教えは、そんなツマラナイものなんかじゃないんです。
存在の根源が歓喜であり浄土であり、
そこに目覚める道筋を自らが創るものなんですから。
そして、何か一つの本尊に対して心を集中しなければ、
心が乱れて、本当の根源に帰る道筋は創れないんです。
デパートに行って商品を選ぶみたいに、いろんな瞑想のテクニックやら、
あの神様もこの神様も拝んで、今日は瞑想して、でもときどき念仏して、なんてやっていたら、それで真の根源につながれるかというと、無理ですね。
なぜかというと、
真の目覚めは宇宙大霊との霊的な愛情関係から生まれるものだからです。
宇宙っていうのは、すべてが作用と反作用です。
だから女性が、「あの人でもいいけど、一応今はあんたとつき合う」って男性に言われても、「いいわよ」なんて言って、つき合わないでしょう?(笑)
それでも、つき合う人がいるかもしれないけどね。
サンガの女性のみなさん、是非プライドを持ってくださいね。
「お前じゃなきゃ」と言われてつきあうならいいけど、そうでなかったら、ね。(笑)
男女関係も、作用と反作用だから
「お前だけよ」、「あなただけよ」、で関係が成立するのです。
そしてこれは、霊的な世界でも同じです。
「わたしの本尊は、阿弥陀様じゃなければ」というのがあって、
はじめてその反作用として、「自分は阿弥陀さまに愛されている、」という実感がわいてくるものなんです。
でも、最初からストレートにそう思えない場合には、
どうしたら良いかというと、
一切に対して祈る。責任をもって祈る。
一時間、一切に対して責任をもって、集中的に祈りながら念仏できたら、
それはまさに菩薩の心ですから、その心に如来様の心が宿ってくる。
そうすると如来実在の実感が生まれ、「あーそうか」と、経典で説かれていることすべてに納得します。そういう時が来ます。
自分がそういう「阿弥陀如来さまだけ」という思いだったら、
その反作用として、
そういう如来という存在がいて、
「自分のことをかくまでも思ってくれる」そういう実感が湧いてくる。
それで初めて、信仰が芽生えてくるんです。
そういう段階を踏まなきゃ信仰に目覚めない人もいます。実感できないから。
でも、弁栄上人とか、ラーマクリシュナとか、フランチェスコみたいに、
最初から「往っちゃう」、霊的にいけいけタイプの人もいます。
それはまあ、いろいろだと思います。
いずれにしても、作用と反作用で考えたら分かるでしょう?
宇宙大霊との霊的な愛情関係は、「とりあえず一応、今は宇宙とでも呼んでおこうか」・・みたいな冷た〜い感じだったら、
その反作用としては、愛情のないツマラナイ関係になりますね。
ぜひ霊的にも、阿弥陀さまと相思相愛、また人間界でも誰かと(笑)、相思相愛の関係になっていただきたいと、
そう思いますよね。
如来さまに大愛されている、という実感は、限りない安堵感、心の平和を生みますからね。
自分の本尊を1つに決めないと、たましいは向上しない
(本文)「実には差別なけれども」
この意味は、極楽浄土や寂光浄土など、名前はいろいろあるけど別ではない。1つである。
別ではないけど、ひとつに決めないと進まない。
これは大霊に、阿弥陀如来、大日如来、エホバなど、いろいろあるけれど、本来1つのお方である。
1つではあるけれど、自分の本尊は1つに決めないと、たましいは向上しない。
まあこれは女一般、男一般といろいろあるけれど、一人と付き合わないと
相手と心からのつながりは持てないのと、一緒です。
君はステキだ! と讃嘆する
(本文)この上に・・
「だから極楽浄土を賛嘆するんだ」と書いてあります。
ビートルズのラブソングを聞いたって、みんなそうじゃないですよね。
どれも1人の女性に対する恋愛感情を歌ったものであって、
「女性ならみんなスキ! 誰でも!」という歌詞はないですよね。
恋愛感情って、1人に対して起こるものでしょう?
そして、君はステキだ! と讃嘆する。
まあそんな意味です。
大霊と繋がるから浄土に往生する。
(本文)諸々の・・・
それによって、初めて大霊と繋がれるから、
浄土に往生する。
次の質問でね、
(本文)その心をもっぱらに・・
「一つの心に集中させるために、阿弥陀さまの極楽浄土を信仰する」と
言っているのに、
「なんで阿弥陀の極楽でなきゃだめなんだ?」と、としつこく聞いてくる人がいる。
この箇所は、そういう質問に対するものです。
読んでいて、「もう、いい加減素直にやれよ」とか言いたくなるけどね。
でもこういう人って、昔からいたんですねぇ。
タオのクラスでも、たまにありますね。
「何で仏さまでなきゃだめなんだ?。神さまだっていいじゃないか。」
って、、、。源信さんも人々に念仏勧めていて、
こんな質問よく受けて、いろいろ大変だったでしょうねぇ、、、。
そこで、「他の浄土を勧めたところで、
結局は同じ問題が出てくるじゃないか」と答えている。
とにかく、お釈迦様がこう言ってる。その霊的内容は、
我々の想像を超えているんです。
今の私たちの心境ではわからないことがほとんどです。
同じ風景が見えているわけではないんだから。
なのに、「あれがいいんじゃないか。これがいいんじゃないか」と考えている。
自分の頭で考えたらわかるなんていうのは、単なる思い上がりに過ぎません。
果たして一体、そんな暇があるのか?
そんなこと考えていたら、あっという間に寿命が来て、人生が終わっていく。
そんなヒマがあったら、根源に帰る道筋につながりなさいよ。
だから他のことを考えない。浮気しない(笑)
まあ、そういう意味なんです。
無意識は自分が未来にどうなるかを知っている
<P140についての解説>
大金持ちとか、そういった人たちは
お金があるから何でも自在にできる。
インドのマンゴー食べたいから、自家用ジェットで行くとか。
マジにそんな人たちっている。
しかし生病老死を免れることは出来ない。
「仏の教えを信じられるかどうかは、
カルマ的に大きな意味がある」と、ここに書いてあります。
「もし仏の教えを信じられなかったら、
来生とか来々生とかにおいて、
たとえ人になれたとしても、
非常に貧しい生活を歩むことになるかもしれない」
そう書いてある。
これはどういう意味か?
人間として生まれたのは、たましいを向上させるためです。
動物にはこの務めはないです。だから動物の気は重くないんです。
動物と一緒にいると健康に良い、と一部の西洋医学が勧めるほどです。
でも人間で、霊的な向上を人生の目的としていない人の気はどうか?
重苦しいですよね。いつもみなさんが、気のワークで体験されているように。
それはその人が、「霊的向上」という、
人間としての務めを果たそうとしていないからです。
「気が重い」というのは、カルマを作っている、ということです。
人間として生まれながら、その務めを果たさず、
気が重いまま人生を終えたら、次にはどんな生を受けるのか?
動物として生まれるというほど、そのカルマが重くなければ、
動物には生まれないでしょう。
でも、人間に生まれた目的を果たさなかったら、
前の人生を反省するために、
苦しい人生を歩むことになるよ、
そういう意味です。
ここで、誤解のないように述べておきます。
今現在、苦しみの多い人生を送っている人が、
過去において、そういう重苦しい気を出すというカルマを作っていたか、
というと、必ずしもそうとは限らないんです。
それは、他の人のカルマを背負って、
菩薩的な苦しみの結果である場合だって、ままあることですから。
でも今の人生で、人としての務めを果たさず、
重い気を出したままで終わっては、来生を心配しなさい。
とまあ、こういうことが書いてあるんですね。
だからみなさん、人間として生まれた目的に、
本当に目覚めている必要があるんですよ。
未来というのは、生きている間だけではないです。
死後、来世も含めての未来ですからね。
「気が重い」というのは、
自分の無意識が未来にどうなるかを知っている場合に、
重くなるのですから。
もし今回の人生で信じられるのなら、、、
さらにこのページには、
「お浄土の世界に生まれるって、往きやすいんだ」とあります。
なぜ往きやすいのか?
それは阿弥陀さまとの愛情関係に依るものだからです。
つまり人が、一度(ひとたび)、本当に心を開いて、阿弥陀様に向かった時、
その人に対して、阿弥陀さまからの全分の愛情が行くわけ。
カルマなんか、全部飛び越えちゃうんです。
もう何から何まで、他のことはどうでもいい。
今まで何をやっていたか、というのもどうでもいい。
阿弥陀さまはそう想って接して下さる。
これならば、「往きやすい!」
法然上人は、そこを説かれたんです。
その人がどれだけ修行したかとか、
良いことをしたとか、悪いことをしたとか一切関係ない
阿弥陀様の慈悲に本当に心を開いたら・・
阿弥陀さまは全分の愛情をもって摂め取って下さる、と。
そうやって念仏の道を開かれたのが法然上人なんです。
これはイエス様も同じですね。
ユダヤ教はガチガチの戒律宗教です。
法然上人以前の旧仏教も、ガチガチでした。
修行と学問しないとダメだ、と。
それに対して、阿弥陀さまへの、また神さまに対する愛情一つで、
その世界につながれる、浄土や天国につながれる。
そういう世界を開かれたのが法然上人であり、イエス様だったのです。
どちらも本当にありがたい教えです。
もし法然上人がいらっしゃらなかったら、
我々は、こういった仏教の世界につながれない。
浄土につながるチャンスは得られなかったでしょう。
難しい学問をして修行しなかったらだめだって言われたら、
とても、現代社会に生きながら、
お浄土の世界につながるなんていうことは、できないでしょう。
また、イエスの教えがなければ、
ユダヤ教のガチガチの不自由な世界に生きることになる。
ガチガチのユダヤ教の女性なんかは大変ですよ。
生理の時は隔離されたりとかね。
イエスは、そういうのは、全部必要ないと説かれたんです。
人間のために戒律があるのであって、戒律のために人間があるのではない、と。
本文には、さらに以下のように書いてあります。
「せっかく人間として生まれ、
存在の根源が浄土であることを聞き、
無限の喜びにつながる念仏という道がありながら、
それを無視して、「瞑想します」とか、「空です」とか、
色んな邪道に行く人達がいる。
そういう人たちは、目や耳がない人たちであって、
せっかくそういう機会を頂いても、目を閉じてしまって、
せっかくそういう繋がれる道があっても聞こう(歩もう)としない。」
お釈迦様は、お経の中で言っています。
「こんなにいいことがあるからね。だから私は、これを言わざるをえない。
どうにかして、こんなに良いこと(如来の大愛=お浄土)を頂いて欲しい」と。
もし今回の人生で信じることができるなら、
まさに願いを起こして、お浄土という根源の世界に生きるようにしようじゃないか」
お釈迦様は、阿弥陀経の中で、そうおっしゃってるんですね。
お釈迦様が、ほんとうに丁寧にこうまで言われるのだから、
私たちは、ただ仰いでそれを信じるしかない。
「自分の今の境地で推し量れることなんて、たかが知れている」
そう謙虚に思い知ることさえできれば、良いのですけどね。
「“こういう世界がある”ことを聞ける縁が、せっかくありながら、なぜ拒むのか?」
、とも書いてあります。
きっと胸が痛くなるほど、
人には、根源たる浄土の世界につながって欲しいって、そう願っているんでしょうねぇ、、、。
縁がなかったら、法に、こうした道に触れる機会はないですからねぇ、、、。
(合掌)