仏教の教科書なんて、ひっくり返せ!
法話ライブ at 京都道場 2016年1月23日
法話:遠藤喨及
動画URL
https://www.youtube.com/watch?v=vpOaJHISW7Q
(1)四諦ってなんだ?
今回は、お釈迦様が次に説いたので有名な四諦(したい)!
さて四諦とは何でしょう?
次の四つを言います。
1)苦諦
2)集諦
3)滅諦
4)道諦
「諦め」という言葉が四つも出てくるので、なんか暗いイメージがありますね。
でもこれは、明らかにすることで、「悟り」という意味なんです。
諦観という言葉も、何だか“諦めました、、、”というふうに解釈されてしまっていますね。でも、これも悟りの別名なんですよー。
●苦諦
前回の法話では、「一切皆苦」という、“存在が全て苦しみである”という話をしましたね。これはお浄土が予感されている人だからこそ、何となく感覚的に理解できるんです。
まあ、苦しみに対する感受性、と言いますか。温泉の気持ちよさを知っているからこそ、寒いところにいたら辛いと思うようなものです。
例えば氷河期に生きていて、暖房がなかったら寒いのが当たり前で、特に寒いとか辛いとかは感じないでしょう。
それと同じですよ。浄土の気持ちよさとかを無意識に知っちゃっていると、人間界で生きることを辛い、苦しい、全部苦しみだ、と感じるようなものですね。
つまり、気持ちいい、素晴らしい状態がある、となんとなくわかっているからこそ、“人生こんなはずではない!”という気持ちが生まれ、“修行しよう”、”霊的な方面に行きたい”と、思うのですね。
今言った”行く”というのは自分の場所が変わるのではないです。
自分の心が開けばガラッと心身共に明るく変わる。
それが霊的な方面に行くということです。
弁栄証人が念仏三昧に入ったとき、“過酷な修行で苦しかった状態が、心身ともにパッと極楽にいるような暖かい喜びの状態になった。苦しみが一切なくなる状態が生まれた”という言葉があります。
エックハルト(中世のキリスト教神秘家)も“神を体験したその瞬間に、それまでどれほどの苦しみを味わったとしても、全く意に介さなくなるほどの喜びがある”ということを言っています。
比叡山で阿弥陀様の周りを90日間歩き続けるという修行があります。
90日間横にならない。多分仮眠は、手すりに寄りかかってとるのでしょう。
しんどいなんて通り越していることでしょう。
でも、途中で極楽浄土を歩いているような感じになるそうです。
人間の脳内麻薬はモルヒネの6.5倍の鎮痛作用があるらしいですからね。
それが自由にコントロールできるようになったら、あるいは常に全開になったら、喜びどころの騒ぎではないでしょうね。
それで、「手の舞い足の踏む所を知らず」、歓喜勇躍という言葉がお経によく出て来るんです。
経典には、“お釈迦様の説法に「歓喜勇躍した」”という言葉が出てきます
お釈迦が歓喜光をバッと出して、みんなの気を盛り上げたんでしょうね。
その他、「お釈迦様の説法で500人が悟った」とか出てきます。
ただ言葉だけを聞いても誰も悟りませんよね。
だって、言葉で悟るなら読めばいいだけの話ですから。
もっともお釈迦様の時代は、文字が普及していませんが。
お釈迦が威神力で無量光を聴衆の心身に浸透させ、
修行している人々に悟りの起爆剤を与えたのでしょう。
さて四諦の以下の3つ。
苦諦:人間の存在は苦しみ
集諦:苦しみの原因は何か
滅諦:苦しみを滅した状態。これはお浄土、ニルヴァーナです。
滅というのも”陰々滅々”とか、暗いイメージがあります。
でも滅は、極楽浄土なんですよー!
(2)「四苦八苦」って何さ?
さらに苦諦の内容として、四苦八苦があります。
ドラマなんかでよく聞くじゃないですか、
零細企業の社長さんなんかのセリフ。
”いやー、資金繰りで四苦八苦していますわ”、なんて、、、。
あれホントはちょっと意味が違いますけどね。
最初の四苦。生老病死です。
存在が苦しみである。
老いることが苦しみである。
病むことが苦しみである。
死ぬことが苦しみである。
存在がない状態を「死」と言います。
存在がない状態から「生」が生まれる、と循環している。
病というのは病気という話ではなくて、「病み=闇」でしょう。
要するにカルマということです。
カルマを持っていなかったら、人間としては生まれていませんからね。
我々は、カルマを引き受けて生まれているのです。
だから生きることが苦しみなんですよ。
生老病死を、ただ教科書的に、「この四つが苦しみです」って読んだって、
なんだか仏教が非常につまらないこと言っているように感じてしまいません?
ああ、そうだから何だよ?、って。
だから少し深読みしましょうよ。
だから、ここで出て来る「老い」ですが、
老いとは何かを分析したら面白いでしょうね。
実は、他の人、世間一般が言うことを正しいと思うこと。
それを「老い」と言うんです。
だって世間一般って、正しくないことがほとんどじゃないですか(笑)
それを信じるのは心がモウロクしたからだ。
「王様が裸だ!」って指摘したのは、モウロクしていなかった少年だけでしょう。
年齢という数字でもって人を規定するのは、世間カルマですよ。
“何歳だからどうだ”というのは世間が規定していること。
それにのっとられることが「老い」なんですよね。
禅で有名な澤木興道さんの弟子で面白い人がいました。
少し知的障害がある人と友だちになって
朝一緒に散歩して、お寺の掃除をしたりしていました。
一度病気になって寝ていた時に、その知的障害の友だちが突然寝床に来て、「お前病気か、、、」と心配そうにじっと見られたら、涙が出そうになって慌てて隠した、というエピソードがあります。
その知的障害の人は、「絶対に人の家に上がってはいけない」と、とても厳しく言われていたらしく、どんなに手を引っ張って誘っても、絶対にお寺には上がらなかったそうです。
それが突然、寝床までやって来たのです。
きっと、相当心配して矢も楯もたまらず、我を忘れて夢中で寺に上がって寝床まできたに違いない、そう思って涙が出てしまったそうです。
その友達はいっちゃんという名前の人ですが、「いっちゃんはいくつか?」と聞いたら「そんなことわかるけぇ!!」と返事した、と書いてありました。
自分の年齢も知らなかった、いっちゃん。
年齢なんて世間が勝手に決めること。
だから、それくらいでいいのではないでしょうか。
次の4つの最初は?
●怨憎会苦
自分の嫌いな人、憎んだ人と会う苦しみです。
これも通常は、世間的な意味に解釈してしまいますけど。ね
「嫌な上司がいるでしょう。その人と会う苦しみですよ」とか。
でもこの言葉の本質は、そういうことではありません。
外に見える嫌なものは、全部自分の内側の投影です。
だから、それと向き合って打ち克ってく、というのが、
人間としての修行である、ということです。
人生で一番大切な心は何か?
それは克己心、己に打ち克つ心だと思います。
ちょっと偉そうな顔をしたくなるとき、克己心が無いと“偉そうな顔をしちゃったり”。
怠けてはいけないのに克己心がないから、“怠けてしまったり”とか。
自分に酔って、とうとうと話をまくしたててしまったりとか、、、。
無量寿経に「驕慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し」とあります。
驕慢とは“傲慢さ”のことです。
”弊”は世間の決まり事に、無意味に従うこと。
“懈怠”は怠ける心のことです。
面白いのは、この3つが実は同じだということです。
傲慢だから怠けるし、傲慢だから世間にしたがって、それを後ろ盾にする。
一見関係ない、「傲慢さ」と「怠け心」と「常識を笠に着る」が、同じことだと見抜いているお経って、やはりすごいなと思います。
だから「怨憎会苦」は、自分の内面のエゴと、どう向き合うかという話なんですね。
キライな上司がいるでしょう? みたいな話でも、その人は、もう1人の自分。
だから、それとどうつき合うのか? というのが、人生で如来さまにアレンジされているんですね。
●愛別離苦
一般的には愛する人と別れる苦しみ、と解説され、そこで話が終わってしまいます、、、。
教科書的読み方って、仏教にとっては残念ですね。
基本的に人間は、常に現状維持したい。
でも存在に現状維持はない。
時間が経てば、あらゆるものは劣化する。
いつまでも生きてはいない。
でも人間は現状維持したい。
そこから離れる苦しみ、現実を知る苦しみ。
それが、愛別離苦なんです。
さてキリスト教で愛は、神の愛と一つです。
が、仏教では愛に二つの意味があります。
一つには渇愛。
無明の原因は何か、渇愛である、求めるてやまない心、であると。
求めることが苦しみの原因である、と。
まあ非常にネガティブな意味です。
執着心のことを愛(渇愛)と言うんですからね。
もう一つの意味。
愛語とか大愛とか、ポジティブな愛もある。
仏教では、両者を分けて使っています。
愛別離苦は、「現状維持の執着を離れなければならない」。
我(エゴ)にとって変化は、苦しみである、ということです。
生老病死、人間の一生は変化です。
常に現状を離れなければならない。
これは我にとって苦しみなんですね。
●五蘊盛苦
これは、感覚がある事自体が苦しみである、ということ。
人間の持っている触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、ぜーんぶ渇愛と表裏一体なのですから。人間とは、存在自体が苦しみで、自己存在認識は、五感から生まれるのです。
人間の五感の元である、眼耳鼻舌身意に対して、
天上界の天眼天耳天鼻天舌天身天意、
お浄土の佛眼佛耳佛鼻佛舌佛身佛意があります。
人間の眼耳鼻舌身意は、苦しみと表裏一体です。
でも、佛の佛眼佛耳佛鼻佛舌佛身佛意には、喜びだけがある。
●不求得苦
教科書通りだと、”求めることが得られない苦しみ”になります。
これも逆転して考えると面白いですよ。
だって、人間界で求めるものが即座に全部得られたら、
人生面白くもなんともなくなりますから。
昔話でも映画でも、主人公がハラハラドキドキして最後までダメかと思いきやうまくいく、そんなのがあるから面白いじゃないですか。
”人間界では、全部すぐに得られたら、かえって苦しみになる。それにもかかわらず求めて右往左往する”。これが「不求得苦」です。
お釈迦様が四苦八苦の教えを「ポンポン!(?)」と出されていますが、
いくらでも深読みできる内容で、面白いですねー。
苦しみの原因は何かというと渇愛だと。
無明の原因は渇愛である。
無明はカルマ。
明は諦と同じで「明らか」ということ。
(3)無明って何?
人間には、本当に狭い限定された認識しかありません。
自分の我からしか世界が見えていません。
これはまさに無明なのです。
そう思っていないだけで。
自分という存在は、宇宙一切全体の顕れ。
にも関わらず、自分の側からしか世界を見れていない。
これは無明以外の何物でもありませんよ。
自分が真実だと思っているのと、実相は常に真逆なんです。
一切が一切に対してしか存在し得ない。
ということは誰も存在しない。
そして、、、?
さらに重々無尽の深い世界に往きます。
これがつまらないと思うかどうかは感性によりますが、
これってすごく面白い逆転現象なんですよ。
(4)般若心経のナゾ!
滅諦というのは、お浄土、涅槃の状態。
その道として、お釈迦様は八正道を説かれました。
でも八正道も、一般には誤解されまくっている言葉ですね。
普通は教科書的に語られてしまいますから。
それもまあ良いっちゃ良いのでしょうけど。
でもみんな、肝心な所を見落としていますね。
なんで肝心の謎を誰も気にもしないんだろう?
と思うけど、、、。
その見落とし、ナゾが何かというとね、、、。
だって般若心経では、無苦集滅道と言っているじゃないですか。
「苦・集・滅・道」は全部ない、と言っているのですよ。
「無い!」って否定しているのに、仏教者の皆さん、学者さんも修行者さんもお坊さんも、その意味を考えようともしない。
だからこそ、僕はひっくり返した解釈をしたんです。
「死」という、存在がないところから、我々は生まれてくるでしょう、と。
相対の中において、意識が外に規定されている事自体が闇、無明なんだ、
と。
そういう話をしたのです。
般若心経というか、大乗仏教では、四諦の全部を否定する。
滅諦もない、ということは「お浄土もない」ということ。
それは、「自分が思っているようなお浄土はない」ということなんですよ。
現実は常に、良い意味で期待を裏切るんです。
常に自分の認識している世界なんていうのは裏切られていく。
これこそまさに仏教者が体感しないといけないことでしょう。
それなのに、昔話を引きずっているみたいに、仏教が説かれているなんて、
お釈迦さまの精神に反しますよね。
現実が常に良い意味で期待を裏切るのは、世界を見渡せばそうだってわかるでしょう。
この中の誰が20年前に、今こんな風にインターネットで無料で世界同時に配信できるようになる、なんて思いましたか?
「ついに今ここまで来た」と思っているかもしれません。
でもこれがさらに10年後に世界はどう変わっていますか?
ネットによって人々の意識が相当変わりましたが、
20年後、世界の変化に応じて、我々の心の状態も変わっているはずです。
いわゆる人間界だけですらそうなんです。
人間界のポジティブな所は、お浄土の写し絵みたいな所がありますから、
新しい物がどんどん生まれてきます。
人間界は相対性の世界です。
だからポジティブなものが生まれると同時に、ネガティブなものも生まれてきます。
そのせめぎあいの中で、我々の心が深まっていく。
そういうふうに認識しなければなりませんね。
(5)八正道のさわりをちょっと、、、
八正道のさわりだけお話しますね。
八正道とは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。
●正見
仏教書を読むと「正しくありのままに見ること」とか、
そういう話になっています。
でも正見とは、弁栄上人の説かれた「一切認識知」のこと。
これは宇宙大霊の四大智慧から生まれるのです。
人間はカルマによって、自分を主体にして世界を見ている。
それで、ありのままの世界は見られません。
宇宙一切をそれ自体を主体として、同時に認識する知。
これを一切認識智、すなわち正見と言うのです。
正しく見る見ないなんていう、浅い話ではありませんよ。
そもそも正しいなんていう言葉は、仏教の精神態度じゃない。
なぜなら、”正しい”というのは、人によって違ったり、
時代によって変わったりするものです。
あらゆる相対性、時間性、空間性を超え、
なおかつ重々無尽の三千世界の一切認識智。
しかも全く留まることなく瞬間瞬間に無限に向上し続けるなかでの正見です。
これは正しい、正しくないなんていう話ではありませんよ。
●正思惟
宇宙一切の認識から生まれる思惟ですからね。
自分の側に立って何かを思う、という話ではありません。
凄ーく深い話なんですが、時間ないんでここまで。
●正業
正しいカルマ。といっても、それこそ宇宙一切認識知に立った上での「業」。
これは、どういう行動として顕われるかはわかりませんよ。
世間我は、”正しくない”と感じるかもしれませんよ。
臨済宗の臨済録という本を読んでいると、
メチャクチャに思える話がいっぱいでてきます。
たとえば、猫切りの話が出てきます。
師匠が弟子たちを集めて。「この猫に仏性があるかないか答えろ。答えなかったら切るぞ」と言って切ってしまったり。
で、道元さんに弟子が質問しました。
「このことはどうなんでしょう?」と。
道元さんは、”宇宙一切認識知から顕れてくることだが、そういうこと(猫切り)がしないほうが良いと自分は思う」と。
実際の道元の表現とはちょっと違いますが、
まあそんな感じのことをおっしゃいました。
その他、どこかに供養に行って、「草履に頭を載せて帰ってきた」とか。
訳の分からない話がいろいろ出てきます。
正しくないように感じるかもしれない。
けど、認識知から顕れてきた働きです。
世間から見ると何がなんだか分かりません。
僕も分からない。
でも、ずっと後になって分かるかもしれない。
※(「南泉斬猫(なんせんざんみょう)」
原文は、「東西の両堂猫児を争う、南泉提起して云く、道ひ得ば即ち切らず。衆無對、南泉猫児を斬って両断と為す。南泉、趙州に問ふ、趙州便草鞋を頭上に於いて戴いて出づ。南泉云く、もしなんじ在らば、猫児を救い得ん」)
ただ、猫切りの話は印象に残るでしょう。
「これが後世までずっと語り継がれて、人々が仏性について考える契機になる」としたら、そういう意味があるのかもしれませんけど。
●正命
お経に「命」と出てきたら「生活」というように理解して良いです。
でも正命とは、宇宙一切の顕れとしての生活です。
ただの身過ぎ世過ぎで、虚しく過ごすのとは違うでしょう。
皆さんに考えてほしい、思惟していただきたいと思います。
皆さんがまことの修行者であるならば、自ら法を説いていかなければならない。
そうでしょう。
でも「法を説く」というのは、言葉で説く以前に、
業で説く、念で説く、命で説くものなんです。
もちろん聞いた人が、如来様に触れるような言葉、予感させるような言葉であれば、
それは法を説いたことになります。
本当に人に如来様に触れて欲しいと思ったら
徹底的に思惟して、仏教を面白く、念佛を面白くしなければなりません。
ひっくり返さないと面白くならないじゃないですか。世間知を超えられないから。
だから般若心経には、無苦集滅道、無眼耳鼻舌身意と、それまでの仏教の教えをひっくり返して説かれているんです。
理趣経ではさらにひっくり返りますよ。
五感のすべてが、菩薩の位である。セックスだって、そうだ。
とまで言い切ってしまいます。
正見も正思惟も、借り物でない、
本物の生きて血の通ったものでないといけません。
だから教科書的で常識的な教えをすべてひっくり返して、
仏の教えを、現代に人生に生かすのです。
(合掌)