往生要集☆ 第2回 地獄を具体的にイメージする意義

法話ライブ at 京都道場 2013年10月6日

法話:遠藤喨及

書き起こし:たく

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最初はずっと地獄の描写が続くので苦しいですよね。

でも、我々が認識してないだけで今もあるわけです。

以下前回と重複してるので割愛します。

(地獄、餓鬼、修羅、天上界、お浄土まで全部どんな世界かって書かれてるわけですよね・・・スウェーデンボルグ協会というのがあって、今でもその一派というのがあるんです。)

地獄に行くと大変ですよね。

ここで語られていることをただの夢物語と受けとめることもできますし、霊界の事実と受けとめることもできます。

ポイントは何かというと、人はみんな物語を生きているということです。

いろんな物語がありますよね。

会社に入って何年に定年だから今から人生設計をこうしてとか。

子供を高学歴にしたいとか。

これまでの人生が辛かったからこれからも辛いだろうとか。

逆に、自分は世界をこうして良くしていくとかね。

みんなそれぞれの物語を生きています。

もし、イメージ力が強ければ、今ない世界のことも人生の物語の中に入ってくるわけです。

たとえば月に行くとか、新しい発明とか、そういう物語を持っている人が世界を作ってきました。

イメージを現実にしてきたわけです。

ちょっとイメージ力が強ければ、自分が死んだ後のことも物語に入ってくるわけです。

そういう想像力がないと、先のことは「ない」わけです。

そういう前提とともにこの地獄のことをどうとらえるか。これは日本文化の基礎なんです。

一番目の等活地獄が終わったので、次にいきます。

※等活地獄の四つの門の外にはこれに付属した16の地獄があり、以下で語られる「〜処」はそれらの地獄のこと。

イメージ力が強いとつらくて読みたくなくなってきますね。

14Pの6行目、まず屎泥処(しでいしょ)っていうのがあります。

言ってみれば煮えたぎった肥だめ。

前回も紹介したけど、地獄の光景の映し絵として現実の世界でも地獄に似た光景が見られることがあります。

中国の刑罰で豚の群れに落とす(生きたまま豚の餌にする)という刑罰がありました。

これは王族に謀反を起こすとか、そういう重罪に適用されました。楊貴妃がやったとか。

屎泥処でも手足を切って肥だめに落とす。

で、屎泥処に戻ると、味は最も苦くてくちばしの固く尖った虫がいて、罪人はその虫を食べるしかないんだけど、それがもう体の内側から皮も肉も骨の髄も破ってこっちが逆に食べられてしまう。

そこまでしないとカルマが落ちないということでしょうね。それが屎泥処。

いろんな地獄の世界が書いてあって、たとえば、鹿や鳥を殺したらこの地獄に落ちるとか書いてあります。

なんのためにそんなふうに書いてあるかというと、実際その通りかというよりは、そんなふうに具体的に書かないと身近に迫ってこないからでしょう。

その次は刀輪処(とうりんしょ)。

熱いところですね。(猛火がくまなく燃え盛っているところ)。

その火の熱さときたら人間界の火が雪ぐらいに感じるほど熱い。

人間界でお湯は100度と限界があるけど、地獄だともっと際限なく熱い。

地獄は焼かれたり、いろいろひどいめにあいますが、死んでもそのあとすぐ生き返ります。

ちょっとその火に触れると、熱すぎて体が粉々に砕けるほど。

また、灼熱の鉄や刀が雨のように降ってくる。

刀でできた林があって諸刃で(両側に刃がついている)みんな耐えられないほどの思いでいる、と。

こんなの平気な人はいないですね。

次は、瓮熟処(おうじゅくしょ)。獄卒が瓮(かめ)のなかに人を入れて豆を煎るように煎る所だと。カルマ落としのために。

次は、多苦処(たくしょ)っていうのがあります。苦しみの多い処と書きます。

千百億の無量の苦しみがある。人間界の苦しみは四苦八苦ある。地獄の苦しみは一千億もあって詳しく説明できません、と。

人を縄で縛って遠くに追いやって崖から落としたり、子供を煙でいぶって殺したりした人がここに落ちると。

昔、元寇ってのがあったでしょ。

種子島に上陸されて、子供たちは手に穴あけられて縄で結ばれて連れて行かれた。

昔は侍は「我こそはどこそこのなになに」なんて名乗り合ってから紳士的に決闘みたいに戦ってたけど、モンゴルは騎馬民族で文明も発達してたから、そんなの通用しないし、ロケット弾かなんか飛んできてすぐ負けちゃう。で、子供はそういう悲惨な目にあった。

※元寇:鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国でである高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻。

その次、暗冥処(あんみょうしょ)。

暗いところにあって、とにかく岩でも砕いちゃうような熱風が吹いているところ。

具体的に書いてあるところが面白いです。

羊の口を塞いだり、二つの瓦の間に亀を挟んで殺したらここに落ちるとかね。

たぶんこんなのだけじゃないと思います。

具体的に書かないと身に沁みないから書いてあるだけで。こんなことする人いるのかと思うけど、屠殺する時にそんなこともあったんでしょうか。

亀についてはぼくは非常に罪悪感ある。子供の頃、亀を飼ってたら冬眠したんだけど、亀が早く起きちゃったんです。

まだ寒かったから、「まだ寝てなよ」といってそのまま忘れてたら一週間ぐらいして死んでいました。それですごい罪悪感を感じました。

別につぶして殺してないけど、子供の頃の虫殺しとか全然罪悪感がなくなりません。

人に言ったら「きみ、おかしいんじゃないの?」って言われたけど。

ぼくはそういうのが全然消えない方です。

だから自分の子供には「絶対虫を殺すな、それだけは駄目だ」と言いました。

ほかのいたずらとかは気にならないけど、生きものを殺すとかは絶対駄目と。

自分がいまだに罪悪感が薄れずに傷になって残ってるようなことだから、そんなことさせられません。

平気な人は「子供はそうやって成長するものだ」とか言いますが。

その次は不喜処(ふきしょ)。大火災で昼も夜も焼かれる。

犬や嘴の尖った鳥とかね、常にそいつらが来て骨や肉も喰われる。

ダイヤモンドのように固く尖った虫がいて、骨の中を動き回る。

そういう虫、本当にいるけどね。

極苦所(ごくくしょ)。険しい崖の下にあって、いつも鉄の火で焼かれるという。

現実にそういうのがありました。

キリスト教の異端審問=魔女狩り、ね。

あれは100年とか200年とか続きました。

熱鉄ですからね、火で熱くした鉄板の上に人を立たせたり、魔女だといって焼かれたり、中世はそれが日常的にあったわけです。

なぜ起こったかというのは心理学的に説明できるんです。

ひとつには、キリスト教は全体的に美しいイメージですね。マリア様にしても西洋のキリスト教のイメージは美しい。磔(はりつけ)はちょっとひどいけどね。

東洋の宗教は、ヒンズー教とかおどろおどろしいものもあります。

阿修羅像とか、千手観音とか、単純に美しいとだけ言えないものもイメージの中にあります。人間が本来持っているどろどろしたネガティブな部分をあえて入れてあります。だから神々しいだけじゃなくて恐ろしくもあったりします。

それはなぜかというと、その両面性ゆえに人間の内面の善悪両面を投影できるようにするためです。

それに対して、キリスト教はネガティブさが投影されないから、行き場がなくなってそれが現実の人間に投影されたのが魔女という理屈です。

もうひとつは、キリスト教は信者に緊張を強います。

大乗仏教みたいに「悟りも煩悩も一つだ」ととらえないで、善と悪を明確にわけるから。

自分の中の悪をどうするか、内面に誰もが持ってる悪を投影する宗教的対象がないと現実の人に投影してしまいます。

そういう意味で宗教というのは、その体系の中に悪が必要ですね。

そうでないと悪者を自分の外に作ることになります。

中国の奴らが悪い、竹島の韓国の奴らが悪い、とかね。イランが悪いとか。

でも、考えてみたら人間なんてそう変わりません。

みんな家族がいたりとか、「おれ、あの子好きだけど告白できない」とかね、「うちの親父うるさくて」とか、みんな同じですから。

だれそれが根っからの悪人とかいうことは有り得ません。

どうやって人が悪者を作るかというと、自分を善の側に置いた時なんです。

私は立派なキリスト教徒、立派な市民とかね。

自らを善の側に、光の側においたら、内なる悪は外へ向かいますから人の中に悪を見出すことになります。

宗教こそ、これが一番危険です。実際に魔女狩りを生みましたからね。

オウムだって、自分たちが純粋であればあるほど、ネガティブなものを外の世界に見るわけです。

人間の二面性を自分の内なるものとしてとらえないと。そういうふうに人を悪者にするのは楽だから。

だから魔女裁判で刑を執行した人たちは、良いことしたと思ってたかもしれないけど、まさかその結果地獄に行くことになるとは思わなかったでしょうね。

自分たちが正しくて、相手が間違ってるから殺して、その結果カルマを背負うことになるとはね。

※投影:心理学用語。自分の内にある受け入れがたい部分、悪い面などを人に映して非難したり、攻撃することを「投影(projection)」という。一般的にネガティブな意味で使われるが、良い投影もある。

※16ある等活地獄の付属の地獄(屎泥処、刀輪処、瓮熟処、多苦処、暗冥処、不喜処など)のうち、上記のほか9つについては「経」の中にないとして往生要集にも記載なし。

黒縄地獄(こくじょうじごく)。熱した鉄でできた縄で縛られて切り刻まれる、と。

苦しみは極まりない。で、やっと死ねたと思ったらまた生き返るから、死が救いになりません。

鉄の旗があって、鉄の山があってそこに追いやられる。

獄卒さんというのがいます。

「おまえの心がこういう現実を作るのだ。生きてる時の心がけが悪くてこういう目にあっている、悪業のためにこうやって食べられてしまう。家族も誰もおまえを助けることはできない。」と言われる。

これから後の地獄は一段ごとに前の地獄の10倍大変、つらくなってくる。しかも年月も長くなってくる。人間の100歳が天上界の一日。天上界の人は300歳とか500歳とか長生きなんだけど、地獄は天上界の一日が一千年続くというから何十万年もいないといけない。

地獄の人を回向(えこう)するのは大変だけど、我々の念仏によってね、地獄にも涼風が吹くんですね。ご先祖で地獄に落ちた人がいたら、祈願によってご縁があれば時間がかかっても救われます。

回向によって光明がさしてきて救われますから。

非常に意味のあることです。

ここにも付属の地獄があって、等喚受苦処(とうかんじゅくしょ)といいます。

非常に高い崖の上において熱い縄で縛って、鉄の刀でできた山の上に落とされて、燃えるような牙の犬に噛み食われて体がばらばらになってどんなに叫んでも誰にも救われないと。「悪見の論により」ってね、つまり、法を説く振りをして人をだますとかした人が落ちる、と。

新興宗教の教祖とかでビジネスやっている人はやばいかもしれません。

もう一つは誰かが身投げしようとしてるのに止めなかったとか。

畏鷲処(いじゅくしょ)というところもあります。

獄卒がいて、怒りまくって打たれたり、切られたり、弓矢で狙われたり。

現実としてイメージできるでしょうか。

イメージできなかったら全然面白くありません。

どこまで現実として感じられるかどうかです。

現実感がなかったら自分には関係ない、となります。

昔、魔女裁判とか刑罰として似たようなことがあった、という理解で終わりなのか。それとも、現実のものとして身近に感じられるか、イメージできるのか。そこが大きな分かれ道です。

ネガティブなイメージがちゃんとできる人ほど、ポジティブなイメージもできるわけです。

それからもうひとつね、悪いことができる能力がある人ほど良いこともできるんです。

意外でしょうか?。

キリストなんてあれだけ奇跡的な治癒力で治してみせましたが、オリーブの木に「枯れてしまえ」と言ったら枯れちゃったり、そういうこともできるわけです。

人間はどっちもできるのです。

悪いこともできるけど、それをしないで良いことをするところに価値があるのです。

人の心を動かす能力がある人はね、その能力を使って法に導くこともできるし、悪い道に進ませることもできる。

こうして、往生要集はいろんな地獄のイメージによって人の無意識に働きかけるわけです。

地獄行きの切符か天国行きの切符か、どっちを手にするのか?と。

天国行きの切符は「(他者へ)与える」ことによって手に入るわけですけど、地獄行きの切符は「(自分のもとに)取る」ことによって手に入る。

人生の要所要所に与える方を選ぶか取る方を選ぶかという選択がある。その時取ってしまえば、次の世界ではこういう辛い世界に行く。

もし、結果が見えていたら取るはずがありませんね。

だから地獄の描写によって喚起される無意識のイメージというのは大事なんですよ。

与えることによって次は天上界、浄土の世界だとイメージできれば、次は与える方を選ぶでしょう?

地獄の描写が仮に事実じゃなかったとしても-ぼくは事実だと思っていますが-与えた人は必ず幸せになりますよね。

これは霊界があるかないか以前の問題です。

なぜかというと与えた人は人に喜びを与えますから、それでもって人間関係が良くなるわけです。

人間関係が良くなれば良くなるほど、幸せになる可能性が高いでしょう。

良い話というのは人が持ってくるんだから。

だけど、取ってしまったらもうそこで終わりです。

その時、仮に人からだまして取れたとしてもその次は絶対ありませんから。

しばらく続いたとしてもいつか必ずストップしますから。

商売でずるがしこく立ち回って儲けたとしても長くは続かないでしょう。

いいことをしたほうが評判がよくなって、次につながりますね。

人間界だけで考えてもわかることです。

ところが人間界ですぐわかることでも与える方を選ばないということがあるんですね。

これは般若心経でいうところの無明ということです。

明るければ(智慧があれば)、自分の今の気持ちと行動によって、未来にはどうなっていくかわかります。

我々の心は瞬間瞬間に生まれていきます。

今の一瞬の心が、次の一瞬の心の状態を作っています。

だから智慧も、瞬間ごとに消え、次の瞬間に生まれていくものなんです。

そういう連続的な心の状態が開けてくることを智慧と言い、また「明」というんです。

澤木興道(さわきこうどう)さんという禅のマスターの言葉で、「迷いとは得をすること、悟りとは損をすること」という言葉があります。

その時は自分に取ってくるから(物理的には)得だけど、結果、地獄行きの切符だったと。

逆にその時は与えちゃうから損したように見えるけど、それは天に向かう道だということです。

また、天台宗の最澄の言葉で「受ける者は獄に行き、与える者は天に行く」と。それに通じる言葉です。

ちょっと考えたら、死ぬまでの間だけでもどちらを選んで生きればいいか、というのはわかるわけです。

それをふまえてイメージすれば、どう生きたら死後どうなるかもわかるし、そこから自分の人生においてもどう生きるべきかわかります。

それ(与える生き方をすること)こそが人として生まれてきたことの意味じゃないか、と思います。

今、人生に目的がない人が多いですよね。

どこそこの学校に受かりますとかね、そういうのは人生の目的とは言いません。

自分がなんのために生まれてきたのか、生きる意味はなにかということがはっきりすればするほど、どちらを選ぶかということもはっきりしてきます。

人間はどうしても(自分自身に)正しい方を選ばせないようにするカルマを持ってますから。我々は気づかないけど、今この念仏の一念一念の中に人々の幸せを願うというのは、カルマとの戦いが無意識に内在してるから最初は苦しいんです。

それがね、集中が深まると如来さまがカルマを溶かしてくれるから苦しみが快感に変わってきます。

深化するほど苦しみと快感が交錯してくるけど、それこそが修行なんです。

座ってて足が痛いとか、しんどいのに耐えるとか、それは修行ではありません。

霊的な苦しみに耐えて如来様から頂く快感とか、そこにたどり着く道が、そこに向かって進んでいくことが修行なのです。

だから如来さまの世界につながっていかないと、人生の選択においてもなかなか幸福になれる方を選べません。

だって座って5分人々の幸福を願うだけで、大変な修行ですから。

ましてそれを維持するというのは大変ですけど、そこから生きている間でも死んでからも幸福の花が開いてきます。

往生要集は地獄の描写が一番長いです。

まだ続きますけど、そこから喚起されてくる苦しさというのは修行の苦しさでもあります。

そう思ってまずこの地獄の世界の旅をしばらく続ければ、次は餓鬼の世界に行けますから(笑)。

ということで往生要集の黒縄地獄編でした。