住職に聴く! タオサンガ篇(1)

和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。

喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?

遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/

第一回

 

 

 

--来年のベツレヘム・フェスティバルでは、日本大使やいろんな国の大使を呼び、異宗教合同で慰霊祭をやろうという話を前回のインタビューで伺いました。

住職:はい。

--四大宗教合同ソングといい、異宗教合同の慰霊祭といい、住職は、いったいなぜそういうことを思いつくのでしょう? 発想が、大胆を通り越しているのでは・・・? と思うのですが(笑)

住職:えー、そうですかあ? 四大宗教合同ソングも異宗教合同の慰霊祭も、僕にとっては極めてフツーのことなんですけどね。

--、、、(汗)

住職:むしろ、「みんな、どうしてそういうことを思いつかないのだろう?」と、僕の方が不思議でしょうがないぐらいです。だって、みんなでやった方が楽しいじゃないですか。

--それはそうですが、、、。

住職:まあ、僕にしてみたら、他の宗教文化圏の人と合同で慰霊祭やるというのは、他のバンドに所属している人とジャムセッションやるみたいな感覚なんですね。

--なるほど、、、。では住職にとって、宗教は音楽みたいなものなんですか?

住職:元来宗教は音楽を含めていたし、太古において宗教と音楽は、そもそも一体でした。もっとも近代では、宗教的霊性を持つ音楽はほとんどありませんが。

--ええ、、そうですね、、。

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住職のライフワーク 音楽活動

 

住職:ただ、60年代後半のロックミュージシャンたちは、無意識に霊的世界を志向していたのです。しかしやがて、音楽もビジネスにとって替わっていきました。そして現在はほぼ消失してしまっています。

--すべてが商品として消費されるようになったからでしょうか、、。

住職:既成宗教にしても、基本的にはすべてが“死に体”のような状態です。

--、、、、。(住職、そんなこと言っちゃっていいんですか?)

住職:どの宗教宗派にしても、祖師方(宗祖)が在世していた時には、ひとつの例外もなく豊かな霊性を有していたのです。

--はい。

住職:それは祖師方の言葉や行動でわかる、ということもあります。しかしそのような「わかる人にはわかる」的な抽象的なことでなく、極めて具体的にはっきりしていることがあります。

--なんなのでしょうか?

住職:現在の既成宗教の祖師方も、すべて例外なく宗教革命家だった、ということです。イエスもお釈迦さまも法然上人も、例外なく当時の既成宗教の人たちにとっては、危険人物であり、排除すべき教えだったのです。

--それもそうですね。実際に迫害や弾圧などを受けていますものね。
どうしてそうなるのでしょう?

住職:あえて言えば、これは宇宙の基本法則のようなものなんですね。
そもそも宇宙の根源は物質でなく、無限向上する霊体なんです。もっとも私たちは、すべてが時間と共に劣化する、物質によって構成されている人間界に住んでいます。このため、この無限向上という概念は、体感的にピンとこないのです。だから、これからお話しすることは、とてもわかりにくいかも知れません。

--はい、、。

住職:意識が人間界に捕われていると、いかに劣化や滅び(肉体の死など)を防ぐか、という方に意識が向きます。それで通常人間は、自己保身や自我に走るのです。
しかし、宇宙そのものは霊的向上を本質としています。向上とは現状の否定によってのみ成り立つ概念です。

--はい。

住職:無限向上は、現状否定の精神態度をもたらします。これは伝統なり既成の団体なり、過去にしがみついてエラそうな顔をしたい人には、決して持ち得ないものです。なぜなら現状否定は、より以上の内容を提示できなければ、単なる自己否定に過ぎません。それでは誰を導くこともできません。

--そうですね。

住職:だから、修行によって宇宙の本質と霊的に結びついた人は、例外なく既成のものを打ち壊す革命的な教えを打ち起てたり、そこに導かれたりします。

--イエス、モハメド、お釈迦さま、法然上人、日蓮上人などの祖師方は皆そうだった、ということなのですね。それは、無限向上が宇宙大霊の本質だから、ということなんですね。

住職:当初祖師方は、誰からも理解されず、批判され、相手にされず、時には迫害まで受けていた。そんな状況の中でも、自らの魂が宇宙大霊と結びついているという実感と、人々の救いへの信念だけを頼りに、不眠不休で活動された。それが結果として、やがてはサンガ(修行者の集まり)という果実を産んでいったのです。

--はい。

住職:その教えは当初、例外なくすべて革命的であり、既成教団の権威を脅かす危険なものだった。ということは、霊的に豊かなものは、すべからく日常を脅かすものであり、現状維持に努めようとする社会(というよりは「人」)にとっては、常に危険なものだ、ということです。

--例外なく、なんですね。

住職:はい、そうです。ところが、そんな革命的な教えとサンガであっても、それが既成のものと化して行くことで権威が生まれる。そしてそこに、決定的な矛盾が生じることになります。

--どのような矛盾ですか?

住職:「反権威だったものが権威になる」という矛盾です。もちろん、真実を説く教えが権威を持つことは必然です。しかし、ここで言う場合の権威というのは、ちょっと異なる意味での「権威」なんです。

--と、おっしゃると?

住職:普通の人は、日々死と向かい合って生き切ることはできません。
だから、現状がいつまでも続くという幻想の中で、その維持に努めるべく生きています。

--たしかに、死と向かい合って生きている人はまれですね。なぜなのでしょう?

住職:死と向かい合って生きていると、常に永遠の中の一瞬を生きることになり、日常生活に対する関心が薄くなります。そして社会を動かす営みに従事することができなくなるのです。全員がそうだと、世の中は動きませんから、一部の人だけがそのように生きる、という宿命を背負うことになるのです。

--宿命を、、、。

住職:中国に侵略される前のチベットは僧侶が5人に1人だったかな、それぐらい多かったと言います。社会の中で、あの世込みで生きていいける人の割合は、その程度が限界なのかも知れません。

--なるほど、、、。

住職:ここで話を戻しますが、本来の意味での「権威」というのは、絶対的な真理に裏打ちされてたものです。だから誰が否定しようと、あるいは逆に、誰が高く評価しようと、その価値は本来変わらないものです。

--はい、、。

住職:ところが多くの人は、真理が見えません。世間に評価されているものを真理とし、権威あるものとして捉えます。逆に世間に評価されていないものに対しては、“真理にあらず”と否定し、その権威を認めません。

--ええ。

住職:どの宗教宗派も、当初は、世間の権威にまったく頼らない宗祖と、その教えが真理であることを直感的に見抜いた献身的で純粋な数名の人たちだけで始まったのです。

--はい。

住職:しかしやがて、それが組織として形になって来るにつれ、真理という目に見えない本来の権威から、世間的な権威に取って替わられて行くのです。サンガから霊性が失われていくのは、まさにその時なのですね。

--組織化されると一番必要なものが失われていくとは、皮肉ですね。

住職:法然上人の時代、専修念仏が時の権力によって禁止され、法然上人は犯罪者となりました。ということはですよ。言ってみれば、今の時代に法然上人が生きていたら、裁判所に解散を命じられ、犯罪者として刑務所に入った、というような状態ですよ。大本教だって戦前は大弾圧を受け、教祖は刑務所に入っていましたが。

--はい。

住職:当時、イエスは死刑になり、弟子たちも投獄の危険があった。そんなキリスト教には世間に誰ひとり味方がいなかった。そんな状況の中で教えを守った人がいたから、その後も続いたわけです。

--命がけだったんですね。

住職:しかし、その後がいけない。中世になると教会は絶大な権力を持って、異教の人々を弾圧し、殺しまくった。本来は真理に基づくべき霊的権威が崩壊し、世俗の権威に取って代わった結果です。その時は教会から聖霊が死に、悪魔が生まれたのです。

--そういうことだったのですね。

住職:これは、宗教者が社会的な権力と霊的権威を、愚かにも取り違えることで起こるのです。宗教から世間にとっての“危険な香り”がなくなる時は、逆に霊的には死んで行くときかも知れませんよ。お釈迦さまが街にやって来るときは、金持ちの家は息子を外に出さなかったそうですよ。なぜなら、息子が出家してしまって困る金持ちの家が多かったからです。

--へー! 金持ちにとってお釈迦様はウチの息子を惑わす怪しい人物だったんですね。

住職:世間の評価を後ろ盾にした宗教者が偉そうな顔をした時が、一番危険なんですね。その時こそ、宗教の生命である「霊性」が死んで行くときなんです。

--いったいどうしたら宗教は、組織やニセの権威主義に陥らず、当初の純粋さと霊性を保つことができるのでしょうか?

住職:考え方としては3つぐらいありますね。
まず、何百年かに1人ぐらいの割合で、革命的な宗教思想家や活動家が現れるから、まあいいじゃないか、というもの。仏教などは、そうやって不思議に命脈を保って来たというところもありますから。

--そうなんですか、、。

住職:時代の変わり目に人々が生き方を見失うとき、霊的指導者が現れる傾向がありますね。例えば日本仏教では、法然上人、日蓮上人、道元禅師などを輩出した、鎌倉時代が有名です。また明治・大正期も、山崎弁栄上人とか金子大栄とか、いろんな革命的な宗教家が登場しました。

--その他の考えはどのようなものですか?

住職:そもそも宗教が組織になったり社会的権威を持った時点で、もう霊的には廃人になったようなもの。だから、霊性的な見地からは見込みないから諦めましょうよ、という考え方。

--何だか身も蓋もなにもない、感じですね。

住職:ははは。そうそう。これって、「どうせもう人類滅びるよ」的な、感覚ですね。
実は霊的な修養において、人間がアホな権威に寄りかかっているか否かは、その人が、その道の初学者に対して、どのような態度で接しているかに、最もはっきりと顕われるものなんです。

--わかるような気がします。

住職:エラそうな顔をしたり、とうとうと自分の話を(本人は気持ちよく)しまくったりするのは、まず問題ですね。
初学者の魂の成長を心から願って、自分のことなど全く考えていなければ、自然にそんな振る舞いはしません。むしろ、初学の人の気持ちを純粋に大切にして、聞き役になると思いますよ。浄土真宗の中興の祖と言われる蓮如上人なんかも、そんなタイプだったのではないかと思います。
ただ、純粋であればあるほど、相手の成長を考えますから、時にはそれが厳しさとして表れる場合もあります。入門させるか否かの間口をあえて狭くする、とか、、、。
もっともそれは、エラそうな顔をするためでも、自分が気もち良くなるためでも、何でもないのですが。

--今の和田寺タオサンガは、そのような人々の魂の霊性的な受け皿を目指しているのですか?

住職:はい、目指してはいるのですが、現在の時点で、一体どこまで徹底して浸透できているかは、正直わからないですねー。在家と出家の違いも明確でないし、、、。

--明確にしなければならないことがあるのですね。

住職:仏の道に対して献身するというのは、他者の魂を育てるために献身することです。それは初学者の人、あるいは後輩と言った人々に対して敬意を持って接する、という態度として現れなければならないんですが、果たしてそのような態度が、タオサンガ修行者にどこまで根付いているのか、、、?

--修行者には、責任があるということですね、、。

住職:一番基本的なことは、修行者が、道場を人々が集う場として明るく盛り上げることなんです。それができるようになるための各種のコミュニケーション・トレーニングを開発して実践してはいるのですが、、、。

--そうですね。タオサンガには様々なコミュニケーション・トレーニングがありますね。

住職:初学者の人々の下支えになることを心から自らの勤めとして、また楽しんでやっていくには、自分のことなど忘れていなければ、できないことです。

--はい、そうですね。

住職:初学者の人に対して心からの関心を寄せ、道場の場を明るく盛り上げて下さる人が、タオサンガに1人でも増えて頂ければ、、、。僕はそう心の底から願っています。

--はい。

住職:霊性的には完全に砂漠状態の今の世の中です。霊的に豊かな感性を持っている人は、必ず一定の割合で生まれています。彼らは、食べて寝て働いて、ということだけでは虚しさを感じたり、人間として存在していることを苦しみと感じたりしています。さぞ生き難い想いをしていることでしょう。無意識に道を求めていると思います。そして残念なことに、カルトや教祖に捕まってしまう人も多いと思います。

--そうですね。

住職:僕はそんな彼らのための受け皿を創りたい。そう願って、タオサンガセンターを造って来ました。受け皿で最も大切なのは、建物というハードよりも人間です。人間力です。

--はい。

住職:初学者のたましいを、宝物のように大切に扱うことのできる、謙虚で献身的な方々が増えれば、その時は真の意味で受け皿ができたと言えます。
そして和田寺タオサンガ道場が、無限向上の場になる、ということです。
そのときは、宗教自体が霊性を破壊するという、人類が繰り返して来たカルマを乗り越えた、ということになります。

--はい。

住職:だから今は、どうしたらそのような人々が増えるのか? そのためのシステムはどうできるか?
これまでの人類のように、修行者の集まりが組織という形になり、霊的にダメになってしまうのでなく、無限向上が持続可能になるシステムを、タオサンガでどう構築することができるのか?
これらを模索しているところです。

--それは、いまだかつて実現したことのないものですね。

住職:2016年の1年は、従来のものを覆すユニークな和田寺タオサンガの修行体系を1冊にまとめること。また、今申し上げたように、霊的な修行の道を求める人々の受け皿となるシステムをどう創るか?
それらが僕的にはテーマになると思います。

--はい。

住職:未発表の「あっ!」と驚くようなプロジェクトだって用意しているし、無限向上という、人間界における“危険思想”を抱えて、人々の心に革命をもたらしたい、、、。今年もそう願ってやって行きたいと思います。

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仏教ワークショップ

 

 

インタビュー後記

インタビューの中の住職の言葉、「仏の道に対して献身するというのは、他者の魂を育てるために献身すること」。この言葉に雷にうたれたような気持ちになりました。
今回の住職の言葉の中には(も)、仏の道を歩むことが「自分の心を鎮めるため」とか「不動心」とかいうちょっと自分の我を満足させてくれそうな、そのような言葉が一切ない、、、。
そうなんです、なくてよいのです、、。住職を見ていると、献身というのは、軽やかで明るくてユーモアがあって、ちょっと切ないものだと感じます。
重くて暗くてユーモアがない自分というものを自覚すればするほど、その底に住職の言葉が響いてきました。
人間は、こういう風に存在することが可能なんだ、、という希望が励みになります。