仏の道は、とっても夢のある話
法話ライブ at 京都道場 2016年2月13日
法話:遠藤喨及
動画URL
https://www.youtube.com/watch?v=ac9YKF2DIho
お釈迦様が最初に説かれたものが「八正道」。
その最初に出てくる”正見”とは何か?
これを”ありにままに見る”なんていう
ありきたりの教科書的な説明ではなく、
本当の意味は何か?についてお話してきました。
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八つの宇宙的な道についての一つ目。
これが正見です。
でも、八正道の「正」を”正しい”と訳すべきではない。
正見とは「一切認識智」という悟りの世界観のことだから、
これはあくまでも修行の結果。
なのに、どうしてお釈迦様は、これを「道」としたのか?
これを弁栄上人が解き明かしてくださいました。
弁栄教学では、阿弥陀如来の十二の光明を、
宇宙大霊の内容として捉えます。
この十二光の最後に
「難思光、無称光、超日月光」とあります。
宇宙大霊である阿弥陀様の十二の光明の内、
「難思光、無称光、超日月光」が何を意味してるのか?
修業により、心がどう変化するか?
修行の階梯(プロセス)を表しているのです。
難思光
なぜ「難思」(思うことが難しい)なのでしょう?
それは例えば、
「修行すると、”世界そのものが自分だ”と感じる
心の世界が開けてきますよ」と言われてもねー。
通常、人は「?」でしょう。
「自分がここにいて、これが世界」という、
固定的な見方で世界を思っていますからね。
実は、世界は自分の心が映している。
これが真実なんです。
自分とか、他者とか、世界とか、
それらの境界を超えた別のフィールドがあるんです。
その境界線の奥に入って行くと、色々なこと、
たとえば想いを現実化することなども自由になります。
ふつう、そんなこと言われても、
「でも…」という感じになります。
これを真実だと思うのが「難しい」から
“難思”なのです。
その他、いろいろあります。
「時間・空間を超えた世界がある」
「悟りを求めた生き方のほうが、よほど運が良くなる」
「他人に利他した方が運が良くなる。
心だけなく物理的にも幸福になる」
「無意識さえ変えれば全てOKになる」
こういうことを言われても、
「ホントかな?」みたいに思ってしまう。
存在が物質だと思っているから、わからない。
存在が霊だとは思えない。
これを「難思」と言います。
無称光
一生懸命修行することによって、
存在が物質ではないという世界が、
心のなかに開かれてきます。
これは、自分が霊的に高いステージに行く、
というのではない。
「向こうからやってきて、自分が消えていって、
新しい世界が湧いてくる」んです。
これは言葉にならない心の体験の世界だから、
「無称」(説明できない)です。
言葉というのは、
言ってみたら自分と他人の共通点です。
たとえば、「痛い」というのは、
痛いことを体験した人でないとわからない。
痛覚のない人と、
痛いという言葉の意味は共有できません。
「哀しい」とか「嬉しい」の言葉も、
その気持ちを体験しているからこそ共有できるのです。
コップとかカメラを見たことがない人とは、
言葉を共有できません。
ところが念仏修行によって、
それまで日常の中で一切体験したことがない世界が
心のなかに表れてきます。
これは、言葉にしようがありません。
だからこれを「無称光」というのです。
「言語道断」って、
一般には、頑固親父がいうような言葉ですよね。
でも実際は、仏教用語。
言葉が全く使えない、
断ち切られているという意味です。
無称光はその世界だから、
「言語道断、心行処滅」といいます。
心行処滅とは、雑念が消えて、
心の動きすら無くなった状態です。
如来様は実在します。
それは自分と他の境界が無くなった世界です。
これはものすごく深い、暖かくて安らぎの世界です。
でも、修行していない人がいきなりそう言われても、
共有できないのです。
ある程度でも体験していないと、言葉では伝わらないのです。
お浄土にしてもそうですよね。
でも、何となくそれが事実として感じられてくる世界。
体感的に想像することができるようになってくること。
今まで単に言葉だったのが、
自分の心のなかに、体感されてくる。
あるいは予感されて来る。
これが「無称光」の世界です。
超日月光
これには2つの意味があって面白いんです。
1つは文字通りに、「日月を超える」。
“太陽よりも月よりも輝きが強い”、という解釈。
2つ目は、弁栄上人が説かれたこと。
超日月光とは「月日を超える」から、
“日常的に無称光を体験する”ことを言うんです。
ちょっと「無称光」を感じる所から、
これが日常の心の心境になっていく。
これが超日月光の世界です。
でも超日月光で終わりではありません。
その先に、次の段階の難思光があり、
無称光があり、超日月光がある。
すなわち、霊的悟りの体験とは、
スパイラル的に深まっていくものなのです。
先ほどの心行所滅(しんぎょうしょめつ)という言葉。
心の動きが無くなった所に、
言葉にならない世界が開けて来ること。
祈りなどに集中して、
ただそれだけの心になることがサマーディ、
「三昧」です。
心がチラチラ動くのが無くなった状態。
しかし人間、自分が無くなる、
自我が滅されるのが怖い。
それで、それを止めようと必死になる。
そこで雑念が起きるのです。
雑念が起きないように、
覚悟を決めてずっと心を集中して行く。
すると自分が追い込まれていきます。
こうして徹底的に自我が追い込まれないと、
如来さまは向こうからやって来ません。
いつまでも雑念で遊んでいると、
ずっとそのままになってしまう。
だから5分でも、たとえ1分でも集中して、
それ祈りやイメージ以外のことを無くす。
これができたなら、すごいことです。
だから、これをひたすらやっていくのです。
弁栄上人は次のように説かれました。
修行の最初の段階の「難思光」で、
これは「五根五力」の修行である。
無称光の体験的な味わいが出てきたら、
「六波羅蜜」の修行である。
そして、最後の超日月光の段階では、
「八正道」の修業をする、と。
お釈迦様はいきなり八正道から説き始められました。
が、弁栄上人がクリアにしてくださったことで、
お釈迦さまが説かれた本当の意味が、
ようやくわかるようになりました。
五根五力
「根」とは霊的な能力という意味です。
“根性”は、実はここから来ている言葉です。
仏教では、その他、感覚という意味で使うこともあります。
五つの霊的な力をトレーニングする。
これが仏教における最初の修行です。
これはお釈迦様が直接説かれたことです。
「六波羅蜜」を説くようになったのは、
お釈迦の死後500年経ってから生まれた、
大乗仏教になってからです。
信根
何度かお話していますが、
これは「信じる能力」ということです。
一般的な社会では、信仰とか信心と言うと、
“おバカな人が信じる”というイメージがあります。
“鰯(イワシ)の頭も信心から”とかね。
これを修行という観点から考えてみましょう。
「修行するとこんないいことありますよ」と言われても、
それを信じなかったら、修行なんかしないでしょう。
仏教とは「道」ですからね。
例えば宝の地図があって、
“その道を行けば宝が有りますよ”、と描いてあっても、
”宝があるんだ!”って信じなかったら、
その道を行かないですよね。
たとえ本当に宝があったとしても、
地図を信じなかったらその道は行かない。
それと同じです。
「信根」がどういう霊的能力かというと、
”無意識を感じる能力”なんです。
我々の無意識には色々な階層がある。
このことは、大乗仏教で解き明かされています。
阿頼耶識(あらやしき)という、
カルマがある階層もあれば、
末那識(まなしき)という階層もあります。
無意識の一番根底にある、
阿摩羅識(あまらしき)というのは、
宇宙意識、阿弥陀様の意識(不識)です
われわれ1人1人の潜在意識には、
すごい深い階層があるんです。
意識と無意識が離れている人もいれば、近い人もいます。
本当のアーティストなら、近くないと無理なんです。
作曲なんかは無意識の方から出てきますからね。
無意識と意識が乖離していたら、
無意識が奏でるメロディが聴こえてきません。
新しい発想を生み出すのも無意識からですね。
おそらく発明する人、イノベーションする人など、
これらはみんな、無意識と意識が近いから成り立ちます。
意識と無意識が離れている人は、
現実的な意識でとらえることしか考えません。
だから、無意識を元に、新しい発想でものを言っている人に対して、
”コイツ、何を言ってるんだろう?” といぶかしく思います。
最初は理解できないのです。
浄土とか如来様の実在は無意識の世界です。
だから無意識と意識が乖離していると、
これらの実在を予感できないのです。
子供は無意識と意識が近いので、
素直にそういう世界を信じます。
生まれたときは無意識しかなかったのが、
少しずつ意識が芽生えてきます。
そうして無意識から乖離していく人が多いのです。
意識と無意識がつながっているほど、
無邪気で普遍性が有ります。
無邪気な子供を見るとほっとするのは、
普遍性をそこに感じるからです。
逆に無意識と乖離している人ほど、
近寄りがたく思います。
無意識と意識が近い状態で生きるのは、
ある意味大変です。
子供もすごく傷つきやすいし、大変です。
無意識は人類全部で共有していますから、
人類の無意識が意識に全部飛び込んでくる。
だから大変なんです。
ユング心理学では、自我が弱く意識を支えきれないと、
“無意識に圧倒されてしまう”と言います。
我々は修業によって無意識と意識が融合し、
なおかつ無意識に圧倒されずに、
逆にこれをコントロールできる状態にもっていく。
心が鍛えられていないと、
無意識に圧倒されて精神的にやられてしまうのです。
音楽家でもゴッホのような画家でも、
アーティストにはそういう人が多いのです。
”無意識の声を聴く”、
”心をコントロールする”、
”霊的実在が予感できる”。
仏教では、そういった能力を「信根」としているのです。
なおかつ「信力」を養う。
このために、単なる無意識の声ということではなく、
無意識を意識にまで昇らせ、明確なものにしていく。
これが仏教で言う「信」の意味なんです。
弁栄上人の信の定義はさらに深い。
弁栄上人は、信を「神秘合一」とされています。
神仏と人間が合一することを「神秘」といいます。
つまり、阿弥陀様の意識(あんまら識)まで含めた、
無意識と意識が合一することによって信仰が確立すること。
これを「信」と言うのです。
”鰯の頭も信心から”なんていう浅い話ではありませんね。
「信力を養う」ということは、
意識と無意識が融合すること。
これは、“人類に無意識の声を聞きながら、
意識がこれを受け止めて生きていく”ということです。
だから無意識と意識を切り離さないで生きていくというのは、
ある意味すごいことなんです。
念根
心を集中させる能力です。
何でもそうですが、
心を集中させれば物事は成就していきます。
修行を成就させる力、
願いを現実化し、物事を成就させる力、
心の働きは同じです。
心に余計なものを入れたら物事は成就しません。
「こんなことをやって何になるのよ」とか、
「世間の人はどう思うか」とか言われて、
「そうか」、と思ったらもうダメです。
そこでぐらつかず、
「信力」で養われた無意識の声を聞く。
自分はどうしたらいいかを、
無意識はどうすればいいかを知っています。
乖離していると、
世間のネガティブな無意識が入ってきて邪魔されます。
邪魔されないように心を集中して、
一直線に如来の意識につながっていく。
この能力が「念力」であり、心を集中させる力。
これを養うのです。
まさに念仏三昧ですね。
念佛三昧の技法は色々ありますが、
基本は祈りであり仏様のお姿をイメージすることで、
心の集中なんです。
定根
修行によって心が定まっていくこと。
雑念が無くなって、無辺の世界。
如来の世界に溶け込んでいき、
それがますます深まっていく。これが定根です。
精進根
この言葉、僕は大好きですね。
人間、我としては、いつまでも同じ状態でいたいでしょう。
どうして同じ状態に留まりたいのか?
それは恐怖から来ています。
無意識では自分が死ぬことは分かっています。
でも恐怖があって、それに目をつぶっていると、
”せめて同じ状態でいたい”と思うんです。
今、20歳の人は、ずっと自分は20歳だとイメージしているし、
今、70歳の人はずっと自分は70歳だとイメージしています。
我われはそうやって幻想にすがりつくんです。
もし同じ状態が嫌だと思ったら、
今のを全部壊して進んでいくしかありません。
これが精進根の基本です。
いやー、人間、守りに入ったら終わりですからね。
例えば、AさんとBさんが脅しあった場合、
どっちが勝つと思いますか?
人間、守るものがないほうが勝つんです。
捨ててかかっている人間が一番強い。
人に何を言われようが関係ない。
そういう人が一番強い。
守ることなんかみんな捨てて、
更に突き進んでいくことです。
それでこそ人生面白いんじゃないですか?
精進根の精神はここにあります。
だから僕は好きなんですけどね。
慧根
全ての潜在力を開発し、
どんなことでも可能にする霊的な核が、
宇宙にはあります。
その霊的な核とつながっていくのが、
陽念佛のメソッドなんです。
すべてを可能にする核とつながって念佛していくと、
“面白くて面白くて…”となって、
歓喜光が湧いてきます
人間守りに入ったら喜びはないです。
爆発的な喜びの中で、
色々な物事が創造されていく。
これが宇宙の本質、存在の本質です。
歓喜光は存在の根本なんです。
無意識は広大無辺な宇宙の世界です。
だから、それをどこまで見通せるのかが智慧なんです。
無意識にあるものが全部見通せていたら、
自分はこれからどうやっていけばいいか、
全部わかるはずです。
これが慧根。
これを養うのが慧力です。
この五根五力の修行が難思光です。
お釈迦様がお説きになったものを、
弁栄上人がクリアにしてくださったのです。
“難思光は大変”、と言っても、
とっても夢のある話なんですよ。
(合掌)