住職に聞く!第十一回 二十歳の青年は生涯放浪の人生を送るつもりだった

和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ喨及(りょうきゅう)さんです。

喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。

一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?

遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/


第十一回

――念仏道場で、やがて葛藤や煩悶をするようになったと言われていましたが、それは、どんなことだったんですか?

住職:それについては、大きくは二つありました。
第一の煩悶について話すには、まず、当時の僕の人生計画についてお話ししなくてはなりません。
もっともそれは、あまり自慢できるものでもないのですが。

――というと?

住職:生涯、決まった家を持たずに、放浪の人生で終わるつもりでした。
自分にしてみたら、それは性分みたいなものです。
日常に耐えられなくなって、ふらっと国道まで歩き、そこからヒッチハイクで旅に出るなんていうことも、よくありました。

――なんだか、映画の世界みたいですね。

住職:二十歳過ぎてからは、一年ごとに引越しです。
同じところに一年住んでいるというだけで、もうだめでした。
眠れなくなったり、蕁麻疹まで出たりしたんです。

――それは本格的ですね。

住職:放浪の人生を送った、俳人の種田山頭火や放哉(ほうさい)等の
ような一所不在の生活には、猛烈な憧れを持っていました。

――松尾芭蕉もそうですし、一遍上人や西行法師もそうですね。
日本の文化的伝統なんでしょうか?

住職:そういえば、日本人が大好きな映画「寅さん」も、旅の人生ですものね。
かつて日本には「サンカ」という、ジプシーのように定住しない民族がいたそうです。
ヨーロッパのジプシーには、無理やり定住させると、廃人になる人がいるらしいです。
僕は精神的には、その系統ではないかと思ったりしますよ。

――中東のべトウィン族もそうですが、流浪の生活をする民族は、世界中にいますね。

住職:人類が定住するようになったのは、農耕文化が始まってからでは
ないでしょうか?
人間が定住したり、物を溜め込んだりするようになったのも、それ以降だと思います。僕はそのどちらも苦手です。

――指圧の学校に入学されたのは、いつ頃ですか?

住職:念仏道場に出入りするようになって、しばらくしてからです。
二十歳でした。しかしその目的は、あまり高尚なものとは言えません。

――というのは?

住職:旅から旅の生活ができるための、手に職をつけるのが目的だった
のです。

――なるほど。指圧だと身一つで放浪できますね。
どうして思いつかれたんですか?

住職:当時住んでいた、清和荘という東京のボロアパートに、欧米人ヒッ
ピーのバックパッカー(貧乏旅行者)たちが住み始めたんです。
常に、インドなどのアジアを旅している連中でした。

――『<気と経絡>癒しの指圧法』(講談社+α新書)に書かれていたお話しですね。

住職:彼らは、旅の資金稼ぎのため、一時的に日本に滞在していたんです。
僕と親しくなるのに、時間はかかりませんでした。
彼らの話を聞いて、“指圧の資格を取って、インドなどのアジアを放浪しよう。旅の資金はヨーロッパで稼ごう”と思ったのです。

――インドは、今も、精神的なものを求める若者に人気のあるところですね。

住職:放浪だけで生涯を終えるつもりでいた自分にとって、彼らのライフスタイルは理想的に見えました。

――念仏道場の方は、どうするおつもりだったんですか?

住職:指圧の学校を卒業するのに二年はかかるので、とりあえず旅
に出るまでは、通い続けようと思っていました。
ただ、ちょっとマズいなあ、と感じるようになって来たのです。

――と、いうと?

住職:道場主のおばあちゃんが、僕のことをやたらと持ち上げるのです。
それで、運営に関わっている人たちなんかも、僕のことを特別な目で見るようになってきたのです。
その上、まさかとは思ったんですが、何だか、、、、、。

――何だか、って?

住職:僕に、後継者になることを期待しているような、そんな雰囲気が、
そこはかとなく漂って来るのです。

――よほど見込まれたんでしょうか。

住職:しかし“いくら何でも、まさかそこまでのことはないだろう”と思ったんです。
まず、こちらは、道場に通い始めて一年もたっていないわけです。
それに、はじめはただの念仏道場だと思ったのが、ちょっと違って東京だけでなく、関西や九州にまで支部があったんです。

――全国組織だったんですね。

住職:関西にある、天台宗や浄土宗などの寺院までが、支部として
ありました。

――立派なものですね。

住職:単なる道場主のおばあちゃんではなかったのです。
皆さん、「先生」と呼んでましたし。まさか教祖様なんていうわけではないだろうけど、とにかく、団体としては全国組織でした。

――そこに、生涯放浪の人生を送るつもりの、二十歳の青年がいたわけですね。

住職:だから、“もし万が一後継者という期待が、自分のカン違いでなければ、一体どうしよう?”と、途方に暮れる気持でした。
自分は、定住する気なんかサラサラないし、日本に帰るつもりもなかったんです。

――指圧師の資格を取ったら、すぐにでも、放浪の旅に出るおつもりだったんですね。

住職:実際のところ、旅さえできれば良いという僕の心情には、切実な
ものがありました。
その頃の僕にとって、自由に旅することは、何ものにも替え難い、至上のものだったのです。

――そうだったんですか。

住職:もし、本当に期待されていたらマズいから、早い内に“いずれ
自分は旅に出て帰らない”と言っておいた方が良いだろう、と思いました。

――それもそうですね。

住職:それで何かのおりに、「指圧学校を卒業したら、放浪の旅に
出るつもりです。」と、先生(道場のリーダーであるおばあちゃん)に言ったんです。

――なるほど。

住職:しかし僕は、その先生の反応には、すっかり参ってしまいました。

――と、おっしゃると?

住職:さっと顔色が変わって、“あなたがそんなこと言うと思わな
かった”と、手ひどく落胆されてしまったんです。
そのあげく、拗ねたような顔をして、奥の部屋に引っ込んでしまったのです。
後に取り残された僕は、罪悪感で一杯でした。

――やっぱり、相当期待されていたんですね。

 

住職:自分としては、霊的な重さをすっかり楽にして頂いたことで、道場主のおばあちゃんには、強い恩義を感じていました。
だから、ひどく罪悪感を覚えました。いやー、実に参りましたよ。
本当に、どうしようかと思いました。

――そんなに強く、罪の呵責を抱かれたんですか?

 

住職:例えば、捨て子だった自分を養育してくれた里親がいたとします。
一方、自分は海外留学して、そのまま海外で暮らしたいと思っている。
それなのに、里親は“将来は私の後を継いで、家族みんなを養っておくれ”と言う。
その時の僕は、まるでそんな状況下にあるかのような気持ちになったのです。

――そういえば道元禅師に、そんな質問をした人がいましたね。

 

住職:はい、以下のようなものです。
“捨て子だった自分を育ててくれた、親同然の老師がいる。
自分は真の仏教を求めて中国に渡りたい。
しかし老師に、自分の死に水を取ってから行ってくれ、と言われている。
自分は、一体どうしたら良いか?”、と。
道元禅師はその質問に対して、“今すぐ、お行きなさい。人間界はしょせん諸行無常ではないか。
たとえ恩義ある老師の死に水を取れなかったとしても、あなたが行くことで悟りが開けたならば、それは老師の功徳にもなる。
しかし逆に、あなたが老師のために中国に行かず、そのために悟りが開けなかったとしたら、それはかえって老師の後生のためには、良くないことである。”と答えられたように記憶しています。

――さすがは道元禅師ですね。

 

住職:はい、僕もその答えは、見事に世間の常識を超えていると思いました。
それで、その箇所を何度も読み返しては、どうしたら良いかを必死に考えていました。
僕にとっての第一の煩悶とは、罪悪感の苦しみだったのです。
自分は、旅に生きたい。でも、恩義ある相手の期待に添えないのは、罪ではないか。
そう思って自分を責めて、本当に苦しみました。

――なるほど、そうだったんですか。

住職:今でこそ、それは、期待する側のエゴであって、期待される方の責任ではないと、やっと思えるようになりました。
しかし当時の僕は、まだ二十歳。
世の中からドロップアウトしていたし、自分で言うのもナンだけど、
とにかく純朴で律儀だったんです。

――それで、どうされたんですか?

住職:今から考えると、信じられないような奇策に僕は打って出たんです。

―続く―