平和と自由を手にするには?
法話ライブ at 京都道場 2016年4月19日
法話:遠藤喨及
動画URL
https://youtu.be/RwzdFTqrrqI
1)
難思光とは?
誰でも最初の内は、悟りは思うことや想像することすらできない世界です。
だから、これを「難思光」と言います。
その後、修行していって阿弥陀様を体験することで三昧を得て、開かれてくる心の世界があります。
それによって認識する世界。
それは、以前に認識していた現実とは全く別の心の風景です。
それは、言葉で説明することができないものです。
それで無称光(言葉では説明できない光)と言います。
2)
私たちが外の世界だと思っているのは、どんな風景でしょう?
まず、「自分は、外界の中の一部として存在している」という認識です。
だから、自分の心が世界に影響を与えているとは思わないでしょう。
一般の人は、そのような世界観の中で生きています。
そして自分が世界の主人公であるとは考えません。
運命なり外界の変化は、外界それ自体が起こしている、と思っています。
そして、”ああ、アイツはうまくやりやがったな”とか、運命を棚ぼた的に思ったり、“オレは運がいい”とか、“悪い”とか思ったりします。
その世界認識が全く変わる。
自分の心が、すなわち世界そのものであるし、いかようにも心に応じて変わっていく。
心次第で認識している世界も変わるし、運命も変わるんだ。そういう風に変わるのです。
これは、「自分が世界の主人公になっていく」ということなんです。
「世界の奴隷、外界の脇役」としての自分ではなく、自分自身が運命を創っていく。
人生における”自由性”が出て来るのです。
3)
しかし、それまでは難思(光)です。
だから、その難思光を突破して無称光に至るまでは、
お釈迦様が説いてくださった五根五力を修行するのです。
五根五力とは?
ここで出て来る「根」というのは、霊的な能力という意味です。
(仏教では、「感覚」という意味で使うこともあります)
<1>信根
「信」を持つ力のことです。
悟りやら浄土の世界と言っても、最初は想像することすらできない、それこそ「難思」です。その世界を目指すのですから、まずその世界があることを信じるか、予感することが必要になります。
すなわち、そのような世界があることを、おぼろげながらも予感するだけの感性が必要なのです。
それがなければ、「そんなのあるわけないだろ」の一言で終わりになるか、自分とは関係のないこと、になりますから。
<2>念根
心を集中させる力のことです。
心を一つのことに集中できなければ、およそ創造的なことには向きません。
そして仏教(念仏)の修行とは、ある意味、どこまでも自分の心を透明で気高いものに「創造」していくことなんです。
<3>定根
定とは三昧、瞑想状態に入っていく能力のこと。
「定」というのは、自分の身体、存在を認識しないような状態です。
そういう風になれる感性、あるいはなり易い感性があれば、仏教の修行には向いている、というわけです。
実は、自分の身体、存在を強く認識すればするほど、自分と世界の対立は大きくなります。そして、自分と世界の相対性が強いければ強いほど、幸福感もまた薄いのです。
心がハッピーなときって、自分の身体とか関係なくなるでしょう?
逆に身体が痛い時って、自分の身体をやたら認識しているでしょう?
三昧に入り、身体の存在認識が希薄になって、自分と世界との相対性が薄くなっていけばいくほど、人は幸福感を抱くのです。
<4>精進根
現状に縛られることなく、己れを打ち破って飛躍を遂げていく精神能力のことです。
<5>慧根
自分の心を見通す力(自分の我、エゴに騙されない力)のこと。
4)
最初は、修行によってこれらを養っていくのです。
そして、五根五力の修業が終わったら、次は「無称光」という、言葉で表現できない世界に対応する、“六波羅蜜”(ろくはらみつ)の修行に入ります。
六波羅蜜とは?
<1>布施
一般に布施というと、お坊さんにあげるお金だと認識したりしています(笑)
本を読んでも浅く解釈されたものが多いですね。
布施とは、「如来様の大愛を感じさせる、あらゆる行為のこと」です。
微笑み一つ取っても、もしそれが如来様の存在を感じさせるような目的で行われたのであれば、それは布施なんです。
マクドナルドの接客マニュアルのスマイルや、詐欺師が微笑むのは、布施とは言わないですけどね。(笑)
<2>持戒
これの本質は、如来の宇宙大霊がそのまま自分の行動として表れてくることを言います。
“これをやってはいけない”や、”やっても良い”とかの、「戒めに従う」という意味ではありません。
人間は、善と悪を明確に分ければ分けるほど精神的に不健康になるんです。
善悪の明確分離は、魔が最も好むところ。
人間の精神にとって、一番危険なことです。
だからカルトは、善と悪を信者に焚き付けるんです。
善も悪も相対性もない根源が、宇宙の本質なのに。
<3>忍辱
よくありがちな解説本では、「耐え忍ぶこと」と書かれています。
しかし、そうでしょうか?
我慢って漢字は、我が慢心することですよね。
忍辱で僕が思い出すのは、法華経に出て来る「常不軽菩薩」です。
常不軽ですから、“誰のことも軽く扱わない菩薩です。
いつどんな人に対しても、石を投げられても、“あなたは仏になる”、“あなたを拝みます”と、言い続ける菩薩です。
5)
なぜ石を投げられる、という話がでてくるのか?
これは初期大乗仏教に対する上座仏教からの排斥を象徴的に語っているのですね。
法華経には、それまでの上座仏教に対する批判や否定が込められています。
例えば、上座部仏教には「仏になる」という思想はありません。
仏になるのはお釈迦様だけであって、あとの者は、「阿羅漢」という境地になるのが最高とされています。
これが大乗仏教になると、“誰しも仏性があるから、誰しも仏になり得る”という認識に変わります。
常不軽菩薩の物語は、“私たち大乗仏教徒は、たとえ上座部仏教の人に石を投げられても、人々に内在する仏性を褒め称えるのだよ”、というメッセージなのです。
6)
忍辱は、寒村に生まれた少女が厳しい奉公生活に耐える「おしん」の物語みたいなイメージで説明されることが多いのですが、本質はそこではありません。
(注:「おしん」は、1983~84年放映のNHK連続テレビ小説。アジア全域で大ヒットした)
忍辱の本質は、「自分の志を落とさない」こと、これにつきます。
「志を落とさないこと」が一番大事だし、大変なことだと思います。
衆生救済を「决定(けつじょう)」し、“どんなことがあっても精進し、誓願(衆生無辺誓願度=生きとし生けるものを救いたい)を実現していくんだ”というのが、忍辱の基本であり、これこそが六波羅蜜の修行。、、、、これは尊いものですね。
六波羅蜜の内、精進、禅定、智慧は、「五根五力」と同じです。
7)
無称光を卒業すると「超日月光」で、ここから八正道、
自らの生き方によって、宇宙大霊を現す、「体現位」の修行に入ります。
お釈迦様は八正道を最初に説かれました。
でも、八正道の最初の「正見」というのは、悟りの一部である「宇宙一切認識智」のことです。
だから正見は、ちまたの解説書にある、「ありのまま見ましょう」なんていう、浅い内容ではないんですね。
弁栄上人は、十二光を元に全ての仏教、すべての宗教を体系づけられました。
それは、如来様が、十二の光明をもって宇宙一切の衆生を育んでいらっしゃるからです。
また弁栄上人は、十二光の内、「難思光」、「無称光」、「超日月光」が、修行の階梯(ステージ)であることを明らかにされました。サンガの教義は、この「弁栄教学」を土台としているんです。
タオサンガの四根四力とは?
まず、金剛心力。
人間の心には、自分の心を制御したり、イメージをコントロールする力があります。
感情をコントロールすると、抑圧されて別の所に出てきたりしますが、イメージをコントロールするなら、そういう不健康なことにはなりません。
金剛心を鍛える前提としては、まず自分の心が見えなければなりません。
人間はよく自分の心をごまかしますからね。
特に言い訳をつくって我(エゴ)をごまかすことが多いです。
我に対しては、よくある反応、、、。
例えば、自分の中で言い訳をする。
見ないふりをする。
無意識では分かっていても、見えないことにする。
また、「我を出して何が悪い!?」と居直る、というのもあります。
居直りが、一番苦しいですね。
それら自分のエゴが見えなければなりません。
8)
人間の心の中には、地獄から仏まで十界すべてがあります。
お釈迦様でもイエス様でもマリア様でもそうです。
なぜあるのか、というと、これには意味があります。
人は、自分に地獄の心(人の苦しみを喜ぶ心)がなければ、地獄の心を起こす人の気持が分かりません。
誰かを殺してしまうような人の気持ちとかは、それが自分に内在していなければ、理解できない。人は、自身にネガティブな心が内在しているからこそ、そういう人の気持ちが分かるのです。
だから、自分のマイナスの部分(エゴ)を見ないようにしている人は、他者に共感できません。
誰かが「親父を殺したい」と言ったときに、「ダメだよ、そんなことを言っちゃ。
お父さんは、どういう気持で君を育てたと思っているんだ!」なんて説教しちゃったりします。
そんな対応されたのでは、父親を殺したいと語った人は、気持ちの持って行き場がなくなり、救われません。
本当に深いところで共感したら、その人はやりませんよ。
自分の気持を誰かに受け止めてもらえないから、エネルギーを持て余して、やってしまうんです。
だからこれ実は、他者の気持を受け止めない人の責任なんです。
自分にだって、ネガティブな心は内在しているのに、自分に内在するネガティブを観ず、人が表明したネガティブな気持を受け止めず否定する人は、自分の中の地獄をよそに転嫁するんですよ。
転嫁されたネガティブなエネルギーは、弱い人のところに行って、その人が犯罪を起こすのです。世の中全体から観ると、そういう構造になっているんです。
9)
地蔵菩薩とは、地獄の衆生を救うための存在です。
他者の地獄の心に共感できなければ、他者を救うことができません。
人は共感される事によって変わるし、共感されなければ変わらないのです。
ところで修行者は、共感を他者に期待するべきではない。
だって私たちは、他者に共感する菩薩になる修行をしているからこそ、ここにいるのではなかったですか?
他者への共感的想像をしようとして、学びに来たのではなかったですか?
、、、どうか最初の志をお忘れのないようにお願いします。
十界は単に上とか下とか、ステージ分けの話ではありません。
十界互具といって、十界の中に、また十界があります。
仏の中にも、地獄から仏までの十世界があり、地獄の中も同様です。
だからこそ地獄の衆生も、回向(えこう)によって救われるのです。
十界は無意識の根底にありますが、自分の我をごまかしていたら、自分に内在する地獄も仏も見えません。
だから自分の我を認識することが大前提なんです。
これこそが自分の心を育てる元なのです。
「自分の心を見通し、邪気を出さないように自分の我をコントロールする。」
利他の心になり、如来様に対面した時、我は浮き彫りになります。
もっとも、ここで言う「我のコントロール」は、世間一般で言う“我を抑える”というのとは全く意味が違います。それも間違いないようにお願いしますね。
金剛力を養うのが、タオサンガの四根四力の最初です。
タオサンガで言う“光化に住する”とは、全き平和、全き自由に住するということです。これらは大慧三昧の結果です。
10)
自分の存在を認識する事自体が、実はカルマなんです。
たしか大乗起信論だったと思いますが、「無明の風が吹くと存在が生まれる」という言葉があります。
三昧に入って行くと、自分の肉体を感じなくなります。
肉体の境界線が希薄になっていくのです。
存在全てがカルマですが、同時に、全く如来の光明そのものでもあります。
「カルマと光明の相対は実は無かった。両者は表裏一体だった」というところに気が付きます。そして、いつもこの状態になります。
ゲシュタルトの法則で有名な、ルビンの花瓶(図)は顔が向き合っているように見えるし、花瓶にも見えます。
存在も片方から観るとカルマかもしれませんが、片方から観るとすべて光明なのです。
そうすると、「カルマは悪いもの。否定すべきもの」という観念が無くなります。
善と悪の相対性から解放されるのです。“これは善い、これは悪い”という概念から自由になるのです。
そもそも、あらゆる存在は相対性を持っています
そして、相対性の根源が、如来の智慧光だとわかるようになります。
いつも光化三昧の中にいて、全く緊張がない状態にひたることによって、そこが分かってきます。
自分の中に否定するものがあれば緊張しますが、それが無くなるんです。
全てが光明だと認識した時には、何も否定するものがありません。
なにせ、カルマ自体が如来の光明なんですからね。
そして、ここに住することが一番平和なのです。
例えば「これは光明、これはカルマ」とか、「これは善、これは悪」とか、「自分の中に善いところがあって悪いところもある」というのは対立です。
でも、そもそも対立というのは言い訳なんです。
だって、そもそも自分の側に立ったものの全てがカルマで、如来の側にたったもの全て光明なんですから。
そしてついには、「カルマが実は如来の光明そのもの」というところに帰っていくのです。
11)
影は光があるからこそ生じるのです。
光の中に生きているからこそ影が生まれる。
影を見てカルマだと思っていますが、実は光が存在の実体なのです。
相対性がなくなるからこその平和だし、カルマから解放されるのです。
それで呼吸が楽になるんです。
「カルマを無くさなければ、浄化しなければ」、「これは善い、これは悪い」と戦っている事自体が、不自由です。
ごまかしているのも不自由です。
居直っているのも不自由です。
見ないふりをするのは愚かです。
戦うことは不自由なのです。
戦う必要がなくなる、常に平和と自由の中にいること。
そのために中念佛のメソッドによって大慧三昧に入るのです。
光化三昧の入り口となるのが、心をコントロールする金剛心です。
金剛心がはっきりすると、宇宙法則の根源である「剛玉」がはっきりします。
また、そこに如来様の鼻相をお迎えすることで、大慧三昧に入れます。
大慧三昧に入ったら、光化を人々に回向し、常に心が平和で自由な状態になるのです。
(合掌)