宗教感情/これからの世界に必要なのは異宗教融合の思想

これからの世界に必要なのは異宗教融合の思想
法話ライブ at 京都道場  2016年7月16日
法話:遠藤喨及


動画URL
https://www.youtube.com/watch?v=pSeY_GO_CrQ

1)宗教上の神話は無意識内を象徴している

従来の浄土教的な阿弥陀様観と、我々がやっている念仏の、弁栄教学に基づいた阿弥陀様観は、ある意味、根本的に異なっているんです。

伝統的な浄土宗の捉え方を「宗乗」と言いますが、
この捉え方だと、阿弥陀如来とは、あくまでも西方浄土に在(ましま)す仏さまなんですね。

だから宗乗であれば、阿弥陀様は、あくまでも諸佛の中の一佛なんです。
でも、弁栄教学の阿弥陀様は、宇宙の大霊であり、一切諸仏の大本となります。

また宗乗では、西方浄土は阿弥陀如来の前身である「法蔵菩薩」が建立されたものです。
宇宙に本然としてあったものではないのです。

さらに阿弥陀様は、法蔵菩薩という方が、修行の末になられたものです。
だから、阿弥陀如来は、あくまでもお経で説かれた法蔵菩薩という、神話の登場人物が仏になったもの、ということになります。

浄土教神話とは、どんなものでしょう?
それは、「法蔵菩薩と呼ばれていた方が、五劫の思惟を重ねて修行の果てに西方に浄土を建立され、阿弥陀佛になられた」です。

これは、無量寿経で説かれた物語です。
ちなみにお経はすべて物語形式で説かれています。

宗教上の神話は無意識内を象徴しているので、それはそれで、もちろん意味があります。
ですが、残念ながら、霊的な実在とはまた別の話になります。

2)これからの世界に必要なのは異宗教融合の思想

これからの世界に必要なのは、それぞれの宗教が、その独自性を主張することではなく、異宗教融合の思想なんです。

あるいは、宗教の根源的共通性の認識です。
そして、宇宙の普遍的原理を説くこと。

このためには、一旦は各自の神話(例えば、マリアの処女懐胎など)からは離れる必要があるのです。

霊的実感に基づいて、宇宙の普遍的原理に立つ、、、。
すると、宗教的神話の象徴が意味することが、かえって見えてくるということもあります。

ともあれ、従来の浄土宗の宗乗では、いわゆる“一神教”との共通原理がありません。
例えばキリスト教との一致点を見出すことができません。
だから、浄土教によって、仏教とキリスト教の融合を計ることはできません。

では従来の大乗仏教ではどうでしょう?
従来の大乗仏教が根本本尊とするのは、法身です。

これは「空」(くう)の理体です。
でもこれでは、一神教の「神さま」という概念とは、
接点が全くないのです。

もっとも、だからこそ、キリスト教嫌いの欧米人が佛教に飛びついたりすることがあるんですが、、、。

先に述べたように、浄土教全般も、キリスト教との接点は全く作れません。

今どき、「ねっ、ありがたいでしょ。五劫という、永遠とも言える長い間、法蔵菩薩という方が、私たちを救うために阿弥陀様になられたんだよ。」なんて言われても、「はあ?」という感じでしょう。

先日、増上寺のお偉い方と話をした時に出た話題なんですが、本山には、「伝統的な宗乗に則っていないとダメだ」という風潮があります。

僕が、かつて僧侶の法話の講習会に行っていた頃もそうでしたが、その風潮は今でも結構強いようです。まあ、弁栄教学を否定する僧侶が多いんですね。

ところが、本山の偉い人には、光明会(弁栄上人の教学に基づいて念仏修行する会)出身の方が結構いたりするんです。

一時は四つの本山の法主が全員、光明主義でした。
でも一般の僧侶に、弁栄教学を否定する人が多いのです。
それで、あまり明確に光明主義を打ち出せないらしいです。

「禅と念仏の間」の著者の藤吉慈海さんも、
鎌倉の光明寺(浄土宗の大本山の1つ)の法主さんで、光明主義者でした。

そして、弁栄上人の思想を「浄土教神秘主義」と称した論文を書いていました。

話を戻しますが、従来の浄土宗の宗乗である阿弥陀観だと、宇宙大霊としての阿弥陀様ではありません。コンセプト的には、「阿弥陀佛は、諸仏の中の一佛」ということになります。

でも、「諸仏の中の一佛を本尊にして念仏修行しても、三昧がどうしても深いところに往けない」と、弁栄上人に随行していた柴武三先生が説かれていました。

もっともその著書には、「しかし、法然上人にしても善導大師にしても、そこをかいくぐって、深い三昧に入られました。そして、宇宙大霊との合一を成し遂げています」等が述べられています。

が、やはり宇宙の普遍的原理を前提として、神話を捉え直す必要があります。

そして光明主義(弁栄教学)では、諸仏の中の一仏としての阿弥陀様でなく、宇宙大霊としての阿弥陀如来を本尊としているのです。

まただからこそ、従来の浄土教や大乗仏教では、接点が全く持てなかったキリスト教との共通性が、念仏によって生まれるのです。

弁栄上人の教学によって、佛教と一神教的なコンセプトとの融合が可能になった。
それはキリスト教、イスラム教神秘主義、佛教、浄土教、全てとの融合です。

そしてそれは、「本有(ほんぬ)法身阿弥陀佛」という、新しい本尊観によるものなのです。

3)阿弥陀佛を本尊とすることで、神話が提供される

弁栄教学の「本有(ほんぬ)法身」に一番近い思想を持っていた人が、従来の仏教の中にもいます。

それは、真言宗に現れた、革命的宗教者の覚鑁(かくばん)上人です。
※1095年〜1144年

覚鑁(かくばん)上人も、法然上人のように本山のトップの地位を継ぐ立場でした。
しかし、堕落した高野山に嫌気がさして、高野山内で革命的な思想を広めていくのです。

これは、堕落した比叡山に嫌気が差した法然上人に似ていますね。
ちょっと違うのは、全てを捨てて山を降りた法然上人と異なり、覚鑁上人は、高野山の中で革命を起こしていったことです。

覚鑁上人の教え弁栄教学とどのような共通性を持っていたかと言うと、例えば「大日如来と阿弥陀如来は、名前は異なるけど、本体は同じ(同体異名)」というところです。

そして覚鑁は、「密厳浄土と西方浄土も、名前が違うけど同じだ」と主張し、
念佛修行をしていたのです。

やがて高野山でも、心ある僧侶が次々と念佛を始めていき、あるときは高野山全部が念佛道場となっていたんです。

覚鑁上人も弁栄上人も、大日如来と阿弥陀如来は、同じだと言っています。
しかし、たとえ「大日如来と阿弥陀如来が同じだ」として念仏しても、本尊が大日如来だと、どうしても足りないところがありました。

さて、それは何でしょう?

まず、「大日如来は、宇宙大霊である。
そして、一切諸仏菩薩は、大日如来の分身である。」
と、ここまでは全く一緒です。

では、どこが違うのか?
同じ「念仏をする」でも、本尊を大日如来とするのか? それとも阿弥陀様を本尊とするのか? という違いですが、実際それによって、心境にはどのような違いが出るのでしょうか?

まず、拝む対象が大日如来ならば、法身という宇宙の理体を本尊とすることになります。
一方、阿弥陀様を本尊とした場合は、神話が提供されます。

それは、「念佛を唱える者には、ありとあらゆるものをさておいて、そこに阿弥陀様がやってきてお救いくださる」(十八願)という、、、物語です。

この神話が事実かどうかというより、これが象徴しているものがあります。
それは、如来様の愛、です。

念仏者は、阿弥陀神話によって、無意識に阿弥陀如来の愛を囁かれていることになるのです。

物語というのは、そのような力があるものなのです。

哲学的な理体か、愛の物語か?
人間の心が必要としているのは、後者に他なりませんよね。

4)イメージによって世界が創造されるのが宇宙の法則

先日、匹見の和田寺で、法要に集まってくれた村の人にこんな法話をしました。
<以下、法話>

「阿弥陀様ってどんな気持ちでいらっしゃると思いますか?

いつも、すごく皆さんのことを気にしていて、皆さんが一言でも”南無阿弥陀仏”って、自分の名前を呼ぶの聴いたら、すぐに駆けつけようと、思ってくれていますよ。

さて、そのことをお経ににどう書いてあるか、と言うと、法華経に出てくる話があるんです。

ある時、幼い息子を連れてお祭りに行ったお父さんがいました。

でも息子は迷子になり、お父さんと、はぐれてしまいました。
お父さんは必死に探しましたが、とうとう見つかりませんでした。
一方、息子は乞食になってしまい、その後、50年間、放浪していました。

お父さんはすごい長者でしたが、息子は乞食となり、人々に石を投げられたりしてボロボロになっていました。

ある日、お父さんは街角で息子を見つけました。
長い間探していた息子です。

お父さんは思わず声をかけたのですが、
息子は逃げていきます。
なぜなら息子は、金持ちの格好をしているお父さんを見てこう思ったのです。

“自分は乞食として、いろいろな人から散々な目に遇わされて来た。
ましてや金持ちに声をかけらるたなんて、ロクなことにはならないに違いない”、と。
だから、お父さんが近づく度に、息子は慌てて逃げていったのです。

お父さんは、「やっと50年ぶりに出会えた息子だ。何とか家に迎え入れたい」と思いつめました。

でも、いくら自分が声をかけても、息子は逃げるばかりです。
そこでお父さんは、一計を案じました。

まず、召使いにボロボロの格好をさせて、“便所掃除の仕事があるから来ないか?” と持ちかけたんです。

すると息子も“それなら”と屋敷に来ることになりました。

息子が便所掃除していると、時にはお父さんも同じ格好になって、一緒に掃除したりしていました。

そうして色々な仕事をさせ、何年かたって息子が番頭になったある日、屋敷の人間を全員集めます。

そして、“これは幼いときに行方不明になっていた私の息子だ。
私は、全財産をこの息子に継がせる”と皆の前で宣言するのです。

これが法華経に出て来る、長者窮子(ちょうじゃ・ぐうし)の話です。
ここで出てくる父親とは、仏様に他なりません。
そして行方不明になった息子とは、お浄土から迷い出た、私たちのことに他なりません。

面白いことに、聖書では、イエスがした説教の話に、これと非常に似たものがあります。こちらは、「放蕩息子の話」です。

ある兄弟がいて、お兄さんは不良息子。
放蕩の限りを尽くして家出して何年も帰ってきませんでした。
一方、弟の方はお父さんのそばにいて、真面目に家の仕事を手伝っていました。

ある日お兄さんが、ボロボロになって帰ってきます。
すると、お父さんは喜んで、”お祝いしよう!”と、羊を締めて大ご馳走を作らせました。

弟は面白くありません。
そして、お父さんに言いました。

“僕はお父さんのそばでずっと仕えていました。
でも兄貴は、さんざん好きなことをやって借金を作ったりし、ボロボロになって帰って来ました。

不公平です。今までお父さんの言いつけを何一つ守らなかった兄さんに、なんでそこまでするのですか!?”と、文句を言ったのです。

お父さんは、“何を言うか。お前はずっとオレのそばにいて心配なかったけど、ずっと心配していた息子が帰ってきたんだぞ。こんな嬉しいことは無いんだよ”と答えました。

、、、イエスは、それが神様の気持ちなんだと語ったのです。

すなわち、長い間生きていて、神さまのことなんか何一つ考えなかったような人でも、たとえ死ぬ直前でも、神さまのことを想って祈ったら、神さまは神の国に喜んで迎えてくれる、と。

だから皆さんが、娑婆という、お浄土から遠く離れたところにいたとしても、阿弥陀様は、ずっと皆さんがお浄土に帰るのを待っていてくれ、一言でも念佛を唱えたら、阿弥陀様は必ず飛んできて、迎えに来てくださるんです。

それくらいの想いで、ずっといて下さっているのが阿弥陀様なんですね。」
<以上、法話>

また、神様や仏様をありがたい存在として親しみをもって感じるようになるには、やはり、聖書や法華経で説かれている物語の、お父さんのようなイメージが必要です。

哲学的な表現で、「一切即大霊」、「大霊即空」、あるいは「宇宙の理体」といわれても、“なんて、ありがたいことだろう!”なんていうような感動的な気持ちや、宗教感情はとても湧いてきませんよね。

やはり、どんなになっても助けてくれる、救ってくれる阿弥陀様のようなイメージや物語というものが必要なんです。

なぜなら、イメージによって世界が創造される、というのが宇宙の法則(これを空という)だからです。

5)イエスと法蔵菩薩

阿弥陀様は、十二の光明をもって衆生を育てて下さいます。
それを讃嘆するのが、私たちが毎回行っている、十二光礼拝です。

それによって一切衆生に向上がもたらされるんです。

これは聴いてもチンプンカンプンでしょうから、ぜひワークショップで皆さん体験して頂きたいのですが、十二光礼拝の氣のメソッドがあります。

まず、遊心の中の霊核(霊的な核)を気でもって認識します。そしてその中に、如来様の唇の相(口唇相)を投入して、賛嘆するのです。

さて、弁栄上人が十二光礼拝を歌にしてくださっています。

「♪本有法身阿弥陀尊  迹を十劫に垂れ在し
 本迹不二なる霊体の 無量寿王に帰命せん」

ちょっと意味がわかりにくいかも知れないですね。
ですから、ここに書いてある意味を織り交ぜながらお話していくことにします。

今出て来た、「無量寿仏」とは、”永遠の命を持つ仏”という意味です。
阿弥陀様の時間的側目を表しているのですね。

これに対して「無量光仏」とは、量ることができない、すなわち”無限の光を放つ仏”です。阿弥陀様の空間的側目を表していますね。

さてお経ではどう書かれているでしょう?
浄土三部経では、アーナンダがお釈迦に、”阿弥陀様はいつからいらっしゃるのですか?”と聞いています。

お釈迦さまは、こう答えました。
「阿弥陀様は、かつて法蔵菩薩だった。
一切の人々のために、五劫という長い間、思惟され、苦しい修行をされた。

そして、自分の名前さえ唱えたら、誰でも往くことができるお浄土を建立した。
そこは、どのお浄土よりも優れた素晴らしい世界だ。

阿弥陀様は、すでに十劫の昔から、人々がその浄土に来ることを待っている」と。

阿弥陀様は、本当は宇宙大霊の本体です。
だから無始無終で、永劫の存在です。
お経に書いてあるように、かつて法蔵菩薩だったわけではありません。

でも、阿弥陀如来とは、宇宙大霊の理体だ、と言われて
宗教感情が沸くということがあるでしょうか?
、、、ないですよね。

だから、ここで法蔵菩薩の神話が出て来るです。
それは、「法蔵菩薩は、我々を救うために、五劫もの長い間苦労して修行され、そして阿弥陀様になってくださった、」という物語です。

そして、「たとえ臨終にでも念佛を唱えたら、すぐに阿弥陀様はいらっしゃるんだよ」と言う教えが納得されるのです。

法蔵神話は、人間の心が、理屈を超えた霊的跳躍を受け入れやすくするためにあるんですね。

一方、キリスト教は、イエスが人々の罪(人類のカルマ)を消すために十字架にかかった。私たちの罪を背負って、自らの苦しみであがなって下さった、というのがパウロ・キリスト教の教義です。

これは、キリスト教徒が“神への愛”という宗教感情を抱くためには必要な物語なんですね。

実際イエスは、未来にそのような教義になることを見越して、自らの人生をかけて、その物語を演じたのです。

まただから、死ぬ前でもいいから、罪を告解して懴悔すれば、イエスの救いの力によって天に生まれることができる、というのがその教えの本旨なんです。

イエス様が我々のために苦しんで、十字架で死んでくださった。
だから私たちは罪を告白をして信仰を持てば、救われるんだよ。
神さまは、人間への愛が故に自らイエスとして生まれ、自らを犠牲にして、その門を開いて下さったのだ、と。

これは神への愛という宗教感情を持たせるのための物語です。
これによってキリスト教は成り立っているのです。

したがってイエスは、神さまが人間として受肉(生まれた)した存在です。
”神さま自らが、イエスとして生まれ、イエスとして苦しんで死んだ。
それによって、人々は救われるようになった”。
これがキリスト教です。

ちょうどこれは、阿弥陀様がお釈迦様として生まれた、という仏教の物語と符合します。

弁栄上人の十二光の歌に、
「♪本迹不二なる霊体の 無量寿王に帰命せん」
という下りがあります。

「十劫に垂れ在し」というのは、先ほど申し上げた、お釈迦がアーナンダに言った、
”十劫前から阿弥陀様が在す”ということです。

この一劫とは、400里四方の岩に3年に一度舞い降りる天女がいて、その羽衣が擦ったことで、岩が全部擦り切れるまでにかかる時間です。ま、途方もない永い時ですね。

しかし、単に「宇宙大霊は、無始無終ね」と言われても、宗教感情は湧きません。

でも「阿弥陀様は、十劫も前から、自分のことをずっと待っていてくださったんだな」と想うことで、宗教感情、阿弥陀様への感謝やありがたさ、愛といったものを感じることができます。

6)人が如来の愛に目覚めるとき

前回お話しましたが、「阿弥陀様の大霊が、法蔵菩薩としてお生まれになった」、という弁栄教学の解釈と、「神さまがイエスとしてお生まれになった」、というのは、無意識内では同じものです。

そして法蔵菩薩は、私たちの心のなかにあります。
つまり、阿弥陀様の大霊は、私たち1人1人の心の中に、法蔵菩薩として、一切の救いを願う心として、存在しているんです。

だから私達が、一切衆生の救済を願って念佛することで、我々の心が阿弥陀様化する。これが、念仏三昧なんです。

また別の十二光の歌ですが、
「♪十方三世一切の  法報応の本地なる
 独尊統摂帰趣に在す 無量光を頂礼す」

十方、というのは宇宙一切です。
四方八方に、上下を足して十方なんです。
三世、とは過去現在未来です。

法報応の本地とは、阿弥陀様が、
1)法身(宇宙大霊)の根源である。
2)報身(お浄土の中心/宇宙の中心の仏様)の根源である。
3)応身(お釈迦様)の根源である。
ということです。

阿弥陀様は、あらゆる創造の元となる大霊の根源で、お浄土の一切の佛様方の根源です。

そして一切の存在を自分の身元に置いて、無限に幸せにしてくださいます。
阿弥陀様に近くなればなるほど、幸福感が増していきます。

でもこれ、逆に思っている人が多いようですね。
エラくなるほど硬くなっていく人とかは、完全にカン違いしていますね。
本当は、阿弥陀様に近くなるほど、喜びに満ちて、自由になるのにな。

十二光の歌、
「♪独尊統摂帰趣に在す 無量光を頂礼す」
阿弥陀様は、一切諸仏の根源です。

その如来様は、私たち一人ひとりに、全分に思いをかけてくださっている。
本当は、宇宙は、一人一人を中心にして回っています。
そして、一人一人のために教えの全てはあるんです。

三世の諸仏も、お釈迦様も全部その実感をお持ちです。
それが故に、阿弥陀様を賛嘆するのです。

「法蔵菩薩の五劫の修行は、親鸞ただ一人のためであった」、という親鸞上人の言葉がありますよね。

阿弥陀様の愛は、大勢に対して分散して向かうのではありません。
自分一人のために、全部の愛を尽くしてくださっているのです。
いつしか、そのような自覚が生まれ、人は如来の愛に目覚めるのです。

(合掌)