人生を自由にする悟り
法話ライブ at 京都道場 2016年7月23日
法話:遠藤喨及
動画URL
https://youtu.be/VUpAowcDZ_o
1)人が時間をどう扱っているかは、その人が命というものをどう見ているか
さて、人の生き方は、その他、何に顕著に現れるかと思いますか?
、、、普段どのように時間を過ごしているか、です。
同じ5分でも、人によってはすごく密度が濃い。
でも、薄っぺらな5分を過ごす人もいます。
客観的な時間はあまり大きな意味を持ちません。
イエスはたった33年の人生でした。
けれどもその教えは、2000年たった今も生きています。
そして、人間同士の波長が合うっていうのは、結局、同じ時間の密度を持っているということなんです。
時間の密度が同じだから、お互いに波長や話が合って、気持ちよく付き合えるのです。
その人が時間をどう扱っているかは、その人が命というものをどう見ているか、人生をどう大事にしているか、です。
“人生なんか、いつ終わるかわからないんだから、とにかくこの瞬間を燃焼し尽くそう”。そういう生き方をする人もいます。
一方、“まあいいじゃないの。テキトーにやれば、、、”という人もいます。
これは、文化によっても違います。
例えば、アシタマニアーナ(Hasta Manana)というスペイン語は、“また明日ね”、という意味です。スペインでは行政なんかでも、よく言うらしいです。
インドで銀行に行って、同じようなことを言われてしまったことがありました。
トルコには「明日できることは今日するな」という諺もあります。(笑)
僕も、そのノリはそれで結構好きなんですが、、、。
でもまあ、禅だったら、そんなこと言ったら、一発張り飛ばされますね。
なにせ「無常迅速、光陰惜しむべし。
この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん」ですから。
これは、佛教一般の言葉で、起床時に唱えたりする文言です。
意味は、、、“時間はすぐに過ぎ去ってしまう。今回の人生で彼岸に渡らなかったら(悟りに至らなかったら)、いつの人生で自分の存在を彼岸に渡すんだ?”という意味です。
でも、“いつかは修行しよう”。
“いつかは真剣にサンガをやろう”という人は多いですね。
「いつか」は、英語で、“Someday”と言います。
だから僕は、“いつかは真剣にサンガの修行をしよう”と思っているだろう西洋人にはこう言うんです。
“Monday, Tuesday,…Sundayとあるけど、Somedayって無いんじゃないの?”って、、、。
“いつか”と思って先延ばしにしていても、その“いつか”は永遠に来ないから、、、。
2)「自分の人生において主役を張る」ための修行
“燃焼するような生き方をしていて疲れるんじゃないですか?”と聞かれても、
“そういう時もあるけど、基本そうでもない。”と答えます。
だって本当は、不完全燃焼で生きている方が、邪気が積もってきて、かえって疲れるんですよ。
“ムリしない”、“頑張らない”、“ほどほどに”、の方が楽だと勘違いしている人が多いんですけどね。
生命エネルギーは出さないと入って来ないんです。
だから自覚のない不完全燃焼こそが、自覚のない疲労を生んでいるんです。
“いつか・・・”の成れの果てはどうなるの?”って思いますよ。
本当は、坂本龍馬のように「たとえどぶの中でも、前のめりになって死にたい」という生き方の方が、エネルギーに溢れている。
まただからこそ、未だに坂本龍馬は日本人に人気があるんです。
坂本龍馬がフリーメーソンだったかどうかは、わからないけど、、。(笑)
3)自分の想いによって人生を創る
さて、衆生とどう関わるかですが、氣コミュニケーションのメソッドも、今、完成しつつあります。
実際やってみると、皆さんどれもメチャクチャ面白がりますね。
人として学ばなければならないことの一つは、人とどうコミュニケーションするか、ということです。
例えばグループになったとき、自分が「その他大勢」になってしまい、無責任に場の空気に任せてしまう人がいます。
実はそういう生き方というのは、自分の人生なのに、自分は主役を張っていないということなのです。
自分の人生で主役を張っている場合には、誰がどう思おうと関係ない。
その場において一番必要なことをするだけです。
道化だろうと何だろうと、みんなを楽しませます。
「自分の人生において主役を張る」というのは、自分の想いによって人生を創っている、ということです。
4)どの人も自分を中心に宇宙は回っている
世界は自分の投影でしか無いのです。
人は互いに投影し合っていて、共通部分だけを世界として認識しています。
人にはそれぞれ自分の宇宙があって、他の人との共通項だけを、それぞれが自分の宇宙の中で見ているのです。
今見ている世界の全部は、自分の宇宙なのです。
宇宙は一つじゃないんです。
無限に無数にあるのが宇宙なんです
そして無限であってなおかつ一つ。
一つということはイコール無限なのです。
だから、どの人も自分を中心に宇宙は回っている、ということなんです。
全部自分のために用意されているんです。
それがやがて分かってくるんです。
もし人生が、「世界により向上をどうもたらすか?」のためだったら、
その人が生きている時間の密度には、エゴが創る隙間が全く無いのです。
そのすき間の無さが、タオ指圧の深さになるのです。
これも自分と宇宙、自分と如来様の関係です。
自分と如来様の間にすき間があれば、そこに邪気邪念、不安恐れなど、
様々なマイナスのものが入り込んできます。
念佛、タオ指圧、コミュニケーションは全部一つで、この3つにもすき間がないようにしなければなりません。
そして、この3つを中心として、気心道があったり、チャトランガ・ゲームがあったりするんですね(笑)。
5)ゲームを通して子供達に学んで欲しい
チャトランガって、将棋とちがって、サイコロを使うでしょう?
これ実は指圧と同じで、ゲーム相手を通して、運気とか自然とか、そういうものと交流する行為なんですね。
チャトランガのルールにはいろんな意味が込められています。
例えば、少ないもののほうが価値がある、という経済の法則があるでしょう。
だからわざと「砲兵」のコマを少なくすることで、価値を出したんです。
というのは、世間では、少数派、マイノリティというのは蔑ろにされます。
でも、その少ないものにこそ本当は価値があるんだ、というメッセージなんです、これ。
なんちゃって、こじつけだったりしてね(笑)
でも、見えない手の働きによって、結果的にそういうふうになった、というのは事実です。
その他、「爆撃機」のコマは一番強力なんですが、一機だけだと全く力がないんです。
すぐに、戦闘機なんかにやられてしまう。
でも、これが二機とか三機になると、これほど恐ろしいコマはないというほど強くなります。
これは、“みんながまとまることが、どれほど力を持つかを理解してね”、というメッセージ。
ゲームを通して子供達が、こういうことを学んでもらえたら、と思っています。
6)宇宙そのものが、悟りの大霊。そこから天地万物は創造されている
さて話を戻すと、如来様は十二の光明によって、私たち衆生を育てて下さいます。
まず無辺光についての話から始めますね。
無辺光の内容は、宇宙大霊の四大智慧(しだいちえ)です。
我々は「宇宙」と聞くと、モノとして思ってしまいますが、実は霊体なんです。
どういう霊体かというと、悟りの状態です。
宇宙そのものが、悟りの大霊であって、そこから天地万物は創造されているのです。
私たちは人間ですから、どうしても人間の意識を持ちます。
それで、人間の意識レベルで、如来様の意識というものを捉えてします。
それでは、真の理解には程遠いのです。
宇宙大霊は、悟りそのものの意識です。
もっとも「意識」と言っても、自分と同じ人間のレベルでその意識を捉えてはならないのです。
宇宙大霊は、絶対の不識精神なんです。
悟りというと、誤解して、つい人間レベルの悟りと考えてしまいますが、、、。
宇宙そのものが、四大智慧という悟りの霊体でできているのですから、
人間が偉くなって悟りを啓くわけではないんです。
我が抜け落ちて、本来性である四大智慧が現れるのです。
今述べたのが法身の四大智慧で、これと報身の四大智慧というものがあります。
後者は、人間の心を悟りへと導き育てていく、目覚めさせていく、という働きをします。
これがどういう内容になっているか。今日はさわりだけお話します。
7)外の世界をイメージで創り出す
我々が中念佛によって頂く目覚めが、「平等性智」ですが、
陰念仏によっていただく智慧が「大円鏡智」です。
大円鏡智の哲学的な説明は、主観観念と客観観念から始まります。
観念はイメージという意味で、主観観念は、我々の内的なイメージです。
客観観念とは、外の世界のことです。
つまり、我々は客観的な外の世界を物質だと思っていますが、実際には我々の主観の投影で見ているに過ぎないのです。
主観のイメージが映し出して見ているので、これが外界を創っているともいえます。
世界は実際には無限で、地獄から浄土まで無限の三千世界が写し出されるのです。
ただ、自分の内的なイメージを投影した部分しか、私たちは外界として認識しません。
無限の世界があるのですが、その一部しか認識していないのです。
もちろんお釈迦さまは、一切認識智を得ていらっしゃいましたから、宇宙一切を自己の心中として認識されていました。
主観観念(イメージ)と客観観念(外界)の根底には、ただ一つの如来様の絶対観念があります。
我々はイメージというと、どうしても心のなかのものであって、外とは無関係と相対的に思います。
ところが、相対を超えたイメージというものがあるんです。
そして、如来様の絶対観念が、ありとあらゆる創造の源泉なのです。
だから三千世界のすべてが、相対を超えた如来の絶対観念によって創造されているのです。
我々も、主観観念と客観観念の根底の絶対観念とつながっています。
そしてそこが開かれてくると、外の世界を映し出すように、創りだすことができるように、人生がより自由になっていきます。
8)世界の全てが自己の心の中の出来事
客観観念が物質であるとか、絶対的なものであるというように思いがちです。それは認識がカルマに縛られている状態です。
そして、「外の世界が強固なものである」という思いと、自分が自分の人生の主役を張っていないということとは、シンクロしているのです。
“世界は自分の心の投影であって、自分の心が創り出している”ということが基本認識になったとき、世界の全てが自己の心の中の出来事だし、自らの責任ということになります。
実は、その責任を無意識に回避するために、外の世界を物質的、絶対的なものと誤解し、外界に対して受け身になるのです。
自分の人生で主役を張らず、受け身として生きる、ということは、カルマに対して受け身になるということです。
逆に、能動的にカルマを超えて生きる、ということは、自分が世界に対して責任を持つこと。
また、だからこそ、人生が自由になるのです。
自由になるということは、ある意味ではすごく大変なことです。
なぜかというと、カルマが大変なのです。
実際には大変ではないですよ。
カルマから解放されていけばいくほど、よっぽど楽しいし、自分の想いを変えられるほど自由になってきますから。
「ポジティブになりたいけど、なれません」とか、「やろうと思っているけど、できません」とかいうのは不自由でしょう。
でも我々は、自由を手にするために修行しているのですよ。
自分が人生で主役を張るということは、コミュニケーションにおいても、念佛においても、タオ指圧においても、関係しますよ。
“その他大勢として生きる”のを拒否する、ということは、霊的に生きるということなんですから。
9)人は、自分の心の鏡として世界を見ている
悟りが啓けてくると、大円鏡智に目覚めてきます。
「大円鏡智」とは、絶妙なネーミングだと思いますね。
無限円の鏡が、宇宙だということですから。
これは、「自分の想いが一切に反映され、一切が自分の認識として現れる。」ということです。
客観と主観の相互で世界が成り立っています。
でも、外界の認識を自分で創っておいて、それを思い込んで縛られ不自由になったりなど、色々あります。
宇宙は合わせ鏡のような関係です。
人は、自分の心の鏡として世界を見ているのです。
どうすれば、そういう風に心が啓けてくるのか、というと、
陰念仏の修行法です。
それは、例えば、切心において他の存在を心のなかに入れるとか、、、。
あっ、これは氣のコミュニケーションの基本でもありますね。
その状態の中で、他者の救い、一切の救済を祈願していく。
切心の奥にある宇宙の中心に如来様の白毫をお迎えし、それによって霊のからだと如来様の尊顔が一体化していく。
それによって救われなかった霊の救済が起こります。
そうしていくことによって、主観と客観の根底にある絶対観念が、
自分の中に入って来るのです。
10)宇宙には、逆転の逆転の世界が用意されている
天台宗では一念三千と表現しますが、一つの念が三千世界に直結している。
そしてそれが、三千世界を創っているということです。
“私一人のために如来様は、宇宙を用意してくださっている”という実感であり、なおかつ、宇宙は一つであり、無限の宇宙であるということです。
大円鏡智を啓くのは、天台宗の修行の目的でもあります。
平等性智は禅宗、妙観察智は真言宗、成所作智は浄土宗。
弁栄上人は四つの智慧を円満に啓いて目覚めていくのが、念仏三昧であるとお説きになりました。
四大智慧 | 念佛 | 宗派 |
平等性智 | 中 | 禅宗 |
大円鏡智 | 陰 | 天台宗 |
妙観察智 | 陽 | 真言宗 |
成所作智 | 融 | 浄土宗 |
※各宗派の宗致(修行の目的)、四種念仏、四大智慧の関係
さて、他者の問題を人ごとにせず、全てを自分の問題として捉える。
そういう生き方をする、そういう修行をする。
だからこそ、客観観念(外界)は自分の心の投影である、という世界が心が啓けてくるのです。
人の苦しみを“人ごと”としている限り、いくら哲学的に理解しても智慧は啓けてきません。
人の苦しみを、切心において我が事とするからこそ、客観観念と主観観念、外界と内界が即一で、その奥に在(ましま)す、如来様の絶対観念の大愛が啓けてくるのです。
だからこそ、あらゆることが自由になっていく。
宇宙には、人生には、そんな逆転の逆転の世界が用意されているのです。
(合掌)