和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。
喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?
遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/
第三十六回
――前回、住職は「自分の人生美学として、自分の身の安全を計るというのが、どうにも自分的にかっこ悪い気がしてダメなんですよ」とおっしゃっていました。
住職:ああ、そんなことも言いましたっけ、、、。
――インドの旅だけでなく、パレスチナでのデモ参加などの住職の行動や、また日頃の活動も、その美学があるからこそという気がします。
住職:そうですか、、、。
―― 一般に人は、誰かに何か問題があっても、「とりあえずここは引っ込んでいようとか、仕事で給料もらっているんだから仕方ないとか、見てみぬ振りしてしまうとか、この人についていれば安全だし」とかを計算し、保身に走ってしまうことが多いですよね。
住職:なんか、よくあるみたいですね。
――本人も、後味が良くないから後悔するかもしれませんが、、。
だから、後で弁解したり、とか。
住職:ふふ。
――いったい、人は、そういうことから自由になれるのか?
それとも、「人生 はこんなもんだ」とあきらめていくのか、、。
住職:それは、人によって違うでしょうね。
――この「計算する心」は、なくなるものではないですよね?
でも、それに負けたくないという気持ちも、人にはあると思うのです。
住職:いやー、「負けたくない」という時点ですでに負けているのかも、、、。
――すでに、負けている、、。では、勇気なのでしょうか?
住職:勇気というよりも、未来の予測ではないでしょうか?
――計算はすれども、、、。
住職:計算というのは、目先の損得ですから、未来を予測した上でのことではないんですよ。
――なるほど。
住職:予測というのは、たとえば、「今ここで、自分が行動するか、あるいは行動しないか。」それにによって未来はまったく違ったものになりますよね。
――はい。
住職:それで、、、今の自分の行動(あるいは不行動)で、未来の自分はどうなるのか?
これを予測しているかどうか、なんですよ。
――目先の損得を計算する心は、もう無意識的に習慣化しているところがあるかもしれませんが、未来予測は、意識的にしないとならない気がしますね。
住職:多くの人が、“今の自分だったら、この先はどうなるのか?”
という未来イメージを持たないまま、受け身的に日常に流されて生きていると思うんですよ。
――ええ、、。よほど、その日常を揺るがすことがない限り、、。
住職:その「受け身」というのは、過去に対して受け身というのであって。
「未来を創る」というものではないんですね。
――過去とは、過去の記憶という意味ですか?
住職:記憶というよりは、イメージですね、無意識の、、、。
そして過去のイメージは、どちらかと言えばネガティブなものです。
――どうしてネガティブなものなんですか?
住職:人類には、原始時代の食うや食わずだった生活体験の記憶が、DNAに染み付いています。
だから、過去の恐怖を元に、未来をイメージする」という心の傾向を持っているんです。
――それも、未来の予想ではないんですか、、、?
住職:残念ながらそれは、健康的で冷静に「こうしたら、こうなる」と、智慧をもって未来をクリエイトするための 「予測」ではなく、過去のネガティブ・イメージに支配された暗い予想です。
そして、未来が恐怖のイメージだから、つい目先の損得や、安全の確保に心を奪われるのです。
これは、これは悪くいえば、人間の持つカルマなんですよ。
――ああ、それはわかるような気がします。というか、よくわかります(笑)。
住職:それで未来が良くなるなら良いのですが、不思議なことに、目先の損得や安全の確保に心を奪われて、日常に流されて生きていると、だんだん人生が暗い方に流れていってしまうんですね。
――でも普通は、そういうことって考えないですよね。
自分は犯罪も犯さずまっとうに生きているとか思っていて、、。
住職:そうそう。「平穏な日常」というテレビドラマみたいな幻想を、全員で共有しているのが世間だから。
――計算する心も、その日常の中にまぎれてぬくぬくと、、。
全員が共有していたら、別にいいか、、ってなりますよね。“まあ、
人生そんなもんだ”と思っていたら。
住職:それと人間は、日常に流されて生きていると、このままの状態がずっと続くという幻想を持つんですよ。
――どうしてですか?
住職:先に言ったように、人間には、未来に対する恐怖が無意識にあるからです。
それは現代においてもなお引き継がれています。いわゆるみんなが抱いてる「いつか食えなくなるんじゃないか」という恐怖です。
――ああ、なるほど!現実に対して幻想を持つことで、まやかしの安心の中に逃げ込もうとするんですね。
住職:もちろん、その根底にあるのは、根源的に持っている死の恐怖なんです。
――はい。
住職:まあ言わば人間は、原始時代から背負って来た、食えなくなるんじゃないか、という恐怖感と、根源的な「死の恐怖」の両者を抱えているんですよ。
――なるほど。
住職:いつまでも続くという幻想を抱き、年齢と共に暗くなる人生を共有する世間から解放されるには、根源的な死の恐怖に対する処方箋を手に入れなければならないんです。
――はい。
住職:また、根源的な死とどう向き合っているか?は、「未来をどう予測して人生をクリエイトしているのか?」とも、同一線上にあるんですね。
――そうなんですか。
住職:死に対する処方箋を持たず、死が暗いイメージのままであれば、未来は恐怖です。
だから、この日常がいつまでも続くという幻想を持つし、未来をクリエイトするために予測する、という智慧の目は開かれません。
それではいつまでも外界や周囲の人間、また世間に対して、受け身のまま生きることになります。
――そしてその結果、人生が暗い方に流れていくんですね。うーん、
なるほど。保身に走る、というのは、その辺から来ているんですね。
住職:はい。先にも言いましたけど、「人生をクリエイト(創造)しよう」と思って生きているかどうかは、生の有限性をどこまで自覚して、どこまでこれを意義ある尊いものにしようとしているかによるんですね。
――なるほど。
住職:例えば、自分自身が心から納得するような芸術作品をクリエイトしようと思ったら、無意識にでも、完成イメージがなくてはできませんよね。
――確かにそうです。
住職:人生をクリエイトするというのも、これと同じです。ところで、「人生をクリエイトする的な生き方」をしている人は、心のどこかに作品の完成イメージを持って行動しているんですよね。
――はい。
住職:そして、実はその完成イメージというのは、自分が、死において自分の人生をどう納得するか(完成するか)、ということでもあるんですよ。
――死において、なんですか!? んー、、。
住職:たとえ人生をクリエイトして生きている人でも、これを意識的に気がついている人は、少ないかも知れません。
でも、実はそうなんです。
――そうだったんだ、、、。
住職:人生という作品は、本当は死において完成するんです。
自分の人生を振り返った時に、自分がどう納得したか、という。
――、、、。
住職:そして、クリエイトされた作品であるならば、死は「暗い影」という世間一般が抱くイメージではなく、逆に明るい光のイメージなんです。
――へぇー。
住職:生きている間の人生に対してもそうですが、死のイメージを明るく光に変えるのが、人生をクリエイトする、ということでもあるんです。
――なるほど、そうなんですか、、、。
住職:だから、自分の人生を芸術としてクリエイトした人の作品(人生)は、、、、。
生きている間だけでなく、死後もなお、人々に感動やメッセージを与え、また、心を照らし続けるんですよ。
――そうですね、時間や時代をすら超えていますものね。
もちろん、“死んだあとなんて、どうでも良い。生きているときに楽しまなきゃ、損 ”という人は多いと思いますが、、、。
住職:そういう生き方だと、逆に宇宙の法則として、人生も死も暗くなるんです。
これは「鶏と卵」ではあるんですが、人生の本当の楽しさや喜びを知らないから、そう思う、ということもあるんですよ。
――そうですね。本当に楽しかったら、”楽しまなきゃ”とか思わないですものね。たしかに、“人生楽しまなきゃ、損”って言葉。聞いていて、なんとなく暗く虚しい響きがありますし
住職:人を幻想から無理に起そうとは思わないですが、正直、気の毒だとは思います。
――受け身的に日常に流されて生きるのではなく、本当の人生の楽しさや喜びは何かを、自覚的に、とことん追求して生きなくてはならない、ということですね。
住職:人生をクリエイトする生き方でなければ、楽しさや喜びも追求できないですね。
――はい。
住職:また、人生に作品としての完成イメージが、漠然としてでもないと、どうしても、少し先の未来のイメージや、自分がこの先どうなっていくのか等に目がいかないんです。
――ああ、そういうことなんですね。
住職:はい。
――未来のイメージが自分の中で明確でないと、今、目の前にある「自分のための日常をつつがなくやる」ということに終始しますものね。
でも、「自分のための日常」でよしとする人生もありますね。
住職:まあ、それは人それぞれなんで、、、。
――でも、せっかく人として生まれて、もったいない気がしますね。
人生をクリエイトせずに、利他や大義よりも、自分の保身のために生きるというのは。
住職:まあそうなると、人生は過去のカルマの延長で流れていきますからねぇ、、、。
――それでなんですかね。本当は冷静に考えれば、このままだと人生どうなるかぐらいはわかるのに、なかなか人は、“自分の未来が、だんだんどうなっていくのか”が見えてこないのは。
でも、未来への漠然とした不安はあるでしょうね。
住職:はい。でも、その不安に向き合わないと、人は幻想の中に逃げてしまうのです。
――先ほどもおっしゃっていましたが、幻想と不安を共有しているのが世間なんですね。
住職:そもそも、世間や損得や日常を忘れて打ち込まなければ、芸術作品をクリエイトすることはできないしなあ、、、。
――本当にそうですね。
住職:ただ僕の場合は、そんな芸術作品なんていう立派なものではないですよ。ようするに、自分に対して自分 を誇れないような、「カッコ悪い」生き方はイヤだしなあ、というのがあるのと、、、、あとはまあ、死ぬときには、「もうちょっと本気だせば良かったな」とか後悔したくないな、というのがあるだけなんですよ。
――そうですか、、、。
住職:カッコ良いか悪いか、とかは、世間とか人さまに対してでは、全くないんです。
あくまでも、心の奥底の「自分」と向き合った時にどうか? 自分を許せるのか、後悔しないのか? 誇れるのか?
あくまでも奥底にある、自分自身が基準なんですね。
――その奥底の自分自身とおっしゃるのは、死に向き合った自分とか、仏に向き合った自分という気がしますが、、?
住職:ああ、なるほど、、、そうか! それで前から、“戦友みたいな友だちづき合いが人とできたらなあ” と、漠然と思ってきたんですね。
――たしかに死と向き合う戦場は、その人となりが最も顕われるところですものね。もう後がないという場面で顕れる、、。
住職:そうそう。戦場にはいろんな人がいます。安全パイを握って離さない人や、敵前逃亡する人もいる。い
ざとなったら、負傷した人を置いて自分だけ逃げる人もいる。
しかし、負傷した戦友を助けて、最後まで一緒に闘う人だっています。
――はい。戦争はイヤだけど、たしかに人生で、最後まで助け合って一緒に闘う戦友みたいな友だちづきあいができたら素晴らしいでしょうね。
住職:はい、「戦友求む」常時募集、です。
―続く―