ーー 住職の最近の法話ライブ
(『カルマはいかに変えることができるのか』)で、
“人類は本当の意味で幸福を体験していない”
と話されているのを聞いて驚きました。
人間は、すくなくとも近代以降の人間は、
「幸福」を追求してきたと思います。
「宗教」というものも、やはり人間の
幸福の追求が目的なのではないか・・
と思います。
私たちが幸福と呼んでいるものは、
じつは、幸福ではなかった、ということ
なのでしょうか?
住職: 僕は、”人類には幸せの定義が
まだできていない”と思っています。
どうしたら幸せになるのか?を
テーマにした「幸福学」という学問が
あっても良さそうなものですけどね。
ーー そうなんですか?
住職: しかし今どこにも、
幸福学を学ぶところはない。
そもそも、あったとしても実践する人は
少ないでしょうね。
ーー どうして、また?
住職: タオサンガ道場で教えているのは、
まさに幸福学なんですよ。
例えばその実践の1つは、
「目の前にいる人の未来に、肯定的な関心
を持って差し上げ、明るく質問して、
その話を聞く」
なんていう簡単なことです。
しかしそれですら、ちゃんとやる人は少ない。
逆に、相手に関心を持たず、
重くるしい沈黙が漂っても、
平気な人がいます。
まあ、それはともかくとして、
例えば今は、幸福の定義すら明確では
ありません。
ーー どういうことなのですか?
住職: 「お金だったり、食べ物だったり、
仲の良い友だちだったり」、誰にとっても、
無いと困ったり、苦しかったりするもの、
ってありますよ。
ーー はい。
住職: 人は、不足するものがあると、
生きるのを困難に感じます。
それらが満たされた瞬間、
人の脳には、快感物質が分泌されます。
つまり幸福感を感じるわけです。
ーー はい。
住職: そこで人は、不足が満たされること
が「幸福」だ、と無意識に刷り込むのです。
その結果、どうなるかと言うと、人が、
自分の幸せな未来をイメージした時は、
「今の自分にはないものがある状態を考える」
のです。
”XXがあれば自分は幸せだ”という風に。
ーー そうですね。
住職: 「幸福とは、不足が満たされること」
と定義している限り、無意識の不幸感は
避けられないのです。
ーー どうしてですか?
不足が満たされた瞬間は、
脳内快感物質が出て幸福感を感じます。
しかし時間が経てば当たり前になり、
幸福感を感じなくなります。
しかし人は、テレビのCMやSNSを見ます。
そしてタレントまたは他の人が、
脳内快感物質を出して幸福感を感じている
(と想像される)、楽しそうな情景を見ます。
そこで、「自分以外のみんなは幸福だろう」
という幻想に陥るのです。
皮肉なことに、この幻想は、世の中全員が
共有しています。
ーー ああ、なるほど、、。
住職: 本当は人は、気づかなければ
ならないのです。満足と幸福は別腹だから、
人間は一時の満足よりも、真の幸福を求める
べきだ、と。
ーー 別腹だった、、、。
住職: となると、一体、真の幸福とは
何なのか?
これを人は体験しなければなりません。
ーー そうでないと、生涯、一時の
脳内快感物質を求めて、不幸感を抱えて
終わる人生になってしまいますね。
住職: 「宝くじにあたった!」とかで、
感じる幸福感は、外界に依存して生まれて
いる幸福感です。
ーー そうですね。
住職: 富だろうと名声だろうと
家族だろうと、外界に依存した
幸福感は、すべて無くなったら
却って辛くなるものです。
まあ当たり前ですが……
ーー はい、、、。
住職: 無くなると、かえって苦痛を
味わう対象に幸福を求めて依存しても、
無意識は、それが未来には失われることも、
またそれが未来の苦しみの種であることも
知っています。
ーー 無意識は幸福を感じては
いないのでしょうね。
住職: 一方、無くならない幸福という
ものがあるんです。
ーー どんなものですか?
住職: 例えば、宇宙大霊に
自分は愛されているという実感です。
言わば、「神様が自分を愛して
くださっているという幸福感」です。
ーー へぇー。
住職: これは、宇宙大霊が宿って来る
ことによって起こります。
ーー そうなんですか、、、。
住職: この幸福な体感を、他の人に、
分かち与えていくことが、真の幸福だ
と思います。なぜならこれは、他の人に
分かち合っていく限り、
いつまでも失われることがないからです。
ーー そんな幸福感があるものなんですね。
それを分かち合う生き方をすることが、
真の幸福なんですね
明るい未来が現象化するのは?
住職: この幸福感をもって世界を観ると、
全然違って見えます。
「私は誰にも愛されていない」とか
文句は言わなくなりますしね。(笑)
むしろ「いやーありがたいな」
という感じになります。
ーー そうでしょうね。
住職: 幸福感とは、外的なこととは
無関係です。
湧き上がって来て、かつ分かちあうことで、
世界に広がっていくものです。
ーー そのような体験は
どうやって得られるのですか?
住職: タオサンガには、その体験を得る
ためのワークショップをやっています。
そこで体験するのは、宇宙大霊である
如来の大愛を実感することです。
ーー へー!!
住職: いつもそのような心身の状態
だったら、未来は明るいです。
ーーそうなんですか!
住職: 自分は宇宙大霊に愛されている
という実感。これは、世界に愛されている
というメッセージを自分の無意識に伝える
ことになります。
ーー そうなんですね!
住職: すると、自分の未来は明るい
というメッセージが、自分の「無意識」
に伝わるんです。
ーー いいですね!
住職: 無意識が明日の現象を創りますから、
如来に愛されている実感は、人生において、
明るい未来を現象化させるのですよ。
ーー そうなんですね!
住職: ところで、坊さんに人生相談する専門サイトに、
「仏教でいう幸せとは何ですか?」という質問が来て、
答えたことがあります。
仏教における幸せとはなんでしょうか?
修行を積んで悟りを得ること? 煩悩を滅し苦しみから解放されること? 私にはよく分かりません。 (つぐみ女性/20代) |
<答え>
一般的に、人間が「幸福感」を感じるのは、例えば、”美味しいものを食べた”、”彼女彼氏ができた”、”昇進して家が買えた”、”宝くじに当たった”などなどだと思います。
これらは全て、その逆の状態であってこそ感じるものです。
飢餓の状態から”美味しいものを食べれた”、孤独だったけど、”彼女彼氏ができた”、ヒラでアパート暮らしだったけど、”昇進して家が買えた”、貯金なかったけど、”宝くじに当たった”などなどだと思います。
これらは、自分に幸福感を与えている、それら外的な材料がマイナスになった時は、「不幸」になるものです。
それに、幸福というのは言ってみれば幸福感のことで、人間は幸福をもたらした外的刺激にはすぐに慣れてしまいます。お腹いっぱいの時は、それ以上食べても幸せを感じません。
美味しいものを食べるのが日常であれば、飢餓の時に食べたラーメンほどに美味しさや幸福は感じません。
せっかく彼氏彼女ができても、やがて他に目移りするし、それに遅かれ早かれ肉体は時間とともに劣化します。昇進も家も時間が経てば、大なり小なり不満を感じるようになるし、定年もあれば家には耐用年数もあります。
1兆円持っている億万長者が一億の宝くじに当たって、天にも登るような気持ちになるでしょうか?
外的なものがもたらす幸福は、それらを持っていない不幸をよりどころとして感じるものです。
また、死とともに失われるものです。
さて、前置きが長くなりましたが、仏教修行によって得られる幸福というのは、一般で言う外的な幸福ではなく、肉体を超えた圧倒的「幸福の霊的体感」なのです。(肉体を超えて、と言いながら体感というのも矛盾しているのですが、他に表現がないので、、、)
それは、肉体を感じない「空性」から湧き上がるように感じる歓喜で、外的なものがどのような状態であろうと関係なくもたらされるものです。
また、心身が日常的にその状態になる幸福感であり、しかも時間と共に増えていくもので、時間と共に劣化する肉体や物質とは真逆ですね。
仏教であまりそのようなことが語られていないですね。無とは苦とかの表現は多いけど(^ ^)
まあ仏教が、馬の前に人参ぶら下げるような「利益誘導的」なお誘いをしないからですかね。