和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。
喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?
遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/
第三十七回
――第三十五回で、久美子ハウスのサンチさんに止められながらも、宿の仲間に見送られバラナシ駅に向かったそうですが?
住職:はい。夕方になって宿を出発しました。もっとも、夕方になったところで、灼熱の大地が涼しくなる気配はまったくありませんでしたが。
――そうとうな暑さなんですね、、。
住職:でも、居心地の良さに埋没してしまうのがイヤだったし、そんな自分を振り切るように、リキシャに乗って街に飛び出したんです。
――そうですか、、。
住職:そしてバラナシの駅に向かったんですが、もちろん駅の周囲は、人、人、人の洪水です。相変わらず、乞食、物売り、その他のわけのわからない人たちに囲まれます。
そうして押し合いへし合いしながら、ムッとする暑い構内の切符売り場で、長蛇の列に並びました。
――いやー、本当にすごいですね。想像しただけでもその状況に負けそうな気がします。
住職:実は僕も、ようやくデリー行きの切符を手にした時は、疲労と暑さと人当たりで、すでにへたりこみそうな気分でした。
しかしたら、この時、すでに何らかの身体的な予兆があったのかも知れませんけど。
――ああ、なるほど、、。
住職:駅で適当に食堂を探し、激辛のあまり、口が痛くなるようなカレーを食べた後、ホームに座り込 んで電車を待ちました。
そして何時間か後にやっと電車が来たのを発見しました。
でも、入り口が開くと、まるで朝のラッシュアワー時の山の手線のような状態でした。
――うわ~。
住職:リュックを背負って突進して身体をねじ込み、何とか出発しました。
10数時間は忍耐する覚悟で、床に座り込みました。
――過酷、、。
住職:ところが深夜近くになって、電車が故障したとかで、わけのわからない駅でストップ。
さらにプラットホームで電車を待つことになりました。
――気が休まりませんね。
住職:当時のインドの旅では、こんなハプニングは当たり前のことでしたね。
だから、やれやれ、と思っただけで、特に驚きもしませんでした。
――そうですか、、。
住職:やがて、1、2時間後に来た電車に乗り込んだら、すいていたので横になることができ、助かりました。
――よかったですね!
住職:でも、この頃から、何だか身体が熱っぽい状態になって来てしまいまして。
――そうでしたか、、、。
住職:今から考えると、マラリアの予兆だったのかも知れませんし、あるいは脱水症状だったのかも知れません。
あまり水を飲まなかったから。
――そうなんですか?
住職:その頃って、脱水状態にならないようにたくさん水を飲むべきだ、とかの考えが、あまり一般には普及していなかったんですね。
それに、当時のインドには、ミネラルウォーターもなかったと思います。
――そういえば、水分補給のことを言うようになったのは、わりと最近ですもんね、、。
住職:で、ぐたー、っとしていたら、やたら変な青年が話しかけてきたんですよ。
おまえ日本人か、ならペンパルになってくれ、とか言ってきて。
――インド人ですか? 調子悪そうにしているのに「ペンパル」とは、、(笑)。
住職:こっちは具合悪いし、「オレいつ日本に帰るかわからないから」とか言って、適当に話だけつき合っていたんですが、最後は、「ちょっと調子悪いんで」と言って、横になって休みました。
――それでも途中まで付き合うところが、住職ですね、、。
住職:いやまあ、、、で、彼が降りる時、僕に紙を渡して言ったんです。
――「お大事に」とかのメッセージでも書いてあったんですか?
住職:何だろう?と思って開けてみたら、ナンと
「日本人のペンパルを探してくれ。オレの趣味はダンスだ!」でした。
――あはは。あくまで自分本位。
住職:最後に、住所と自分の名前が書いてあって、いやー、もうあれは、ギャフン!でしたね。
――あはは。それにしても「ギャフン」って、久しぶりに聞きました(笑)。
住職:あっ、古かったか。で、さらにまた電車が止まりまして、、、。
――え、またですか?具合が悪いのに、おつらかったでしょうね。
住職:そこで降ろされ、再び待ってと、もう訳が分からない。
――ええ、、。
住職:「もう、何でもいいや」と、とにかく次に来た別の電車に、エイや! で、目をつぶって乗りました。
――えー!
住職:、、、が、これがインドの金持ちが乗る特等列車だったんです。
冷房がガンガン効いている高級列車。
――へーっ!!
住職:やがて車掌が来て、金払え、というんですが、僕は「そっちの故障で止まったんだからそっちの責任だろー」とか言いはりまして、、、。
――調子悪いときでも、バックパッカーやっていたんですね。
住職:まあ僕にしてみたら、デリー以降も、陸路での旅を続けるつもりだったので、当たり前といえば当たり前なんですが、、、。
根性で、がんばり通したら、インド人車掌がとうとう根負けして、僕に座席をくれました。
――よかった!
住職:デリーに着いたらもう昼近く。バラナシを出てから、20時間ぐらいがたっていました。
――相当に消耗したでしょうね、、。
住職:とにかく宿をみつけなきゃと思い、フラフラしながら、うろうろ探しまわって安宿を取りました。
――やっと、、。
住職:もちろん、クーラーなどなく、またバラナシで泊っていた、ガンジス川からそよ風が流れるような部屋でもありません。
まあ極端に言えば、24時間ミストサウナにいるような、ただ忍耐だけを
要求するような宿でした。
――すごそう、、。
住職:それでも、その後は、デリーからアムリトサルに北上し、国境を超えてパキスタンのラホールに向かうつもりでしたから、僕にしてみたら、別に当たり前という感じでした。
――、、、。
住職:何せ、生死を超えるような過酷な旅を自分に課すつもりで、日本を出たのですから。
――はい、、。
住職:パキスタンの後にはイランの砂漠地帯をバスで行くのが予定でした。
だから、こんな程度のことでへこたれているわけにはいかなかったのです。
―続く―