和田寺の住職は、タオ指圧/気心道の創始者、音楽家など、様々な顔を持つ遠藤喨及(りょうきゅう)さんです。
喨及さんにインタビューして、さまざまな質問に答えてもらいます。
一体どんな言葉が返ってくるのでしょうか・・?
遠藤 喨及
東京に生まれ、少年期をニューヨークで過ごす。浄土宗和田寺住職、タオ指圧/気心道創始者、ミュージシャン、平和活動家、ゲーム発明家など、さまざまな顔を持つ、タオサンガ・インターナショナル代表。 1990年頃より、北米各地、ヨーロッパ各地、中東、オセアニアなどの世界各地で、タオ指圧、気心道、また念仏ワークショップ等を行い始める。 また、それらの足跡によって、世界各地のタオサンガが生まれ、現在、各センターは、仏教の修行道場、タオ指圧*気心道などの各教室、海外援助を行っている。 遠藤喨及個人ブログページもご覧ください。 http://endo-ryokyu.com/blog/
タオサンガ篇(11)
-- 前月にご紹介いただいた、かつて住職が師事されていた、元特攻兵でゼロ戦パイロットだったお上人の法話を読ませていただきました。一回や二回読んだだけでは、とても理解できないような深い内容です、、。ですが、わからないなりに、それでも一言一言をかみしめて読みたくなります。
住職: そうですね。
-- 最後のほうにあった言葉、「親(如来)様をお念じ申して行こう。どうぞ、お念じさせてください、と。」というところに、特に「・・・どうぞお念じさせてください」という言葉に、何か、、はっとさせられました。
住職: はい。
-- ところで住職は、阿弥陀如来の実在を体験して、精神的には宇宙大霊の温かさに包まれるようになりながらも、、「その後、自分がどう修行を進めて行ったら良いのかが、まるで見当がつかなかった」とおっしゃっていましたが、その後は、どうされたのですか?
住職: これは説明が難しいのですが、実在の阿弥陀様により、心身が根こそぎ救われるという体験をしているにも関わらず、季節が巡って来ると、それ(心身が絶対的にコンフォタブルな状態)と並行して、同時に苦しみが同居するというようなことも、周期的に起こるんです。
-- 住職は、そのお上人に、ご自分の心の苦しみについて話されたりはしなかったのですか?
住職: 昔かたぎの九州男児で、法話以外はほとんど話というものをしない人でしたからね、、、。
-- そうだったんですか、、、。
住職: それに、戦時中の特攻兵だった、という当時のお上人の苦しみと、僕のように精神的なものによる苦しみとでは、苦しみの質が違います。だから、共感してもらった、ということはなかったですね。それはそれで仕方がないことなのですが、象徴的な出来事があって、結局、足が遠のくことになりました。
-- それは、どんなことだったのですか?
住職: 具体的には、いくつかあるのですが、例えば「どのように念仏を伝えていくか?」について、僕が考えてやって来た方法論は、理解してもらえませんでした。正直僕は、“それでは念仏は広まらない”と思っていたのです。
-- うーん、、、。住職の方法論は理解されなかったのですね。
住職: また念仏修行についても、お上人の指導と僕が体験した時に行った方法論とでは、異なるものがありました。もちろん僕は弟子として、その後、お上人の方法論に従って念仏するように転換しました。しかし、それによって自分が体験した世界を深めていくことはできませんでした。
-- 指導に従っていても、心を深めていけないと、、、?
住職: なので、時には経典に書いてあった「白毫相を念じれば、仏の三十二相が現れて三昧に入る(悟る)」、という方法をしばらく続けてみることもありました。が、それもまた、思うような境地は、得られませんでした。
-- はい、、、。
住職: それからこれは、1回目の旅でインドでマラリアにかかって帰国した頃の事です。
地方の治療院を三ヶ月ほど手伝った僕は、経絡の診断と治療ができるようになっていました。僕は東京に戻ってアパートを借り、出張治療と並行して部屋で治療することにしたんです。
-- インドでマラリアにかかったのは、、そのころのことだったのですね、、。
住職: そこで、書家でもあったお上人の所まで行き、「経絡指圧診療所」という看板を書いて頂いたのです。しかし驚いたことに、僕は帰りの新幹線で、その看板を忘れてきてしまったんです。しかしその時、それが何だか象徴的な出来事のような気がして、なぜかすぐに諦めた自分がいたのです。
-- ああ、、そうだったのですね、、。
住職: 翌朝、僕は夢を見て起きました。夢の中の僕は、お上人の寺に行き、外から何度も声をかけていました。でもお上人は、決して返事をしてくれないのです。僕は夢の中で、“どんなに頑張っても、お上人に僕の気持ちは、理解してもらえないんだ”と思っていました。、、、そこで目が醒めたんです。
-- 切ない夢ですね。
住職: それからの僕は、なぜか気持ちはあっても、まるで次元がバタリと変わったように、お上人に連絡することも、またお寺に行くこともなくなってしまったのです。
-- それは仕方のないことだったのでしょうね、、。
住職: 7、8年ぐらい前のことだったと思いますが、僕はなぜか、お上人のことを何度も何度も思い出していました。そして、これまたなぜか、“亡くなる前に息子の結万に会わせた方が良いのではないか?”などという妙な考えが浮かんでいました。
-- どうしてなんでしょう?
住職: 戦時中の話を聞かせてやってください、と頼もうと思っていたのですが、息子をダシに、会おうとしたのかも知れません。(笑)
-- どこかでお上人にお会いしたかったのでしょうか、、?
住職:やはり弁栄教学を教えて頂いたということのお礼を、ちゃんと伝えたかったのだと思います。でも、ためらっている内に時間が過ぎてしまいました。やがて、本の原稿執筆(「タオ指圧、東洋医学の革命」と「究極の経絡メソッド」(ヒューマン・ワールド)で無理を重ねた僕は、眠れず食べられずという、ほとんど病気のような状態になってしまっていました。
-- 壮絶なことになっていたのですね、、
住職: どうしようか? と考えあぐねた僕は、最後に栃木の山に登り、山の中で念仏していました。すると山中で、携帯電話がかかって来ました。それは「お上人が亡くなった」という知らせだったんです。
-- ああ、、、。
住職: そして僕は、30年ぶりにお上人のお寺に行きました。その時、お上人の奥さんとも久しぶりにお会いしたんです。そうしたら、つい最近、奥さんと息子さんとで、僕の話をしていたそうです。
-- お互いに、虫が知らせたのでしょうね。
インタビュー後記:
はじめのころは、お上人の法話を聞いていても寝てばかりだったり、別時に参加されても、寝てばかりだったりだった住職が、やがて、法を伝えようとされ、僧侶にもなられた。お上人がどのようなお気持ちだったかは、想像するしかありませんが、住職の純粋な心はお上人に伝わって、今はお喜びになっていると、そんな気がいたします。
次号では、住職がさらにどのように修行を進められていったのかを聞いてみたいと思います。